第62話 建国
重厚な石壁に囲まれ、蝋燭の炎が微かに揺れる秘密会議室。
建国という名の巨大な歯車が回り始めたその静寂を、切り裂くような衝撃が襲った。
激しく扉を叩く音が、幾重にも重なって室内に響き渡る。
「失礼いたします! 至急報にございますッ!」
転び入るようにして現れた急使は、肩を激しく上下させ、顔を紅潮させていた。
その瞳には、信じがたい奇跡を目の当たりにした者特有の歓喜が宿っている。
「マリエール様が……聖女様が、たった今ご覚醒されました! お身体の機能に目立った異常はなく、驚くべきことに、ご自身の足で立ち上がることも可能とのこと。……そして、『会議の内容はすべて聞き及んでいる。私もその場に加わりたい』と仰せですが、いかがいたしましょうか!」
その瞬間、常に鉄の仮面のような冷静さを保ち、感情の機微さえ見せなかったアルベール先王が、背後の椅子を撥ね飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。
「何をしている! 早く、早くお連れしろ! 粗相のないよう、一歩一歩を敬いながら、丁重にお迎えするのだ!」
先王がこれほどまでに狼狽し、喉を震わせて大声を出す姿を、将軍たちも文官たちも初めて目にした。
室内には、驚きと安堵が混ざり合った奇妙な熱気が渦巻く。
しかし、先王の指示はそれだけでは終わらなかった。
彼は一度深く息を吸い込むと、さらに鋭い声音で命じた。
「――そして、影の聖女もだ。エミリという名の娘も、共にこの場へ連れてまいれ! 一刻の猶予もならん!」
終わったはずの会議は、席を立った出席者を無理やり引き戻す形で再開された。
エミリという名の「影」の存在を知らぬ文官たちは、互いに顔を見合わせ、戸惑いの囁きを交わす。
だが、先王は彼らを射貫くような眼光で一喝し、室内を凍りつかせた。
「皆、よく聞け。これからこの部屋に入る『もう一人のマリエール』こそは、我が国家が抱える秘中の秘、アルシエルの心臓そのものだ。もし他言する不届き者がいれば、その一族郎党、この私が地獄の底まで追い詰め、根絶やしにしてくれる。……もはや、この場にいる者は全員、一蓮托生の覚悟を決めてもらうぞ」
文官たちが震えながら沈黙に沈む中、先王は将軍たちを一人ずつ見据え、残酷なまでの現実を突きつけた。
「マリエールには女王戴冠を認めさせる。だが、それは一人ではない。影の聖女……エミリもまた、女王の半身として、死が二人を分かつまでマリエールと共に過ごしてもらう必要がある。光が強ければ影もまた深くなる。その深淵を、彼女一人に背負わせるのだ」
先王の表情は、先ほどの歓喜から一転し、冷徹な統治者のそれへと変貌していた。
「影の聖女エミリには、あまりに酷な条件を飲んでもらうことになる。今日この時をもって、実家との情はすべて断ち切ってもらう。エミリという娘はこの世から消え、家族も過去も剥奪され、死ぬまで『聖女の影』として影のごとく生きるのだ。……その代償として、彼女の実家は子爵に叙し、終身、金と名誉には困らせぬと約束しよう。可哀想だが、両親には彼女の死を告げねばなるまい。国家を救った英雄として、墓標だけを家族に返すのだ」
アルベールの言葉は、重く、淀みなく続いた。
「……そして、本物の聖女、マリエールの実家は公爵に任じる。公に聖女の両親として敬うことも許そう。だが、政治の枢機には一切触れさせることはできん。これは、あの娘たちが命を懸けて守り抜いた民と、この国の安定を維持するための絶対的な防壁だ。情に流される余地など一寸たりともない」
その時、部屋の最奥にある重厚な扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと左右に開かれた。
そこには、長い眠りの影響でまだ青白い顔をしながらも、神々しいまでの気高さを湛えたマリエールが立っていた。
そしてその半歩後ろ。マリエールと全く同じ歩幅、寸分狂わぬ呼吸で、静かに付き従うエミリの姿がある。
エミリの表情には、もはや「一個の人間」としての迷いや未練は微塵もなかった。
実家を捨て、名を捨て、親友に殉ずる覚悟が、その瞳に静謐な炎となって宿っている。
「マリエール様、そして……エミリ殿」
レオンハルトが、全霊の敬意を込めて、深く、深く頭を垂れた。
それに続くように、ガストンも、エティエンヌも、荒々しい武官たちが一斉に膝をつく。
マリエールは、会議室の中央に毅然と立つ先王を見つめ、静かに、しかし決然とした声で唇を開いた。
「……すべて、聞き及んでおりました。先王陛下。私の命、そしてエミリの人生。そのすべてを捧げ、この新しいアルシエルの礎となることが、私に残された『贖罪』であるならば……。私は謹んでお受けいたします」
彼女がエミリの手をそっと握りしめると、燭台の灯りに照らされた二人の影は背後の壁に大きく映し出され、寄り添うように一つに重なった。
アルシエル王国。
光と影、二人の女王による統治という、歪で、しかし最も美しい伝説が、今ここに幕を開けたのである。




