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第14話 罠

 ハルガルド帝国の精鋭たちは、朝日が昇る直前の深い霧を神からの贈り物であると確信していた。

 彼らは夜陰に乗じて音を消し、王都の裏手から密かに、かつ迅速に距離を詰めていく。

 その軍靴が刻む歩みは、王都の心臓部を容易に貫くはずの、計算され尽くした死の行進であった。

 しかし、突入地点と定めていた深い森を抜けた瞬間、彼らが目にしたのは勝利の栄光などではなく、底知れぬ死の淵だったのです。


「なっ……何だこれは!? 足元に気をつけろ、止まれッ!」


 先陣を切っていた兵たちが、断末魔のような叫びとともに次々と暗闇の中へ姿を消した。

 そこには、マリエールの緻密な指示により、あらかじめ掘り抜かれていた膝丈の落とし穴が無数に、そして逃れようのない不規則さで口を開けていたのである。


 前世のマリエールは、確かに贅沢と放蕩に魂を歪ませた「偽聖女」であった。

 だが、数多の戦場を司令官として駆け抜け、返り血を浴び続けたその知識と経験だけは、紛れもない本物だったのです。

 地獄のような火刑台を越えて持ち越された軍略の記憶が、今の彼女の脳内に、冷徹なまでの最適解を描き出していく。


 今代の彼女にとって、この戦は単なる敵の殲滅ではありませんでした。

 真の目的は、王国軍の兵たちに「聖女の神威」を十二分に見せつけ、その魂に消えぬ畏怖と忠誠を刻み込むことにあった。


 夜陰の中、前衛の軽歩兵たちが次々と穴に足を取られ、無様に転倒していく。

 穴の底には、鈍い光を放つ鋭利な金属の杭が植え込まれており、落ちた兵の足を確実に貫いた。 

 静寂であったはずの森は、瞬く間に鉄の臭いと、肉を裂く鈍い音、そして逃げ場を失った者たちの悲鳴に支配されていったのです。

 

 さらに、霧の中から巨大な牙のごとき影が浮かび上がる。

 巧妙に配置されたパリサード(杭付き木柵)が敵の隊列を強制的に分断し、統制を奪った。

 混乱の極みに達した敵軍に対し、左右の高台から放たれたのは、容赦のない石弓(クロスボウ)の雨であった。

 マリエールが「突入地点」として予言し、一晩で作り替えたその場所は、もはや森ではなく、完璧に計算し尽くされた死の罠へと変貌を遂げていたのです。


 地平線から朝日が顔を出し、血の匂いが漂い始めた戦場を黄金色に染め上げた、その瞬間であった。

 混乱する敵軍の背後、誰もが予期せぬ方向から、たった一筋の鮮烈な青い光が戦場を切り裂いた。


「……光あれ」


 その声は小さくとも、戦場を支配するすべての騒音を沈めるほどの力を持っていた。

 革鎧を身に纏い、サファイアブルーの瞳をかつてないほど激しく輝かせたマリエールが、単騎で敵の心臓部へと突っ込んでいく。

 彼女の右手には、昇ったばかりの太陽の光さえも霞ませる、純白の『ウリエルの剣』が顕現していました。


 マリエールが駆け抜けるたび、虚空には幾重もの光の刃が舞った。

 帝国の誇る重装騎兵の堅牢な鎧も、鉄壁を誇る大盾の壁も、神威を纏った彼女の前では、水に浸した薄紙にも等しい存在であった。

 彼女が通り過ぎた後には、まるで芸術品のように切断された武具の残骸と、生ける神の顕現を前に戦意を奪われ、崩れ落ちる兵士たちの山が築き上げられていったのです。


 正面の罠と、背後からの一騎当千による強襲。 

 逃げ場を失ったハルガルド軍は、軍としての形を保てぬまま完全に壊滅した。

 命からがら包囲網を抜けようとした残党の前に立ち塞がったのは、マリエールの指示により息を潜めていたガストン、マキシム両将軍が率いる伏兵であった。


「逃がさぬと言ったはずです。この地は、あなた方の墓標となるでしょう」

 マリエールの冷徹な宣言通り、敵は完全に半包囲され、降伏か死かという二択を突きつけられたのです。


 戦場に静寂が戻ったとき、集計された戦果は王国軍の誰もが耳を疑う、異次元のものとなりました。

 敵捕虜、五百名。

 敵戦死者、四千名。

 そして何より将軍たちを震え上がらせ、その背筋に消えぬ戦慄を刻み込んだのは、その戦死者のうち、千名以上がマリエールただ一人の手によって斬り伏せられていたという、あまりにも非現実的な事実だったのです。


 血に濡れ、朝露を含んだ草原の中、一人の少女が立っていた。

 マリエールは、パリサードに無残に串刺しにされている一つの遺体を見つめた。

 ギルバート・モーティマー卿。

 前世、十九歳の冬。

 最後の大敗を喫した彼女を、泥の中へ引きずり出し連行した将軍の一人であった男。

 かつて自分を地獄へ送った男は今、音も立てぬただの肉塊と化していた。

歓喜に沸く味方の勝鬨が、遠くの波音のように聞こえる。マリエールは前世の記憶という底なしの濁流に飲み込まれ、無限の暗黒地獄へ堕ちていく感覚に襲われていた。

 兵たちにその「壊れそうな正体」を悟られぬよう、彼女は奥歯を噛み締め、止まらない全身の震えを必死に抑え込んでいた。

 その姿は戦の惨状には不釣り合いなほど美しく、見守る者の魂を凍らせるほどに神聖であった。  


 馬を飛ばして駆けつけたクロヴィス王子は、彼女から発せられる圧倒的な残光に気圧されながらも、その前に膝をついた。

 彼は夢を見るような、熱に浮かされた声で囁きました。


「マリエール様……。貴女は、本当に……天から遣わされた勝利の女神だ。我がレヴィオンは、貴女という奇跡によって救われたのだ!」


 マリエールは、静かに光を失い、霧散していくウリエルの剣を冷めた目で見つめていた。

 その瞳には、勝利の昂揚も、千人を屠った忌避感も、ましてや王子への愛情も宿っていない。


「……私はただ、あの火の粉が民を焼く前に、火種を消したに過ぎません」


 その瞳は、眼前の王子の心酔に浸ることもなく、すでに次なる「腐敗」を見据えていた。外敵を払った後に残るのは、内側から国を食い荒らす欲深き者たちだ。

 勝利を告げる鬨の声が止むことはない。

 彼女にとっての真の戦いは、まだ始まったばかりであった。

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