第43話 過保護の勝利
南西部の玄関口、物流の要衝オセル。
空を突くような堅牢な城壁を前に、王国遠征軍二万は鉄の規律をもって布陣していた。
鈍く光る鎧の列、整然と並ぶ長槍の穂先。
重苦しい静寂が荒野を支配し、吹き抜ける風さえも刃物のような冷たさを帯びている。
籠城側の将兵たちは、城壁の狭間から「聖女」の軍勢を見下ろし、喉の渇きに耐えながら剣を握りしめていた。
彼らの瞳にあるのは、未知の奇跡に対する根源的な恐怖だった。
その張り詰めた静寂を破ったのは、軍楽の響きでも号令の叫びでもなかった。
ただ一騎、銀色の光を纏って爆走する蹄の音である。
「……今よ。誰の血も流させずに、この街を救ってみせるわ!」
陣頭にいたマリエールは、サファイアブルーの瞳に黄金の闘志を宿すと、周囲が制止する間もなく愛馬の腹を蹴った。
彼女の脳内には、前世の記憶と今世の知識を総動員して描き出した、完璧な「勝利の図面」が広がっていた。
(一気に城壁を越え、あの時計塔の頂上へ登る。そこで『神剣ウリエル』を天高く顕現させれば、敵軍は戦わずして戦意を喪失するはず……。これこそが、味方の消耗を最小にし、かつ『聖女』としての威光を大陸全土に知らしめる、私の最高に格好いい計画よ!)
マリエールは自らが演出する「聖女降臨」のシーンを想像し、少しだけ頬を紅潮させた。
純白のマントを英雄のようにたなびかせ、たった一騎で敵城へと突き進む。
その姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも無謀であった。
「マ、マリエール様ぁぁぁ!! 何をやっておられるのですかぁ!! 止まって、今すぐ止まってくださぁいぃ!!」
背後から、ガストンの喉が裂けんばかりの絶叫が響いた。
彼の脳裏には、王都に残ったレオンハルトやエティエンヌから突きつけられた「聖女に神剣を使わせたら生きては帰れぬと思え」という、血も凍るような厳命がリフレインしている。
マリエールの独走を目撃した将軍たちは、一瞬の困惑を、即座に苛烈な武人としての決断へと切り替えた。
「聖女様が単騎で先陣を切られたぞ! 我らが遅れることは騎士の恥辱、軍の汚点だ。続け、遅れるな! 聖女様に土埃一つかけるな!!」
第三将軍ロランが剣を抜き放ち、地響きのような号令を下す。
「盾を並べろ! あの方に射角が向く角度、進路の全てを鉄壁の壁で守り抜け! 敵の矢一筋、あの方の衣に触れさせるな! 触れさせたら俺が許さんぞ!!」
第四将軍ジャンが、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「第五軍、左右から回り込め! 敵の注意をすべて我らに向けさせろ! マリエール様への包囲は、全軍の命をもって阻止せよ!!」
第五将軍アンリも、いつもの優雅さを微塵も残さず、必死の形相で軍旗を振った。
だが、将軍たちの迅速な動き以上に、一般兵たちの熱気はもはや制御不能なほどの爆発を見せていた。
「おい、マリエール様が……聖女様が、俺たちのために一人で突っ込んでいかれるぞ!」
「馬鹿野郎、お前ら何をしてる! 俺たちが守らなくて、誰があの方を守るんだ!」
「あの方は、飢えていた俺たちの家族にパンを届け、子どもたちを助けてくれたお方だぞ! 命を懸けて追いつけ! 死んでも聖女様に傷一つつかせてたまるもんかよ!!」
地を裂くような数万の怒号。
地平線を埋め尽くす銀色の波。
主君を守らんと限界まで馬を酷使し、砂塵を巻き上げて爆走する騎馬軍団の蹄の音が、地響きとなって敵の心臓を直撃した。
城壁の上の敵兵たちが目にしたのは、神々しいまでの神気を放ちながら満面の笑顔で爆走する少女と、その後ろから怒気と狂気に満ちた、数凄まじい形相の万の軍勢が迫りくる地獄のような光景だった。
「ひ、ひぃ……! あれが噂の……カサンドラを一夜で屠った、戦場を統べる聖女か!」
「狙え! 弓を……う、撃て!」
弓兵は震えで狙いなどつけられない。
城門を守る部隊では、圧倒的な重圧に耐えかねた部下たちが、徹底抗戦を叫ぶ指揮官を背後から刺し殺していた。
「正気か!? あの聖女がこの門に着いた瞬間、この街は跡形もなく蒸発するぞ! 門を開けろ、早くしろ! 降伏だ、白旗を上げろぉぉ!!」
開戦の法螺貝が鳴り響いてから、わずか三分。
城壁の各所には、もはや数える隙もないほどの白旗が掲げられた。
「……え、ちょっと……。まだ城門にも着いていないのに」
マリエールは、城門のわずか手前で馬を止め、呆然と目の前の光景を見つめた。
重厚な城門が「ギギギ」と情けない音を立ててゆっくりと開いていく。
そこから出てきたのは、武器を捨て、地面に額を擦り付けて震える敵将たちの姿だった。
(私の時計塔でのカッコいい演説は……? 純白に輝く『神剣ウリエル』を顕現させて、皆が畏怖して膝をつく、あの最高に映えるシーンはどこへ行ったの……!? 私の素敵な計画、私の見せ場が……!)
彼女が胸に抱いていた「最高にカッコいい聖女の演出」という完璧な作戦は、聖女を愛し、かつ恐れすぎる自軍の全力の過保護によって、跡形もなく粉砕されたのである。
「追いついた……! 間に合った、間に合いましたぞ、マリエール様ぁぁぁ!!」
馬から転げ落ちるように駆け寄ってきたガストンは、彼女に傷一つないことを確認するなり、その場に跪いて、大の大人が肩を激しく震わせた。
猛将の瞳からは滝のような涙が止まらない。
「マリエール様……お願いですから、もう心臓に悪い真似はやめてください……。我らの寿命が、もう、尽きかけております……。あ、あやうく王都に戻る前にガストンという男がこの世から消え去るところでした……!」
マリエールの深い落胆をよそに、兵士たちの勝鬨は天を衝かんばかりに響き渡った。
「聖女様万歳!」
「戦わずして城を落としたぞ! これぞ聖女様の神威だ!!」
「「マリエール様、バンザーイ!聖女様に栄光を!」」
南西部の玄関口オセルは、聖女の予想とは全く違う形で、しかし彼女への絶対的な忠誠心と壮絶な過保護によって、一滴の血も流れることなく解放されたのであった。




