第46話 影に授ける光
物流の要衝オセルは、表通りの活気とは裏腹に、迷宮のような路地裏をその胎内に抱え込んでいる。
陽光すら届かぬ湿った石畳、立ち込めるすえた臭い。
そこは、国家の法も聖女の慈愛も届かぬ、棄てられた者たちの領域であった。
「聖女だか何だか知らねえが、貴族なんてのは結局、俺たちの血を啜って肥え太る連中だ。綺麗事を並べたって、腹が膨れるわけじゃねえ」
スラムの深部、腐りかけた木箱に腰掛けた少年兵上がりの若者、カイルが吐き捨てた。
その手には、手入れの行き届いた鋭利なナイフが握られ、鈍い光を放っている。
彼の周囲には戦災で親を失い、飢えを凌ぐために盗みに手を染めてきた十名ほどの若者たちが集っていた。
皆、眼光だけは鋭く、社会に対する深い憎悪を隠そうともしない。
「いいか。身ぐるみ剥いで、あの小娘を拉致して身代金を取る。用が済んだら、証拠隠滅のために殺せばいい。そうすりゃ、この掃き溜めから逃げ出す金が手に入る。……明日には、白いパンを腹一杯食えるぜ」
カイルの声に、若者たちが喉を鳴らした。
彼らにとって、マリエールが掲げる「救済」も「平等の税制」も、腹を空かせた子供に語って聞かせるお伽話に過ぎなかった。
彼らが信じられるのは、指先に伝わる鋼の感触と、胃の腑を焼くような飢餓感だけだった。
作戦は、無知ゆえの大胆さに満ちていた。
まず、足の速い数名が表通りで将軍ガストンたちの私物にひったくりを仕掛け、激昂した護衛たちを入り組んだ路地の奥へと引き剥がす。
その隙に、手薄になったマリエールを袋小路へ追い込み、捕らえるという計画だ。
「今だ、行け!」
影の中から一人の少年が飛び出し、ガストンの腰から「あるもの」を奪い取った。
それは、マリエールから贈られた、銀のウリエルを模ったお守りであった。
「お、おのれぇぇ! その泥棒猫め! 待て、待たんかぁ!!」
ガストンは顔を真っ赤に染め、巨体に似合わぬ速度で少年の後を追い、迷路のような路地の奥へと走り去っていった。
静まり返った袋小路。
残されたのは、護衛とはぐれた格好の獲物である少女マリエールと、彼女を包囲するように闇から這い出てきた十人の刃物を持った若者たちであった。
「……お嬢ちゃん、恨みはないが、あんたの命は金になるんだ。悪いようにはしねえ、大人しく付いてきな」
カイルが獲物を追い詰めた獣のような笑みを浮かべ、マリエールの喉元にナイフを突きつけた。
だが、マリエールは悲鳴を上げることも、怯えて震えることもなかった。
彼女は逃げるどころか、むしろ静かに、カイルの懐へと一歩踏み込んだのである。
そのサファイアブルーの瞳には恐怖の色など微塵もなく、ただ深い慈しみと、すべてを見透かすような冷徹な知略の光が宿っていた。
「カイル。……弟のレオ君の熱は、下がったかしら?」
その一言に、カイルの全身が凍りついた。
突き出していたナイフが、ガチガチと小刻みに震え始める。
「……なっ!? なぜ、貴様が……弟の名前を……!」
「今、ガストンが追っていったあの子がレオ君でしょう? 家族のために幼い弟にまで泥棒をさせるなんて。……お兄さん失格ね」
マリエールは、この街の治安状況を事前に完璧に把握していた。
誰がリーダーで、誰がどのような事情で罪に手を染めているのか。
彼女の脳裏には、前世の記憶が冷徹な事実として刻まれている。
前世の歴史において、ガストンにひったくりを仕掛けたこの若者たちは、直後に「マリエールに対する誘拐未遂犯」として軍による苛烈な粛清を受けた。
彼らは凄惨な拷問の末にすべての繋がりを暴かれ、最後には見せしめとして公開処刑されたのだ。
その血に塗れた記憶が、マリエールの心を今も深く抉り続けている。
「私を誘拐し、殺せば、一時的な大金は手に入るでしょうね。でもカイル、その金をお前から誰が守ってくれるの? 奪う者は、より強い者に奪われる。最後には貴方も、その弟さんも、誰にも看取られず泥水の中で野垂れ死ぬだけ……。それが、貴方の望む『自由』という名の結末かしら?」
マリエールは自ら、カイルが持つナイフの切っ先を、自分の白い喉元にそっと寄せた。
「私を拉致する度胸と、家族を想うその執念があるなら、その力を、この王国を『裏』から守るために使いなさい。私はあなたたちに、汚名ではない本物の名前と、家族を養うための正当な給金と、そして――死んでも誰も奪えない『誇り』をあげるわ」
その瞬間、路地の奥からお守りを取り返したガストンが戻ってきた。
少年を小脇に抱え、マリエールが囲まれているのを見るなり、彼の殺気が爆発した。
「マリエール様ぁぁ!! その薄汚いドブネズミ共から離れてください! 今すぐ、このガストンの斧槍で細切れにして、一族郎党地獄へ送ってやりますぞ!!」
「待ちなさい、ガストン将軍」
マリエールは静かに片手を挙げ、今にも若者たちを圧殺しようとしていた猛将を制した。
彼女の背中は、小さくも揺るぎない王者の風格を湛えていた。
「彼らは今日から、私の『目』であり『耳』です。……私のために泥の中を這い、影から王国を支える者たちよ。ガストン、彼らへの無礼は、私への無礼と心得なさい」
カイルたちは、支えを失った人形のように、その場に崩れ落ちた。
自分たちのような、路地裏のゴミも同然に扱われ、存在すら否定され続けてきた者を、対等な一人の「人間」として、あろうことか「国を支える重責」に相応しいと断言した女性。
しかも彼女は、つい数秒前まで自分たちが「殺そうとしていた標的」なのだ。
震えが止まらない。
その圧倒的な度量と、自分たちのすべてを暴き出しながらも冷徹に手を差し伸べた底知れぬ知略に、彼らは魂ごと屈服させられた。
「……あんたの勝ちだ、聖女様。……いや、マリエール様」
カイルはナイフを投げ捨てると、冷たい泥の中に額を擦り付けた。
後ろの若者たちも、磁石に吸い寄せられるように次々と跪いていく。
「この命、今日からあんたに預ける。影だろうが泥だろうが、あんたの望むままに這いずり回ってやる。あんたがくれるっていう『誇り』のために、命もくれてやるよ」
これが、後に大陸全土の諜報戦を支配し、恐れられることになるマリエール直轄諜報部隊が誕生した瞬間であった。
彼らの忠誠心は、時に将軍たちをも凌駕するほどに狂気的で、強烈なものであった。
なぜなら、彼らは死よりも恐ろしい「無価値という絶望」から、マリエールという光によって、その存在を定義されたからである。




