第27話 地獄の神都市
王宮の最奥に位置する作戦会議室。
重厚な石造りの壁に囲まれたその部屋は、今、凍りつくような沈黙と、それを上書きせんとする苛烈な怒りに支配されていた。
円卓を囲む聖女騎士団の面々の顔は、報告を聞くうちに血の気が引き、やがて怒りで青白く染まっていく。
「……神都市アルシエル。かつては大陸で最も清らかな祈りが捧げられていたその場所は、今や人の世の地獄と化しています」
第四隊長のソフィアが、手に持った羊皮紙を震える声で読み上げた。
普段は感情を排し、冷静沈着な彼女でさえ、その瞳には隠しきれない嫌悪と憤怒が渦巻いている。
「敵占領軍による日常的な略奪、暴行……。女性は物心つく前から、人の尊厳を蹂躙され続けている。食料は軍にすべて徴発され、民に残されるのは家畜の餌にもならない屑のみ。月に数十人が飢え死にし、遺体は街角に打ち捨てられたままだと。……誇り高いアルシエルの民は、今や生きる屍となり、ただ死を待つために呼吸を繋いでいる状態です」
「……許せん。断じて許せん……ッ!」
騎士団長であるガストンが、机がみしりと悲鳴を上げるほどに拳を叩きつけた。
彼の巨躯から放たれる殺気は、会議室の温度を数度下げたかのように錯覚させる。
「神を祀る、あの白亜の神都市を、そんな泥にまみれた汚れ果てた場所にするとは……! マリエール様、今すぐ、今すぐ全軍を出し、あの大ネズミどもを根絶やしにしましょう! 灰にする必要もありません、ただの一匹も残さず、この世から消し去るべきです!」
激昂するガストンや、同意するように剣の柄を鳴らす騎士たちの喧騒をよそに、マリエールは一人、地図上に記された『アルシエル』の文字を、吸い込まれるような瞳で見つめていた。
(……知っている。私は、この街を、この地獄の光景をよく知っている)
脳裏に、前世の光景が鮮烈に蘇る。
十七歳の冬。
血気に逸れていたあの頃の私は、難攻不落と言われたこの都市を落とすためだけに、五万の精鋭を投入した。
力任せの強襲。
結果として街は戦火に包まれ、多くの騎士が、そして救うはずだった民が、私の野心のために命を落とした。
(そして……ここで戴冠式を挙げ、教皇から冠を授けられたあの瞬間から、私は道を誤った。自分が「特別な神の代理人」なのだと勘違いし、贅沢と放蕩の底なし沼に溺れていったのよね)
前世で手に入れたのは、血に染まった偽りの栄光。
その後に続いたのは、民への重税と、自分を愛してくれた者たちへの無関心。
今の彼女にとって、アルシエルは輝かしい聖地ではなく、己の傲慢が生み出した最大の過ちの象徴であった。
「……いいえ、ガストン。全軍での正面突破は却下します」
マリエールの鈴を振るうような、けれど鋼のような硬度を持った声が室内に響いた。
「大軍で攻め寄せれば、追い詰められた敵は自暴自棄になり、街の民を肉の壁にするか、あるいは腹いせに皆殺しにするでしょう。……そんなことは、二度と、二度とさせない」
「二度と、とは……?」
第一隊長のリュカが、不思議そうに白銀の眉を寄せた。
マリエールはまだ十四歳。
この都市の惨状を経験しているはずはない。
しかし、彼女の瞳に宿る、過去の自分を呪い、断罪するような決死の光を見て、リュカはそれ以上の問いを喉の奥に飲み込んだ。
「その通りです。慈悲なき進軍は、ただの虐殺を招くだけに過ぎない」
不意に、部屋の隅に控えていた一人の男が静かに歩み出た。
新任の第一軍団将軍、レオンハルト・ド・ロランジュ。
異邦の血を引く彼は、他の将軍たちが激情に駆られる中で、一人だけ冬の湖面のような静謐を纏っていた。
整った顔立ちには一切の揺らぎがなく、その双眸は理性の光を湛えている。
「マリエール様。貴女の懸念は軍事学的にも正しい。……ですが、貴女がその御心に痛みを抱え、その細い肩にすべてを背負われる必要はございません」
レオンハルトがマリエールの傍らまで来ると、微かに上質な革と、冷ややかな鉄の香りが鼻を掠めた。
彼は恭しく、それでいてどこか尊大ささえ感じるほど堂々とした所作で一礼した。
「アルシエルの汚れは、私のような『泥を被る役』が引き受けましょう。貴女はただ、その清らかな瞳で、再び光が戻る街を見守っていてくだされば良い」
マリエールは、ふと自分を見下ろす彼の視線に捕らえられた。
それは忠誠心を超えた、何か熱を孕んだ重い質量を持っているように感じられた。
前世の傲慢な女王時代、数多の男たちに膝をつかせてきた彼女だったが、これほどまでに「一人の少女」として射抜かれるような感覚は初めてだった。
(……不思議。この方の前だと、背筋が伸びるような……それでいて、少しだけ、呼吸が浅くなる気がするわ)
マリエールは、わずかに熱を持ち始めた自分の頬に気づかれないよう、小さく、しかし深く息を吸い込んだ。
「ありがとう、レオンハルト。けれど、私も共に行きます。……この街に決着をつけるのは、私でなくてはならないから」
マリエールは決然と立ち上がり、並み居る隊長たちを真っ直ぐに見据えた。
その背中には、十四歳の少女とは思えぬほどの、数多の亡霊を背負った者にしか出せない重圧が宿っている。
「アルシエルは、私の手で……私たちの手で、傷一つつけずに取り戻します。……イザベル、ソフィア。あなたたちは女性兵士を中心とした隠密選抜隊を編成しなさい。民の間に紛れ込み、内部から攪乱を行う。……リュカ、ノア。あなたたちは、私が正門を壊すと共に隊を率いて最短ルートで教皇庁へ突入し、敵の首魁を討ってください」
「マリエール様、それはあまりに危険です! 教皇庁を囲む外壁は三層、敵の守備兵は一万を超えているのですよ! たった二隊で突入するなど、自死に等しい!」
副団長のイザベルが椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで反対したが、マリエールは優しく首を振った。
「大丈夫よ。……その時、敵はほとんど崩壊しているはずだから」
(長年、聖女として、そして独裁的な女王として君臨し、この足で歩き回った街ですもの。どこに石畳の割れ目があり、どの水路が教皇庁の地下へ繋がっているのか……。この世の誰よりも、私ほどこの街を熟知している者はいない。……今度は奪うためではなく、救うために、この呪われた知識のすべてを使うわ)
「……承知いたしました。マリエール様がそう仰るなら、たとえ地獄の業火が吹き荒れる果てまでも」
リュカが片膝をつき、愛剣の柄を額に当てて、絶対的な忠誠の儀を示した。
「我ら聖女騎士団。今こそその真価を見せる時。神都市に再び光を、そしてマリエール様の御心に勝利を!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
騎士たちの魂の咆哮が会議室を震わせる。
マリエールはその熱気の中に身を置きながら、窓に映る自分の影――かつて多くの民を見捨てた、自分自身の亡霊――に向かって、静かに、けれど苛烈に誓った。
(見ていなさい、アルシエルの民。……今度の私は、あなたたちの命も、飢えに震える心も……)
ふと、背後で自分を静かに、しかし熱く見つめ続けるレオンハルトの視線を感じた。
(……そして、一度は腐り落ちた私の魂も、決して捨てたりしない。……絶対に)




