第55話 書き換えられる戦場
ノワール半島の付け根、深奥へと続く『フォレ・ド・オンブル(影の森)』は、乳白色の深い霧に閉ざされていた。
視界はわずか数メートル。
湿り気を帯びた空気が、これから流される膨大な血の匂いを予感させるように重く沈んでいる。
午前六時。
マリエールの指揮のもと、第一軍を率いるレオンハルトと、第六軍のマキシムが予定通りに動き出した。
彼らの任務は「偽装敗走」。
圧倒的な敵の軍勢に圧されているふりをして、敵を森の奥深くへと誘い込む。
しかし、本陣の小高い丘から戦場を俯瞰していたマリエールの瞳に、かすかな、しかし拭い去れない疑念がよぎった。
「……おかしいわ。敵の先遣隊の動きが速すぎる。まるで、私たちが森のどの地点で反転し、迎撃に移るかを作戦会議の場にいたかのように熟知している……」
マリエールの背筋に冷たい戦慄が走る。
前世での敗北の記憶、冷たい火刑台の炎が不吉な予兆となって脳裏をかすめ、彼女の呼吸を乱した。
「ロラン将軍! すぐに左翼の伏兵をあと三百ヤード後退させて! 敵はこちらの『殺傷圏(敵を集めてボコボコにするポイント)』を意図的に避けて通ろうとしている。このままでは包囲網に穴が開くわ!」
マリエールの悲痛な叫びに、傍らに控えていた将軍たちは静かに視線を交わした。
彼らの手元には、カイルが命懸けで持ち帰った「王の裏切り」という残酷な真実がある。
マリエールが「予感」として感じている恐怖は、彼らにとってはすでに確定した「事実」であった。
「……マリエール様、ご安心を」
ガストンが、いつになく穏やかな、しかしその瞳の奥にどす黒い凄みを湛えた笑みを浮かべて歩み出た。
「敵がこちらの裏をかこうとしているのなら、それこそが我らの望むところ。奴らが『策に嵌めた』と確信した瞬間こそが、最も脆く、最も隙が生まれる時ですから。……どうか、我らを信じ、このまま作戦を進めさせてください」
彼らは、マリエールにだけは、王クロヴィスの醜悪な裏切りを知らせたくなかった。
彼女の清らかな正義、命を懸けて国を思おうとする真っ直ぐな心に、身内から投げつけられた汚泥を触れさせるわけにはいかなかった。
それは、一人の聖女を慕う男としての、そして騎士としての矜持であった。
その言葉、その表情、そして将軍たちが纏う異様な殺気。
マリエールは、聡明さゆえにすべてを察した。
(これは単なる情報の漏洩ではないわ……。いいえ、この動きは明確な『裏切り』ね。そして、私の作戦を知った敵が取る戦法は、脆い部分からの一点突破、そこから主攻の背後へ展開しての逆包囲……)
マリエールは冷静に戦盤を読み解き、わずかに口角を上げた。
その瞳からは恐怖が消え、冷徹な軍師の光が宿る。
(主力は展開せずに直進、狙いはこの私。でも、将軍たちは逆にそこへ誘導するつもりね。私に辿り着くまでに細長く伸び切った敵の戦線は、どこも脆弱になる。そこを叩くのではなく、あえて海側へ追い落とす全面包囲……。海側に殺到する敵は徒歩で、重装備のまま逃げ場を失い、完全に崩壊するわね)
「ふふ……。私の作戦よりずっと、敵が可哀想だわ。私は、将軍たちにすべてを任せるのが仕事なのね」
その頃、峻険な岩肌が続く山道では、帝国軍の将軍オズリックが歪んだ野心に声を震わせていた。
彼は二十三万という圧倒的数に奢り、敵王から得た「確かな情報」を疑いもしなかった。
「いいか! 奴らの作戦は全部分かっている! 聖女を最初に捕らえた者には、望むままの地位と莫大な恩賞をやる! さらに……一日、その女を自由にしてよい権利を与えよう! 鎧を剥ぎ取り、その足の腱を断て! 泣き叫ぶ聖女を、皇帝陛下へ捧げるのだ!」
兵士たちの下卑た歓声が山々に反響し、不浄な熱気が霧を揺らした刹那――。
シュッ、という無数の風切り音とともに、ソフィア率いる狙撃大隊の矢が、森の暗がりから至近距離で放たれた。
黒く塗られた石弓の矢は、深い霧の中で視認することなど不可能。
それは鎧の隙間、首筋、眼窩へと次々に吸い込まれていく。
「なっ……がはっ!?」
喉を貫かれたオズリックが、信じられないという表情で仰向けに倒れ込む。
狭い山道で急停止などできるはずもなく、後方の数万の兵たちが、悲鳴を上げる彼を無残に踏み潰していった。
かつて将軍と呼ばれたものは、絶え間ない軍靴の響きの中で肉を粉砕され、自軍の進軍を阻害するだけの、ただの滑りやすい赤い泥へと姿を変え、道と同化していったのである。
「伏兵だ! 左右から撃たれているぞ! 怯むな、押し通れ!」
怒号が飛び交うが、全戦線で「処刑」が始まっていた。
崖上から降り注ぐ巨大な岩と矢の雨が、二十三万の軍勢を横から物理的に圧縮していく。
逃げ場を失った兵士たちは、互いの鎧と重みで圧死し始めた。
聖女を狙い、一点突破を信じて突き進んだ帝国の最前線部隊は、細長く伸び切った末に、前方からレオンハルトの鉄壁の槍衾に阻まれた。
「退け! 後ろへ退け! 押し潰されるぞ!」
だが、逃げる場所などどこにもなかった。
後ろに退こうにも、狭い道はすでに自軍の兵と折り重なる死体で埋まり、物理的に一歩も動くことが叶わない。
そこへ、将軍たちが用意した「地獄の網」が完成した。
海側へと追い詰められた敵兵たちは、唯一開いた空間――波打ち際へと殺到する。
しかし、山道から押し流される数万、数十万の肉の圧力を、人間が耐えられるはずもなかった。
「うわあああ! 押すな! 落ちる、落ちるっ!」
重い鉄甲冑を纏った兵士たちは、一度海へ突き落とされれば、浮かび上がる術はない。
泡を吹いて海の底へと沈んでいく。
「助けてくれ!」という最期の悲鳴は、背後から押し寄せる味方の圧力に肺を潰され、ぐしゃりと音を立てて消えていった。
二十三万の軍勢は、戦う前に自らの「数」という名の暴力に押し潰され、崩壊していったのである。
ところがその時。
マリエールは、本陣を護る将軍たちが気づかぬ「唯一の死角」を目撃した。
険しい獣道を抜け、エティエンヌ部隊の背後へ、音もなく、しかし確実な殺意を持って肉薄する帝国一個騎士団。
「……あそこだけは、絶対に行かせない!」
マリエールは愛馬の腹を蹴り、疾風の如き速度で森を駆け抜けた。
「マリエール様! お待ちください、みんな!マリエール様を行かせてはなりません!!」
護衛任務に就いていたイザベルが絶叫し、必死に後を追う。
しかし、愛する騎士たちを救おうとする聖女の執念は、精鋭の速度をも凌駕していた。
エティエンヌが前方への対処に追われ、背後が無防備になったその瞬間に迫る敵騎士団。
マリエールは馬上で、眩い光とともに『ウリエルの剣』を顕現させた。
その剣を抜くことは、自らの命という名の蝋燭を、自ら吹き消すことに等しかった。
右手に顕現する『ウリエルの神剣』は、太陽の如き輝きを放ちながら、その代償としてマリエールの魂そのものを、白熱の熱量で焼き焦がしていく。
(……これでいいの。誰の血も、誰の涙も、もう見たくないから)
味方の兵たちの死と慟哭を浴びる代わりに、彼女は自分の命が削れる乾いた音を聞くことを選んだ。
一振りの閃光が敵騎士を薙ぎ払うたび、彼女の魂は少しずつ、けれど確実に摩耗していく。
それは、前世で積み上げた罪の山を、今世の自傷という焔で焼き尽くそうとする、静かな贖罪の儀式であった。
けれど、その苛烈な覚悟の隙間に、ほんのわずかな、淡い色彩の「願い」が混ざることを、彼女は否定しきれなかった。
(見ていて、みんな。……一度だけでいいの。泥にまみれ、火刑台で灰になったあのみじめな私じゃなくて、この光の中で、戦っている私を……覚えていてほしい)
誰かに縋ることも、守られることも許されなかったかつての孤独。
だからこそ、神の光を纏い、誰よりも凛として剣を振るう自分の姿を、愛する者たちの瞳に焼き付けたい。
それは聖女の義務でも、罪人の罰でもない。
ただ、十五歳の少女が最後に求めた、自分という存在へのささやかな「誇り」の欠片だった。
彼女が神剣を振るうとき、そこには三つの祈りが重なっていた。
一つは、愛する兵の、民の盾となり、不用の血を流させぬための慈悲。
一つは、消えぬ前世の火刑の熱さを、そして償いきれない罪状を、自らの命を削る痛みで上書きせんとする、痛切な後悔。
そして最後の一つは、誰にも愛されなかった過去の自分を救うように、「今の私は、こんなに格好いいのよ」と微笑んで見せたい、あまりに人間らしい虚栄。
その三つが綯い交ぜになった光の軌跡こそが、アルシエルを救い、そして彼女自身を静かに終わらせていく、残酷で美しい「聖女の生き様」そのものであった。
「退きなさい……私の騎士に、触れさせはしない!」
異変に気づいた敵兵の一人が、震える手でクロスボウの引き鉄を引く。
しかし、放たれた凶弾は顕現した『ウリエルの盾』を穿つこと叶わず、ただの光の屑となって虚空へと霧散した。
純白の連撃。
エティエンヌが気づかぬその背後で、敵一個騎士団の31名は、後背から「なます斬り」にされ、一瞬で物言わぬ血の海へと沈められた。
背後に響き渡った凄絶な絶叫に、エティエンヌが驚愕して振り返る。
そこには、折り重なる死体の山を背に、肩で激しく息をするマリエールがいた。
白銀の鎧は尋常ではない脂汗に濡れ、その顔色は、もはや死人のように蒼白だった。
「……ここだけが、唯一の死角だったの。エティエンヌ……あなたが、無事で、本当に、よかった……」
微笑むと同時に、マリエールの口から鮮血が溢れ出した。
彼女の体は、糸が切れた人形のように馬から崩れ落ちた。
「マリエール様ぁぁぁーーーーッ!!」
遅れて辿り着いたイザベルが、悲痛な叫びを上げて彼女を抱きとめた。
出陣前、あんなに力強く「指一本触れさせない」と誓ったのに。
彼女の柔らかな肌に触れているのは今、敵の汚い指ではなく、彼女自らの内側から溢れ出した、熱く、赤すぎる血だった。
イザベルはその血を拭おうとしたが、自分の手が敵の返り血で汚れていることに気づき、絶望に打ち震えながら、ただ彼女を抱きしめて号泣した。
マリエールが倒れたその瞬間、戦場には終焉が訪れていた。
二十三万の敵軍は全面降伏。
戦死10万、重傷及び行方不明7万、捕虜6万。
対する王国軍の損害は、わずか6,000。
歴史に永遠に刻まれるであろう、圧倒的な大勝利であった。
しかし、本陣に横たわるマリエールを囲み、集結した将軍たちの顔に、勝利の喜びは欠片もなかった。
「損害6,000で、二十三万を壊滅させたか……」
レオンハルトの呟きに、ガストンが血の滲む拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「主君に命を削らせて、自らの血を吐かせて得た勝利など……騎士にとっては屈辱以外の何物でもない!王が、あの男が情報を売らなければ、マリエール様がここまで無理をされる必要はなかったのだ。……彼女を殺そうとしたのは、敵ではない。あの王座に座る、醜悪な蛆虫だ!」
エティエンヌが、マリエールの冷たくなっていく手を握りしめたまま、凍てつくような殺意を瞳に宿して立ち上がった。
落ちる涙は止まることを知らないが、その表情はすでに修羅のそれであった。
「私の失態だ……。私が、背後を……」
「自分を……責めるな、エティエンヌ。我ら全員の責任だ」
ガストンとジャンが、エティエンヌの肩に手を置き、静かに、しかし決然と告げた。
「……全軍に伝えろ。休養は一切不要だ。このままアルシエルへ進軍する。……王が売った二十三万の命の末路を、そして一人の少女の命を削った代償を……あの男の目に、身体に、焼き付けてやる」
捕虜と負傷者を引き受けた騎士団を残して、主力三万の軍勢は帰路につく。
彼らは戦勝の凱旋の歌を歌うことはなかった。
愛しき主君の命を削らせた王への、苛烈な復讐を胸に。
彼らは死神の如き殺意を纏った行軍で、王都へと馬首を返した。
先頭を行くのは、エミリ。
彼女の掲げる旗は、もはや王国を讃えるものではなく、不浄を焼き尽くす「断罪の旗印」であった。




