第10話 煙の上がる村
王都へと続く街道は、かつてはのどかな田園風景が広がる平穏な道であった。
しかし今、その地平線を切り裂くようにして、不吉な黒煙が何条も天へと立ち上っているのが見えた。
「あれは……」
クロヴィス王子がその整った顔を険しく歪めた瞬間、湿った風に乗って、人々の悲鳴が途切れ途切れに聞こえてきたのです。
それは、戦争という狂気が生んだ最悪の副産物――敗残兵による略奪でした。
戦場での指揮系統を完全に失い、飢えた獣と化した自国の兵士たちが、あろうことか守るべきはずの同胞へと牙を剥いているのだ。
マリエールがその村に足を踏み入れたとき、視界に飛び込んできたのは正視しがたい地獄の光景であった。
かつては豊かな実りを蓄えていたであろう民家からは、わずかな食糧が乱暴に奪い去られ、道端には抵抗した老人が無残に殴り飛ばされて倒伏している。
兵士たちは略奪の悦びに顔を歪ませ、泣き叫ぶ女たちの髪を掴んでは、泥濘の中を引きずり回していた。
「やめろ! 頼む、これ以上は……! それは冬を越すための大事な種籾なんだ!」
「黙れ! 俺たちは命を懸けて国のために戦ってやってるんだ。これぐらいの報いは当然だろうが!」
その傲慢な言葉が耳に届いた瞬間、マリエールの瞳に、これまでにないほど強く、凍てつくような激しい光が宿った。
(国のために戦っている? ……嘘をつきなさい。あなたたちはただ、自分より弱い者を踏みにじり、蹂躙する快感に溺れているだけだわ。……かつての、愚かな私と同じように!)
「そこまでになさい」
低く、地を這うような氷の響きを持った声が、騒乱の村に響き渡った。
略奪にふけっていた兵士たちが、苛立ちとともに振り返る。
そこに立っていたのは、泥に汚れた衣服を纏いながらも、サファイアブルーの瞳を異様なほどに輝かせた一人の少女であった。
「あぁ? なんだ、このガキは。……ほう、よく見れば極上の上玉じゃねえか。おい、お前ら、新しい慰みものが向こうからやってきたぞ!」
下卑た笑いを浮かべた一人の兵士が、無実の民の返り血を浴びた剣を、マリエールの喉元へと向けた。
その後ろで、あまりの非道に憤ったクロヴィス王子が騎士たちに制圧を命じようとしたが、マリエールは片手を静かに掲げてそれを制した。
「王子、動かないで。……これは、私の仕事です」
刹那、マリエールの右手に眩いばかりの純白の光が収束し、『ウリエルの剣』が顕現した。
その神聖な輝きは、血と泥にまみれた村の惨状を残酷なまでに白日の下に照らし出す。
兵士が凶刃を振り下ろすよりも早く、マリエールの体が弾かれたように地を蹴った。
もはや、誰の目にもその動きを追うことは叶わなかった。
マリエールが閃光となって通り過ぎた後、兵士たちが掲げていた剣や槍は、まるでもろい飴細工のように、すべて中ほどから無慈悲に切断されていた。
「な、なんだ……俺の剣が……!? 何が起きた!?」
驚愕に目を見開く兵士たちの頭上に、マリエールは左手を掲げ、蒼い力場『ウリエルの盾』を展開した。
「……消えなさい。その醜い暴力の記憶と共に」
蒼い半透明の盾を一閃させると、兵士たちが着ていた鎧や、手の中に残っていた武器の残骸が、音を立てて砕け散った。
それらは瞬時に光の粒子へと変じ、塵一つ残さず虚空へと消え去っていったのです。
自らの「力」の象徴であった武具をすべて奪われ、天を突くような神の威圧感に押し潰された兵士たちは、もはや戦う意志どころか立つことさえできず、その場に力なく崩れ落ちた。
マリエールは静かに剣を消し、震える被災者たちに背を向けたまま、後方に控えていたクロヴィス王子を振り返った。
その瞳は、未だに消えぬ怒りの熱を帯びている。
「王子。民から奪う者は、敵であれ味方であれ、等しく私の敵です。もし、あなたの率いる騎士たちが同じことをすれば、私は迷わず彼らを……そして、彼らを御せぬあなた自身を裁きます。……いいですね?」
クロヴィスは、自分より遥かに小さな少女が発したその言葉に、背筋が凍りつくような、それでいて魂が震えるほどの崇高な規律を感じ取った。
「……肝に銘じよう。わが軍において、略奪は今日この瞬間から死罪とする。聖女マリエールの名の下に、厳格なる法を敷くことを誓おう」
武器を失い、泥濘に這いつくばる略奪兵たち。
それまで死を覚悟していた村人たちは、目の前で起きたあまりにも鮮烈で、一方的な救済劇に、しばしの間、言葉を失っていました。
沈黙を破ったのは、一人の村人の震える叫びであった。
「マリエール……。ヴァル・ド・ロゼ村の、あのマリエールだ!」
「いや! 違う! 聖女様……聖女マリエール様だ!!」
その叫びは瞬く間に村中に伝播し、やがて地響きのような、地鳴りのごとき大歓声へと変わっていきました。
「マリエール! マリエール! マリエール!!」
絶望の淵から引き揚げられた民衆による、魂の底からの咆哮。
それは単なる感謝の域を超え、神の再臨を確信する狂熱となって、黒煙のたなびく空を激しく震わせたのです。
その光景を背後で見守っていたクロヴィス王子の騎士たちの間にも、戦慄に似た衝撃が走っていた。
彼らはこれまで、王家への忠誠や金銭的な見返り、あるいは義務感によって剣を振るってきた者たちだ。
しかし、今目の前で少女が示したのは、既存の「軍」という概念を根底から覆す、真に守るべき者のための絶対的な力であった。
「俺たちは……今まで何を誇りにしていたんだ」
「あの御方こそが、我らが魂を、命を捧げるべき真の主ではないのか?」
王子が率いていた騎士たちは、マリエールの煤けた背中に向かって、一斉に泥の上に跪いたのである。
かつては彼女を「農家の娘」と嘲笑した者も、今はその華奢な肩の後ろに、神々しいまでの後光すら見出していた。
彼らの瞳に宿ったのは、義務ではない、狂信に近いほどに苛烈な忠誠心であった。
「マリエール様! 我らが剣を、貴女の御心のままに!」
騎士たちの叫びが民衆の声と混ざり合い、村全体が制御不能な熱狂の渦に飲み込まれていく。
マリエールは、自分の名前を叫び、地を這うように跪く騎士たちを、冷ややかに、そして悲しげに振り返った。
(……この声。この熱量。この、盲目的な崇拝の眼差し。これこそが、前世で私を狂わせ、奈落へと堕落させたものと同じ……猛毒だわ!)




