第24話 蒼き海の休息
解放されたばかりの要塞都市、シエル・ド・メール。
潮風が運ぶのは硝煙の残り香ではなく、自由を噛み締める人々の安堵の溜息でした。
マリエールは、眠ることを勧めるガストンたちの必死の制止を、静かな、けれど断固とした意志で振り切りました。
彼女は天使の羽を模した白革の鎧を脱ぐことさえせず、松明に照らされた夜の街へと、一人で歩みを進めたのです。
彼女が向かったのは、豪華な祝勝会場ではなく、埃っぽい兵舎や傷病者で溢れかえる野戦病院でした。
「明日、あともう少しだけ、力を貸してくださいね。皆さんの勇気が、この国を救う最後の鍵なのです」
マリエールは、包帯に血が滲む負傷兵の肩にそっと手を置き、絶望に沈んでいた住民たちの目を見て、一人ひとりに言葉をかけました。
彼女のサファイアブルーの瞳に見つめられた人々は、そこに宿る真実の慈愛に触れ、奇跡を信じる活力を身体の奥底から漲らせていく。
その夜、街中の人々は、彼女が歩いた後に希望の光の粒子が舞っているのを見た気がしたと、後に語り草になるほどでした。
翌朝、午前七時。
鏡のように静まり返った海を切り裂くように、第四将軍ジャンの海軍が北方の第一砦へ向けて一斉砲撃を開始しました。
昨日の主戦場で戦力の九割を失い、完全に孤立していた敵軍の残党にとって、水平線を埋め尽くす王国艦隊の威容と、陸地から圧倒的な殺気と共に迫るマリエールの主力部隊は、もはや抗う術のない死神の宣告そのものでした。
ドォォォォン、と重厚な砲声が響き渡る。
しかし、砲撃開始からわずか十五分。
砦の最上階には、抵抗の意志を完全に喪失したことを示す、真っ白な降伏の旗が力なく掲げられました。
マリエールは愛馬の上でそれを見届け、ジャンに後処理を任せると、一刻の猶予も置かず、最後の砦へと馬を走らせたのです。
午後一時。
西日に照らされた最後の砦に到着したマリエールを待っていたのは、絶望の泥濘に沈む敵の残党たちでした。
マリエールは愛馬を止め、凛とした、けれどどこか悲しげな慈悲を湛えた声を響かせます。
「これ以上の戦いは無意味です。これ以上、剣を振るう必要も、誰かを呪う必要もありません。門を開きなさい。この私が、貴方たちの命の保証を約束します」
かつての戦場であれば、この言葉には汚らわしい嘲笑と矢の雨が返ってきたはずでした。しかし、今は違った。
「……あの少女が、神の刃を持って城壁を一撃で砕くという、あの『聖女』か……」
「勝てるわけがない。あんな神々しいお方の前に、どうして武器を掲げられようか」
かつての嘲笑は、今や純粋な恐怖と抗い難い敬意へと変わっていました。
戦わずして、巨大な鉄の門がゆっくりと、重々しい音を立てて左右に開かれた。
マリエールは、前世で流した川のような血の色を、今世では「一滴の血」も流さずに、清らかな勝利の色へと塗り替えてみせたのです。
大勝利の報を携えた早馬が、砂塵を上げて王都へと向かいました。
しかし、その書簡に記されていたのは、輝かしい戦果の報告だけではありませんでした。
『聖女マリエール様、極度の疲労により、一歩も動けぬ危うい状態にあり。シエル・ド・メールでの数日間の絶対安静と、一切の公務を禁ずる休養の許可を乞う。――第一将軍ガストン、他全将軍連名、血判にて』
マリエールは、最後の砦の開門を見届けた直後、まるで操り人形の糸が切れたかのように、ガストンの強靭な腕の中に倒れ込んだのです。
将軍たちは、青ざめた彼女の寝顔を見て、全員が心に誓いました。
(もう、このお方にこれ以上の無理をさせることなど、神が許しても我らが許さぬ)
王への報告書には、彼らの忠誠を超えた、激しいまでの守護の意志が込められていたのでした。
シエル・ド・メールで最も見晴らしの良い、海にせり出した離宮のテラス。
マリエールがようやく窓を開け、広大な青い海を眺めることができたのは、それから数日後のことでした。
潮風が彼女の柔らかな金髪を揺らし、心地よい眠気を誘います。
「お嬢様、スープですよ。将軍様たちがですね、街で一番の料理人を無理やり……いえ、熱心に口説き落として連れてきて、最高の食材で作らせたんですから」
ピエールが困ったような、けれど隠しきれない嬉しさを滲ませて、銀のトレイを運びます。
マリエールは、差し出されたスープの温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていました。
(……ああ。海が、こんなに青かったなんて)
前世の記憶では、火の粉が舞い、人々の叫び声と共に赤く染まっていたシエル・ド・メールの海。
けれど今、彼女の瞳の先に広がるのは、太陽の光をキラキラと反射して輝く、彼女の瞳と同じサファイアブルーの平穏でした。
彼女を今包み込んでいるのは、裏切りと憎しみに満ちた冷たい風ではありません。
自分という存在を愛し、その命を必死に守ろうとする、無骨で、けれど最高に温かな人々の熱気でした。
マリエールは静かに目を閉じ、この「新しき人生」の温もりを、深く、深く噛み締めるのでした。




