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第3話 拒絶と逃走

 茂みから飛び出したクロヴィスは、王族としての矜持も、泥に汚れることへの忌避感も、その瞬間の彼からは一切消え失せていた。

 彼は、まるで雷に打たれたかのような衝撃に身を震わせ、ぬかるんだ地面に音を立てて膝をついたのである。

 彼の瞳に宿る光は、前世でマリエールを絶望の淵に突き落とした、あの冷酷な統治者のそれとは似ても似つかぬものだった。

 そこにあるのは、強国ハルガルドに蹂躙され、血を流し続ける祖国レヴィオンを救いたいと願う、若き騎士の悲痛なまでの渇望であった。


「我が名はクロヴィス! レヴィオンが第一王子、クロヴィス・ド・リュシアンである! 願わくば、その御力を……いや、身勝手な願いなれど、その御言葉を賜りたい!」


 王子の絶叫が、雨に濡れた森に木霊する。

「この国は今、敵国ハルガルドの炎に焼かれ、民は明日のパンはおろか、生きる希望さえ失っているのだ。私は、この国を立て直したい! 滅びゆくこの国に、あなたのような奇跡を体現する方が現れたのなら、それは神がまだ我が国を見捨てていないという証ではないのか!」


 彼の声には、肺の奥底から絞り出したような嘘偽りのない誠実さが宿っていた。

 今の彼は、本気で信じているのだ。目の前の少女こそが天の遣いであり、彼女を失えば国は終わるのだと。


「控えよ……。誰一人として、その方へ近づくことも、声を出すことも許さぬ」

 クロヴィスは背後の側近たちを鋭い手つきで制し、自らは泥濘も厭わず、祈るように頭を垂れた。

 王族としての誇りを捨て、一人の迷える信徒として跪く姿。

 しかし、その視線は地面を這いながらも、マリエールの存在を一寸たりとも逃すまいと、獲物を狙う蛇のように鋭く固定されていたのです。


 一方、マリエールの全身は、凍りつくような戦慄に支配されていた。

(……最悪だわ。最悪だわ、よりによって、どうして!)

 心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打つ。 

 その顔を見た瞬間、前世の最期、あの焼けつくような熱さの中で突きつけられた、夫クロヴィスの冷酷な手紙の筆跡が、フラッシュバックとなって脳裏を蹂躙した。

(どうして今、ここに彼がいるの!? 冗談じゃない、この男にだけは……世界で一番、私の力を見られたくなかった!)


 額には、怒りと焦燥から、本人の意思に反して玉のような脂汗が浮かぶ。

(跪いている? 信仰の目で見ている? ふざけないでちょうだい。私は知っているのよ。その瞳の奥にあるのは、私を『救国の乙女』として祭り上げ、最後には政治の道具として都合よく使い捨てようとする、薄汚い欲望よ。私は知っている……。あなたのその『敬虔なフリ』の後に続く、地獄のような五年間の日々を!)


 彼女にとって、王子の跪きは神聖な光景などではなく、自分を再び捕らえようとする、粘りつく蜘蛛の糸にしか見えなかった。

(ここで捕まってたまるものですか。今、リュシアン王家に関われば、私はまたあの『贅沢と傲慢の檻』に閉じ込められる。民を救うどころか、また彼らからパンを奪うための飾り人形にされてしまうわ!)


 マリエールは、ガチガチと震える脚を必死に叱咤した。

(逃げるのよ、マリエール。今のあなたはただの農家の娘。神の使いなんかじゃない……。そうよ、あんな男に二度と、私の人生の舵を握らせてたまるものですか!)


 彼女は一言も発さず、王子の呼びかけが届く前に、脱兎のごとく森の奥へと駆け出した。

 跳ねる泥が、前世で愛したどの高価な絹織物よりも今は愛おしく、誇らしく感じられた。


 ただ一刻も早く、あの忌まわしい金髪の王子の視界から消え去ることだけを願い、彼女は森の闇へと身を投じたのです。


 しかし、逃げる彼女の背中に、クロヴィスの切実な叫びが追いすがってくる。

 その誠実さこそが、マリエールの心に冷たい刃を突き立てた。

(……やめて。そんな真っ直ぐな目で、私の名前を呼ばないで!)


 走りながら、彼女の血管は怒りと悲しみで激しく脈打った。

(知っているわ。今のあなたは、まだ汚れていない。本気で国を救おうとしているのでしょう。でも、その『志』を叶えるための手段として私を使い、私を宝石で繋ぎ止めた結果、私たちはあんなにも醜く変わってしまった!)


 脳裏に、宝石を散りばめたドレスを着て、飢える民に背を向けた自分と、冷徹な王となった彼が重なる。

 最初は「民のために」と語り合っていたはずの二人が、いつしか権力と虚栄の虜になっていった日々。

(今のあなたが誠実であればあるほど、私は怖いのよ。また二人で、あの破滅への道を歩んでしまうことが。……あなたは変われても、私は私自身が信じられない。また贅沢を与えられれば、それを当たり前だと思ってしまうかもしれない!)


 マリエールは、クロヴィスの必死の呼びかけを振り切るように、力一杯泥を跳ね飛ばして走った。

 その背中は、過去との決別を告げる悲鳴を上げているようであった。

(私は、あなたとは歩まない。絶対に……。私は私自身のやり方で、独りで、この足で……今度こそアルシエルの民を救ってみせる!)


 深い霧が立ち込める森の奥、少女の影は消え去りました。

 しかし、それを見送る王子の瞳に宿った火は、もはや誰にも消すことはできなかったのです。

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