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帝国監察使

 「生きておるか? ならばほれ起きよ。いつまで寝ておる。起きろというのに」

 女性の美しい声がする。したような気がした。と同時に、木漏れ日にまぶたを貫かれて一気に覚醒した。木陰を抜ける涼風で枝が揺れ、優しい影と夏の峻烈な日光が行き来するのを感じる。

 手のひらを掲げて光を遮りつつ、自分が大樹の根元で眠っていたことを思い出した。


 「セレイス卿、そろそろ起きてください。日が落ちる前に野営地に入りましょう」と、今度ははっきりと、若い男の声が聞こえた。

 「うん、もう起きたよ」とその声に答えながら上体を起こして辺りを見回す。

 「見渡す限りむさ苦しい男ばかり……」

 心の底から失望して、ふうとため息を漏らす。当たり前である。ここは小休止中の軍列のど真ん中。傭兵を相手に一仕事しようとしている娼婦が紛れ込んでいるかもしれないが、取りあえず視界内には傭兵しかいなかった。潤いのかけらもない景色だ。

 もっとも、先ほどの声はかなり高貴な、しかも今では使う人などほとんどいない古風な言葉遣いだった。娼婦に使いこなせる話し方ではない。

 心に妙に引っ掛かるのを感じるが、ともかくすっかり出立の準備が整っている軍列に戻らなければならない。みんなが待っている。炎のような赤毛を軽くかきむしると、やる気が微塵もみられない蒼い瞳で隊列を見渡す。端正な顔立ちだが、やる気のない目と弛緩した表情のせいで著しく精彩を欠く。身長は180セルほどでやや痩せ気味。ひ弱と言うほどではないが力強さも感じない中途半端な体格だ。

 本人の風采とは裏腹に、彼が近づいた馬は馬体も立派で馬具も上等だった。彼は苦労して馬の背に這い上がった。皆のようにヒラリと乗るような真似はできない。無様なことこの上ないが仕方がない。子供の頃から乗馬に親しんできた貴族ではないのだ。

 「さて、じゃあ出発しようか」

 ヘルル・セレイス・ウィンは、全くもって気の抜けた声で進軍の号令を発した。


 先ほどウィンに声を掛けた青年は、アレス副伯ヴァル・フォロブロン・アンスフィルという。

 ぎこちなく馬の背に揺られているウィンを半馬身後ろから眺めているフォロブロンの胸中は複雑である。フォロブロンは、帝国貴族らしく肩まで届く銀髪を首の辺りでまとめている。切れ長の眼には色素が薄い青い瞳が収まっている。身長はウィンよりやや高く、185セルはあるだろう。着痩せして見えるが、しなやかな筋肉を有していることは服の上からでも分かる。

 20歳にして副伯という帝国爵位を持つフォロブロンにとって、貴族とはいえ爵位のないウィンなど格下に過ぎない。

 しかも、「貴族の子」を意味する「ヴァル」号を冠するフォロブロンに対してウィンに付与されている「ヘルル」号は「平民の子」を意味する。つまりウィンの出自は平民であり、何らかの功績を立てたか貴族株を買ったかして貴族の地位を得たということだ。

 ヘルル貴族は成り上がり者として軽んじられる。フォロブロンにもそうした感情がないではない。だが、今はウィンが上位者であり、フォロブロンはその麾下としてウィンを補佐すべき軍監の地位にある。身分の逆転現象についてはいい。フォロブロンは帝都を進発する時点で割り切っている。それでも疑問は残る。ウィンには謎が多過ぎるのだ。

 まず、ウィンはヘルル貴族としては若過ぎる。

 ヘルル号を得るのは困難を極める。ヘルル号の授与に見合う大功を立てようにも、平民身分では大した役職には就けない。過去に1人か2人、軍功によってヘルル号を与えられた者がいるといわれているが真偽は定かではない。100人の平民兵を指揮して3万の大軍を破ったとか、敵の城を落としたとか、信じ難い伝説が残るのみである。ほぼ不可能と考えるしかない。となると貴族株を買うというのが確実な方法だが、これには城や街が買えるほどの大金を要する。大富豪が生涯をかけて貯めた金で人生の最後にやっと買えるものなのだ。従ってヘルル貴族といえば老人である。

 親の遺産で買ったという可能性もないではないが、それだけの財産があるなら普通は親の代で買う。親が急死した場合も、親の名で申請して故人をヘルル貴族にする。

 ヴァル貴族はヘルル貴族を蔑視し、機会があれば屈辱を与えようとする。ヴァル貴族による数々の侮辱に耐えかねて自ら命を絶つヘルル貴族は少なくない。特に酷いのは、ヴァル貴族になった旧ヘルル貴族によるものだという。自分たちがされた侮辱を新ヘルル貴族に行って溜飲を下げるというわけだ。フォロブロンがヘルル貴族に過剰な悪感情を抱かないのも、このおぞましい話を聞いたからである。そのような連中の仲間になるわけにはいかない。

 それほどの屈辱を与えられると知りながら、なぜ人々は生涯をかけて築いた大金を投じてヘルル貴族になりたがるのか。

 子のためだ。

 自分がヘルル貴族になれば、子供たちはヴァル貴族になれるのだから。


 ウィンは、聞けば18歳だという。この若さで奇跡級の大功を立てたとは思えない。貴族株を買ったのなら、年齢的にはヴァル号を称しているのが自然だ。なぜヘルル号なのか。

 その上に、ウィンに与えられた役職である。「帝国監察使」。皇帝直属の、帝国法には規定のない法外官ほうげのかんだ。職責も職分も明確ではなく、皇帝の命によって帝国各地に赴き監査や指導などを行う。命令の内容次第では行政権や司法権を行使することもある。皇帝直轄領のみならず諸侯領においても皇帝の代理人として強権を発動できるとされる。もっとも、諸侯を相手に無理押しすれば政治問題に発展しかねないので穏便に事を進めることが多い。

 ウィンがどうやってこの若さで監察使などという地位を得たのかも謎だ。

 そして、監察使は文官なので本来であれば軍の指揮権を持っていない。ところが今回、ウィンは監察使として3000の兵を与えられた。目的地はナルファスト公国。同地の公位継承問題を解決するというのがウィンの任務である。ただし武力介入しようというわけではない。3000の兵はウィンの護衛と紛争地における存在感の確立にある。

 そこでまた疑問だ。ナルファスト公国に行って、何をどうするというのか。長男レーネットと次男スハロートのどちらに公位を継承させるのか。フォロブロンが思考の沼にはまりかけたとき、ウィンの間の抜けた声で現実に引き戻された。

 「3000人ともなると壮観だね」

 何をいまさらと思わないでもないが、確かに近年まれに見る大軍ではある。

 「ところで、帝都を出てからずっと疑問だったんだけど」とウィンは改まった顔でフォロブロンに切り出した。何を言い出すのか、とフォロブロンは身構えた。

 「私は一体誰と戦えばいいのだろうか」


 フォロブロンは馬からずり落ちそうになった。

 「陛下から内示的なものはなかったのですか? サインフェック副伯スハロートに味方せよとかロンセークレーネットにつつがなく継承させろとか、何かあるでしょう」

 「それが……『委細は任せる』と仰せになっただけなのだ」とウィンはしたり顔で胸を張った。何で自慢げなのか分からない。

 「ウィン様は皇帝陛下に嫌われていますからね」

 最も分からないのがコイツだ。ウィンに仕える奴隷で、アデンという名だそうだ。このアデンとやらが唐突に現れて口を挟んだのでフォロブロンはたじろいだ。帝都でウィンと初めて顔合わせしてからというもの、このアデンという奴隷がこうして口を挟んでくる場面がしばしばあった。貴族同士の会話に奴隷が口を挟むなど言語道断である。ウィンの陣営では常態化しているのでいまさらこの行為にどうこう言うつもりはないが、とにかく唐突に割り込んでくるので驚かされる。

 「アデン……だったか? つまり今回の任務について陛下はご意向を示されなかったということか」

 「はい。コーンウェ宮内伯様からは『分かっているな』と念を押されましてございます」

 「コーンウェ宮内伯か……」

 コーンウェ宮内伯はサインフェック副伯寄りの人物であるとも聞いている。「分かっているな」とはそういう意味か? だがコーンウェ宮内伯の言葉をそのまま皇帝の意向として解釈するのは危険だ。

 高度な政治的判断が求められる案件を現場判断に任せて放り出すとは。フォロブロンの繊細な胃がきりきりと痛む。当然ながら全責任は監察使に押し付けるつもりだが、それでもとばっちりは免れないだろう。

 「つまり好きなようにやれってことかな」

 この能天気な発言を聞いて、フォロブロンは頭を抱えた。つまり行き当たりばったりということだ。

 「今から考えても仕方がない。現地に行ったらどうせ想定外のことばかりさ」と言って、ウィンは肩を落としてふうとため息をついた。一体何があったのだろうか。

 フォロブロンは、横にいた傭兵隊長のベルウェン・ストルムに視線を移した。傭兵隊長とは、依頼主の求めに応じて傭兵を集め、その傭兵を指揮して戦う戦争請負業者だ。これ以前にも、数十人程度の傭兵を率いてウィンの護衛任務などを何度かしたという。

 ベルウェンは灰色の髪を短く刈り込んでいる。鼻の下と顎に蓄えている髭も髪と同じ色だ。身長はフォロブロンと大して変わらないが、手足や胸板は筋肉によって一回り太く、厚い。贅肉はほとんど付いていない。

 33歳だというが、額の傷が歴戦の戦士を思わせる。だが、敵刃を受けるような不覚を取ったことはなく、実は箔付けのために自分で付けた傷だという噂もある。そのことを問いただした者は多いが、ベルウェンはいつも「さあどうだったかな」とはぐらかすのみだと聞く。

 「アデンは以前から居るのか?」

 「アデンとやらが初めてしゃべり出したときはコイツら頭がイカれているのかと思ったもんですが、言ってることはまともだし話も通じる。まあ害はないから気にしなければどってこたぁないですな」

 「確かに今のところ害はなさそうだな」

 ウィンがいくらアデンとやらを重用したところで、フォロブロンらが困ることは何もない。実害がないなら気にしないのが得策だ。見たところ、コーンウェが会計官として送り込んできたソド・ムトグラフ・ポーウェンはまだ複雑な顔をしているが、他の者、特にベルウェン麾下の傭兵たちはアデンがしゃしゃり出ても全く意に介する様子がない。それどころかアデンと気軽に話している。

 ウィンはというと、必死で手綱を操っている。馬はウィンの手綱を半ば無視しつつ、「乗せてやっている」ようだ。馬は乗り手の技量を見抜く。下手な乗り手であればなめられる。ところがこの馬は、出来の悪い教え子に馬の乗り方を教えるかのように、やさしくウィンを乗せている。よく調教された上等な馬だ。

 こんな馬をなぜ持っているのかと思ったら、皇帝所有の馬を借り受けたのだという。分不相応な駿馬と馬具の謎だけは解けた。むろん皇帝の愛馬などではなく多数の馬の1頭に過ぎないのだろうが、それでも皇帝が馬を貸与するというのは異例の待遇だ。これまた分からない。

 いろいろと分からないことばかりだが、今のところ実害はないのが救いだ。フォロブロンはそう結論付けて自分を納得させた。

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