3 誘惑
リリスが退院してから二ヶ月。リョウは一般病棟に移り、窓際のベッドから窓の外を見ていた。思わず駆け出したくなるような程に澄んだ青い空。車椅子でしか移動ができない状態でもなければ、とっくに外に出て行ったに違いない。
青い空はリリスの髪を思い浮かばせる。遠くに聞こえる透き通った鳥の声はリリスの声を連想させる。なにかある度に、一年以上コンビを組んできた相棒を思い出させる。
『人工脊髄の移植は成功したよ。早ければ後二ヶ月で退院できるだろう』
医師の声を思い出す。
「何が『成功』だよっ!」
その声には焦りがあった。怪我の事ではない。怪我ではなく、その後の事だ。
「……HATには乗れない、か……」
それは同時にリリスとのコンビを解消するという事。
リリスの事だ。どんな相手を相棒に選んだとしても、うまくやっていくに違いない。リリスにとってみれば、支援砲撃の回数が増えるかどうかの違いにしかならない筈だ。それだけ、リリスの射撃能力は突出している。逆を言えば、前衛を務める人間にとって、リリス以上に頼もしい後衛はいない。
「泣き虫リリス、か……」
幼馴染みとして育ったリョウのみが、唯一それを知っている。小さな頃はいつだって背中で守っていた。それが士官学校に入った頃には、守る必要がなくなり、卒業の頃には完全に背中を任せるようになっていた。
――どっちが泣き虫なんだろうな……。
リョウは自嘲気味に笑うと、窓ガラスに両拳を当てて涙を流していた。
「こんな事で、泣けてくるなんて、よ……」
それほどにまで悔しかった。あの一瞬、油断した自分が許せなかった。もし、一瞬でも早く気付けば、リリスと同じように軽傷で済んだかもしれなかった。その一瞬の遅れで自分の機体は小さく潰され、コクピットブロックが大きく歪んだ。その中で自分は下半身が潰されていくのを感じた。
「許せねぇ……」
自分をこんな目にあわせたシリウス連合が、こんな無茶な作戦を立てたファウスト参謀少将が、あの一瞬に勝利を確信して油断した自分が、そして……。
「……誰だ?」
リョウは顔を上げずに声を発した。
「もし、それで気配を消しているつもりなら、訓練所に行って一からやり直して来い」
それまでとは打って変わった気配に、一人の男が慌てて入ってきた。
「はじめまして。リョウ・ミツムラ少尉ですな?」
卑屈とも取れる笑顔と態度にリョウは警戒心を強める。
「何の用だ? 軍の兵器開発局の人間が」
「よく、わかりますな」
正体を見破られても態度自体は変えない。
「ああ、俺の大嫌いな匂いがするからな」
リョウはそう言うと、窓の外に視線を移す。
「新しい兵器を開発するためなら、人間の命をゴミ以下にしか見ていない連中の匂いだ」
「それは、ずいぶんなご挨拶ですな?」
下卑た笑顔は変わらない。それを嫌いだと、リョウが言っているにもかかわらず、だ。
「それが証拠に、初対面の相手に名乗りを上げていない」
それで初めて男は急いで頭を下げる。
「すみませんな。兵器の開発などに従事していると、どうにも世間に疎くなりまして。私の名はリチャード。リチャード・ルーベリック技術大尉です」
ようやく名乗りを上げた男に、リョウは冷めた視線を向ける。
「リョウ・ミツムラ……少尉だ。それで、大尉殿は俺に何をさせたい?」
リョウの言葉にリチャードは目を丸くする。
「驚く事程の事はないだろう? 俺とあんたは面識が全くない。兵器開発局の人間だから、エースパイロットたちの名前くらいは知っているかも知れんから、あんたが俺を知っている可能性はある。が、俺にはそれがない。しかも、俺はこんな状態だ。にもかかわらず、あんたは俺を訪ねてきた。それは即ち、俺に頼みたい事があるからだ。違うか?」
リョウの言葉にリチャードは頷くと、一枚の図面を取り出す。
「これは?」
「HATの設計図の一面だよ」
あいも変わらず、人を見下したかのような口調にリョウは拳を握りしめた。
「そんな事は見れば一目でわかる!」
「最新最強のHATハーデスだ。私は君を『私のHAT』のテストパイロットに指名しに来たのだがね」
その言葉にリョウは大きな声で笑い始めた。
「何がおかしいのかね?」
「おかしいさ! あんたの目はちゃんと現実を見ているのか!? 俺の体は車椅子が必要な状態だ! HATなんざ操縦できる訳ないだろうが!」
「本当にそうお思いで?」
リチャードの言葉にリョウの笑いがピタリと止まる。
「これは軍の『最新型』だ。今までのHATとは操縦系統が少し、いや『全く』違う。自信がないのなら、そう言いたまえ。すぐに代わりの人間を探す」
リョウのプライドをくすぐるような言葉を混ぜる。
「……自信が無い、だと?」
リチャードに凄まじいまでの視線を送る。
「いったい誰に向かって言っている?」
「もちろん、クリムゾン・エッジの片割れ、近接戦闘において比類なき戦闘能力を叩きだすエースパイロット、ドッグファイト・リョウ。違うかね?」
お世辞半分、事実半分。そんなセリフにリョウは小さく笑う。
――もう一度、HATに乗れる。
それはもう一度、リリスの横に立てる資格を得られるという事。
「……俺が、自信がない、と言うと思っているのか?」
天の救いか、悪魔の誘惑か。恐らく、九分九厘、後者だ。
「いや、隠さなくて結構。このハーデスの操縦は『非常に』難しい。開発主任の私が言うのだから、間違いようがない。後……君以外に乗りこなせそうな人間といえば、もう片方の片割れ位なものだろうな」
――面白い。
リョウは素直に思った。恐らく、このリチャードという男、何か人道的に外れた行動をしているに違いない。だが、もう一度、HATに乗れると言うのならば……。
「いいだろう……。その誘い、乗ってやる」
リチャードの瞳に『狂気』と『狂喜』が宿ったのをリョウは見逃さなかった。
そして、数日後。リョウの姿は病室から消えていた。




