理想の国 その3
「この子はもらっていく。命令なのでな。余計なことばかりして計画を狂わせた監察使を恨むのだな」と男は言い残し、外に飛び出した。ほんの一瞬の出来事だった。
男を追おうとしたが、やはりファイセスを放っておくことはできなかった。
ウリセファはファイセスに近づき、仰向けにした。短剣は脇腹から肺に達しているようだ。ファイセスは血の塊を口から吐き出した。口の中にどんどん血がたまってくるらしい。口からだらだらと血があふれ出る。
「公女様……ご無事で……」
「よい、しゃべるな! 今手当てを……」
「副伯は……」
「リルフェットなら無事です。ファイセス卿……ソーンドーム、あなたのおかげです」
ファイセスは安堵の笑みを浮かべた。
「ウリセファ様……わた……」
「ソーンドーム!」
ファイセスはまだ何か言おうとしたが、徐々に力が抜けてきた。涙があふれて、大切な男の顔がよく見えない。もはやどうすることもできないことはウリセファにも分かった。
彼女には、彼にどうしても伝えなければならないことがある。
「ソーンドーム……ソーンドーム、あなたを、愛しています」そう言って、彼を抱き締めた。
ファイセスの目に光はもうなかった。
ウリセファの最後の言葉は届いたのだろうか。
確かめるすべはない。
ファイセスの顔に、ぼたぼたとウリセファの涙が降り注いだ。
ウリセファは止めどなくあふれ出る涙を袖で拭き取ると、血まみれの寝間着のまま外に飛び出した。背後で母の声がしたが、振り返らなかった。
月明かりの下に騎影が一つ、街道を北上しているのが見えた。ファイセスが命を懸けて守ろうとしてくれたリルフェットを取り戻さなければならない。そうしなければファイセスの死が無駄になってしまう。厩から馬を引き出し、男の後を追った。
「監察使を恨むのだな」という声が頭の中で繰り返される。ファイセスを失った絶望。リルフェットを失いつつある恐怖。誰かを恨まずにはいられない。真に憎むべきは、ファイセスの命を奪ったあの男と、あの男を操っている誰かだ。しかし誰だか分からない。だから監察使を恨んだ。憎んだ。そうすることにした。監察使が何か余計なことをしたせいでこんなことになったのだ。リルフェットを取り戻し、監察使に復讐する。
この夜、ティルメイン副伯リルフェットとナルファスト公女ウリセファはナルファスト公国から姿を消した。
2人の行方は、誰も知らない。
『居眠り卿とナルファスト継承戦争』は以上で完結です。お付き合いいただきありがとうございました。
初めて書いたものなのでお見苦しい点や拙いところばかりだとは思いますが、取りあえず現時点での全力は出し切りました。
続編『居眠り卿と木漏れ日の姫』も、よろしければお付き合いください。




