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第47話 灰色の群狼

 月光が、オセルの執務室の窓から青白く差し込み、床に冷淡な影を落としていた。

 静謐をたたえたその部屋に、マリエールは数人の若者たちを呼び寄せる。

 彼らの衣服からは、まだ昼間のスラムの泥の臭いと、獣のような荒い吐息が完全には消えていない。


「カイル。あなたたちに、私の直轄部隊として最初の仕事を頼みたいの」


 マリエールは、机の上に広げた古びた地図を指し示した。

 その指先は白く細いが、迷いはない。

 彼女のサファイアブルーの瞳には、慈悲深い聖女のそれとは異なる、氷のように鋭い軍師の光が宿っていた。


「目的地は、南西部の要衝――要塞都市フェラン。そして、それに隣接する港湾都市ブラン。……どちらも、王国遠征軍が正面からぶつかれば、数万の犠牲が出る難所よ。だからこそ、表の軍隊には決してできない『影の仕事』が必要なの」


 地図を覗き込むカイルの双眸そうぼうが、獲物を狙う獣のそれへと変貌する。

 マリエールは、淡々と、しかし容赦のない精度で指示を重ねていった。


「兵力や食糧の備蓄状況といった基本情報だけでは足りないわ。下水道の正確な配置、城壁のわずかなひび割れ、守備兵が夜な夜な酒を買いに出る秘密の裏口……。都市の毛細血管に至るまで、すべての情報を引き抜いてきてちょうだい。……潜入は困難を極めるでしょう。できるかしら?」


 カイルは、薄い唇を吊り上げ、不敵に笑った。 

 背後に控える十数名の若者たちと一瞬だけ視線を交わすと、彼はマリエールの前で静かに、しかし流麗な動作でひざまずく。


「お任せを、マリエール様。俺たちは元々、陽の当たる場所を知らねえドブネズミとして生きてきたんだ。下水と裏道の歩き方なら、重たい鎧を着た正規の騎士様たちより、よっぽど身体に染み付いてますぜ」


 カイル。

 後に「灰色の群狼」の首領として大陸全土の密偵たちに恐れられることになる男。

 背後で無造作に束ねられた彼の銀髪は、月光を浴びるたびに凍てついた滝のような硬質な輝きを放つ。

 夜風にさらさらと流れるその様は、この世のものならぬ静謐さをまとっていた。

 それは太陽の祝福を受けた華やかな白金ではなく、孤独な冬の月が地上に落とした影の色彩であった。


 切れ目の瞳は、獲物の急所を一突きで射抜く氷のくさびに似ている。

 長く伸びた目尻は、世を呪ってきた深い憂いと、主をいただいた冷徹な意志を同時に宿していた。

 その双眸が細められるとき、そこには一握の慈悲も、一寸の迷いも存在しない。

 ただ、主であるマリエールが望む「結果」だけを、暗闇の底から凝視している。


 その身体は驚くほどに細身であり、正規軍の重厚な鎧とは無縁の、しなやかな漆黒の革装束に包まれていた。

 余分な肉を一切削ぎ落としたその肢体は、常に飢えた狼のような緊張感を漂わせ、影から影へと音もなく渡り歩く。

 しかし、その細い指先、その薄い胸板の奥には、聖女の敵を一人残らず灰にするための、苛烈なまでの殺意と忠誠が、高密度のバネのように凝縮されていた。


 数日後。

 要塞都市フェランの周囲を王国遠征軍が重厚に包囲し始めた頃、カイルたちはすでに、影に溶けるようにして仕事を終え、マリエールの元へ戻っていた。


「報告します。フェラン内部は、もはや現世の地獄です」


 戻ってきたカイルの報告は、将軍たちが上げる斥候の報告とは比較にならないほど、生々しく詳細を極めていた。


「内部は極限の混乱状態にあります。逃げ込んだ四万の敗残兵に対し、備蓄物資が完全に不足。一部の狡猾な指揮官が食糧を独占し、飢えた末端の兵たちが市民への略奪を開始しています。人心は、もはや城主にありません」


 カイルは一枚の図面を広げた。そこには、城壁の構造上の欠陥が赤裸々に記されていた。


「物理的弱点はここです。都市の北東部、古くなった下水管の一部が城壁の基礎を侵食している。ここを少量の火薬で爆破すれば、容易に城内へ潜入可能です。そして……内通者の確保にも成功しました」


「内通者?」


 マリエールが眉を動かす。カイルは冷酷な笑みを深めた。


「現実を見ずに己の私腹を肥やし続ける上層部に反感を持つ、若手将校三名と接触しました。彼らには『聖女の軍が到着し、合図を送れば、内側から東門を開く』と約束させてあります。対価は彼らの家族の安全と、当座の金貨。……追い詰められた人間ほど、裏切りを安く売るものです」


 マリエールはその情報の質と量に、思わず目を見張った。

 前世の歴史では、この要塞を落とすためにマリエールたちは一ヶ月以上の包囲戦を続け、多大な損害を出したのだ。


「……素晴らしいわ、カイル。将軍たちに偵察を任せても、ここまでの『内情』は上がってこない。あなたたちは、私が思っていた以上に、鋭く優秀な狼ね」


 その賞賛を、扉の影で聞き耳を立てていたガストンは、かつてない焦燥感に駆られていた。


「……マリエール様。あの泥臭いガキどもに、それほどまでの大役をお与えになるとは。……これでは、我ら将軍たちの立場がございませんな」


 ガストンがむすっとした表情で、地響きのような足音を立てて現れる。

 マリエールは、その巨漢の騎士のふてくされた様子に、いたずらっぽく微笑んだ。


「あら、ガストン将軍。ねないで。彼らは私の『目』。あなたは私の『剣』。どちらが欠けても、私の望む勝利は掴めないわ。……でも、見て。これほど詳細な地図と内通者を、彼らが用意してくれたのよ? あとは、あなたが最も華々しく、そして兵の犠牲を最小限にして、このフェランを落とす舞台が整ったということでしょう?」


「……フン。これだけ餌を口元まで運ばれて、食い損ねるほど不器用ではございません」


 ガストンはカイルたちを鋭く睨みつけたが、その瞳の奥には、自分たちが入り込めなかった領域を荒らし回った若者への、武人としての敬意が隠しきれずに混ざっていた。


 報告を受け終えたマリエールは、独り言のように静かに呟いた。


「これだけの情報があれば、フェランの混乱を突いて、一気に中心部へ潜り込める。……ガストン将軍、私をフェランの最も高い尖塔へ連れて行って。そこで私が『神剣ウリエル』を抜けば、絶望した四万の敵は戦わずして武器を置く。……これが、今回の軍略の最後を飾る仕上げよ」


「……マリエール様」


 ガストンは今度こそ、逃がさぬように彼女の両肩をがっしりと掴んだ。

 その瞳には、主君への深い忠義と、それを上回るほどの「拒絶」が宿っている。


「その『仕上げ』に、貴女様の命を一滴たりとも削らせるつもりはございません。尖塔までは、このガストンが盾となってお運びしましょう。ですが、貴女様が剣を抜く必要などないほどに、我らがその絶望を希望に変えてみせます。……あの狼どもに、手柄を独り占めさせるわけにはいきませんからな!」


 マリエールの冷徹な知略と、新しく加わったカイルの隠密性、そして将軍たちの意地。

 三つの歪な力が一つに噛み合い、南西部最大の難所、要塞都市フェラン攻略の幕が今、静かに、しかし苛烈に上がろうとしていた。

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