第36話 絶望の病床
日中のアルシエル。
マリエールの「影」として重厚な甲冑を纏うエミリは、休む間もなく街を奔走していた。
その小さな肩には、一国の運命と、民衆の際限ない期待が重くのしかかっている。
「聖女様、どうか……どうかこちらを! 息子が、息子が昨夜から酷い熱を出して……!」
「大丈夫、泣かないで。お母さん、しっかりして。この薬を白湯に溶かして飲ませ、今夜はできるだけ暖かくして寝かせてあげて。神様は、あなたの敬虔な祈りを決して見捨てたりしないわ」
エミリが慈愛に満ちた声をかけ、震える母親の肩を優しく抱く。
その仕草、声の抑揚、視線の配り方まで、今の彼女は完璧な「アルシエルの聖女」そのものだった。
母親は救われたような表情で泣き崩れ、エミリの汚れたガントレット(手甲)に何度も額を押し当てて拝み続けた。
その光景を数歩後ろで守護するのは、第一軍団長レオンハルトと、ハルバード(斧槍)を杖代わりにしたガストンだ。
二人の放つ威圧感は、群衆がエミリに過度に近づくのを防ぐ防壁となっていた。
「ガストン殿、あそこの柱の陰の男……。先ほどから聖女様を、品定めするような、いやらしい目で見続けています」
レオンハルトの氷のように冷たい声が響く。
彼の指は、すでに細身の長剣の柄に深くかかっていた。
親指で鍔をわずかに押し上げると、抜き放たれる直前の鋼の鳴き声が小さく漏れる。
「放っておけ、レオンハルト。不敬な輩の視線までいちいち相手にしていたら、この街の首がいくつあっても足りんわ。だが、安心しろ。もしあやつが指一本でもあの方に触れようものなら、俺の斧槍がその首を根元から掃除してやる。聖女様に不浄な真似をさせるなど、この俺が許すと思うか?」
ガストンが不敵に笑い、斧槍を石畳に叩きつける。
ドン、という重い音が広場に響き、不審な男は顔を青くして逃げ去った。
エミリはそんな物騒な会話を背中で聞き流しながら、心の中で、今も離宮の奥で眠り続ける本物のマリエールへ語りかけていた。
(マリエール様、聞こえますか? 今日もあなたの名前を呼んで、皆が笑っています。この街は、あなたが守った光で溢れています。だから……早く良くなってください……)
太陽が沈み、世界が藍色の闇に包まれる頃。
華やかな祝祭の気配が届かない離宮の最奥で、マリエールは一人、底なしの地獄を彷徨っていた。
魂の芯から凍りつくような、絶望的な寒気が彼女を襲う。
「……っ、う、く……。寒い……。誰か……火を、火を……。凍えそうなの……お願い……」
ガチガチと歯の根が合わぬ音を立て、マリエールはシーツを指が白くなるほど握りしめていた。
その顔色に血の気はなく、唇は紫色に変色している。
「お嬢様! 暖炉の火は燃えています、ここに私がおります! 今すぐ、今すぐお助けしますから!」
ピエールは必死な形相で、厚手の毛布を何枚も重ね、彼女の細い体を包み込んだ。
何度目かも分からない医師の呼び出しを行い、廊下には祈るような沈黙が流れる。
駆けつけた王宮お抱えの名医は、マリエールの細い手首を取り、脈を測り、瞳孔を確認した。
しかし、その顔に光が差すことはなかった。
医師はただ悲しげに、無力感に打ちひしがれた様子で首を振る。
「……先生! どうなのですか! 何か、秘蔵の薬でも無いのですか?! 仰ってください!」
ピエールが医師の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
その瞳には涙が溜まっていた。
医師は力なく目を伏せ、この数日間、呪文のように繰り返してきた残酷な言葉を再び口にした。
「……分かりません。医学的には、お嬢様の身体には何の異常もないのです。しかし、これはもはや病ではありません。……『聖女の奇跡』とは命を削っているのではないでしょうか?我々人間の知恵に、神の領域の『魂そのもの』を癒やす術などありません……」
「そんな……。そんな馬鹿なことがあってたまるか! 民を救った結果がこれだというのか!」
ピエールはその場に崩れ落ち、震えるマリエールの手を、自らの体温で少しでも温めようと両手で包み込んだ。
マリエールは混濁する意識の中で、誰に聞かせるともなく、消え入るような声で呟いた。
「……いいのよ、ピエール。この耐え難い倦怠感も、魂が凍るような寒さも……きっと、私が背負わなければならない『罰』なのよ。これは、この命が尽きるまで終わらない、わたしの果てしない『贖罪』なの……」
「お嬢様、何をお仰いますか! 貴女様に罪や罰があるはずがありません!」
ピエールは天を仰ぎ、絶叫した。
その声は静まり返った離宮の壁を震わせる。
「神よ、見ておいでですか! これほど高潔で、見ず知らずの民のために自らの命を削り、地獄の炎で焼かれるような献身を払う彼女に、なぜこれほどの苦しみを与えるのですか! 彼女は、あなたの愛した一番の信徒ではありませんか! お助けください……せめて、この痛みを私に……お助けください……!」
そこへ、一日の務めを終えたエミリが戻ってきた。
扉を開けた瞬間、彼女が聞いたのは先程のマリエールのか細く消え去りそうな呟きだった。
エミリの胸に、激しい怒りと悲しみが突き上げた。
彼女は食事も取らずにベッドへ駆け寄り、マリエールの冷え切った体へと滑り込んだ。
「マリエール様! そんなこと……そんな悲しいこと、二度と仰らないでください!」
エミリは、マリエールの細い肩を、壊れ物を守るように、かつ溢れんばかりの力強さで抱きしめた。
天使の鎧の冷たい金属の感触ではなく、一人の少女としての温もりを伝えようと必死だった。
マリエールの首筋に顔を埋め、エミリは嗚咽を漏らしながら訴える。
「罪ですって……? 罰ですって……? マリエール様、あなたが何をしたというのですか! 略奪を尽くし、罪なき女性たちを獣のように暴行し、高潔な騎士を名乗りながら、人々を蹂躙して楽しんでいた、あのハルガルドの群れこそが『罪』そのものではありませんか! あなたは、その地獄の底から私たちを救い出し、明日のパンを与え、希望という光をくれた……この世で唯一の、本当の聖女様なんです!」
エミリの腕に、さらに力がこもる。
「もし、これほどの献身に『罰』が下るというのなら、この世界の神様は狂っています! マリエール様に罰などあろうはずがありません。……お願いです、マリエール様。その寒さを、私にください。あなたの代わりに、私が凍えます。半分、いえ、全部私に預けてください。だから……お願い……っ!」
「……ああ、あなたは……。あなたは、とても暖かい……」
荒い吐息を繰り返しながら、マリエールが微かに目を開けた。
その視線は定まっていないが、目の前の少女が差し出す無償の愛を、本能で感じ取っていた。
「お願い……もっと、抱きしめて。寒くて、魂まで凍えてしまいそうだけど……あなたがいれば、暖かいの……温めて……」
「はい……ここにいます。ずっと、ずっと抱きしめていますから」
「……ありがとう、あなたの……心臓の音が聞こえるわ……。ああ……少し……。わたしも、まだ……。やっと、少し……眠れそう……」
エミリの命の鼓動に包まれ、マリエールはようやく安らぎの端を掴んだ。
マリエールは、まだこの少女がエミリであることを、彼女が自分の身代わりを務めていることを知らない。
しかし、まるで幼子が母親に縋るように、その体温を貪り、安堵を得たのだ。
他人の体温に触れ、孤独な夜通しの戦いを一時的に終えたマリエールは、朝日が窓の隙間から差し込み始める頃、激しい疲労に導かれ、深い、深い眠りへと落ちていった。
部屋の扉を背にして、廊下で腕を組みながら壁にもたれていたレオンハルトとガストン。
隙間から漏れ聞こえてくる、エミリの血を吐くような叫びと、絶望的な医師の宣告。
彼らはそれを、一言も漏らさず聞き届けていた。
ガストンは、血が滲むほどに拳を握りしめていた。
「……聞いたか、レオンハルト。あの方は、自らの命を削り……あんな無道なハルガルドの輩を救うためにまで、己の身を薪にして焼いておられるのだ。これが……これが我らの縋った『奇跡』の正体だというのか」
ガストンの野太い声は、煮え繰り返るような怒りと、どうしようもない無力感、そして深い悲しみに震えていた。
握りしめた拳からは、その力みのあまりに血が滴り落ち、石床に小さな染みを作っている。
対するレオンハルトは、溢れそうになる熱い涙を奥歯を噛み締めて堪えた。
月明かりさえ届かない廊下の深い闇を、敵を屠る時よりも峻烈な眼光で見据え、静かに、だが地を這うような重い声で答えた。
「神は彼女を救わないのか?彼女ほどの献身を私は知らない……。彼女を凍えさせる死神がいるというのなら、この二本の剣で、たとえ神そのものであろうと切り伏せてやりたい……」
そこで一度言葉を切り、レオンハルトは震える指先で自らの胸当てを強く叩いた。
「……私のこの命、この体温のすべてを捧げて、あの方の身代わりに成れるものならば。神よ、今すぐにでも奪うがいい。彼女をこれ以上、凍えさせないでくれ……」
この日。
二人の猛将の涙は止める事が出来なかった。




