1 置かれて行く者の助言
ラッセンは自分の手に触れている暖かい手に気付いた。
「フェル……? 泣いて、いるのですか?」
瞳に光は入ってこない。だが、耳元で聞こえる声は誰だかはっきりしている。
「ラッセン? 気が付いた……?」
嬉しそうに、そして僅かに憂いが含まれた、聞き覚えのある声が耳に届く。
「まだ、目が見えませんが、意識ははっきりしています」
「よかった……。あそこにリリスがいてくれたから、私はあなたを失わずに済んだ……」
フェリアシルの声にラッセンは笑みを浮かべる。
「私としては、フェルの豊かな胸に顔を埋めていたのが、ついさっきなのですが……」
「ラッセン!」
眼には映っていないが、きっとフェリアシルの顔は真っ赤に染まっているに違いない。そう思いながら、ラッセンは僅かに苦笑する。
「あ、よかった。ちゃんと気付いたんだ」
ドアを開く音と同時にかけられた、その声も聞き覚えがある。
「リリスさん?」
「えぇ、そうよ。しばらくの間、視覚に悪影響が出るかもしれないけど、それ以外は大丈夫だって、さっき医者が言っていたわよ? ずいぶんと運がいいのね」
「何が、あったのです?」
ラッセンは軽く聞こえる声に敏感に反応した。
「え? 何が?」
リリスの声に一瞬のこわばりを感じる。
「最悪を通り越した、何かがあったのでしょう? 私の『命』よりも遥かに重大な、何か悪い事が。たとえば『ハーデス』に関してのひどい話が」
ラッセンの言葉に病室の空気が一瞬にして沈む。
「ラッセン? 何、言っているのか……」
動揺が帯びた声にラッセンは首を横に振る。
「隠す必要はありません。それから『荷物』は置いて行って下さい」
「ラッセン? 荷物って……?」
今度はフェリアシルの声が震える。
「今の私は『荷物』以外の何物でもありません。ですので、置いて行って下さい」
ラッセンはきっぱりと、そう言い切った。
「生きているだけでも上等です。私にとっては。ですがフェルとリリスさんには、やらなくてはならない事があります。ですから、私を置いて行くように言っています」
もう一度きっぱりと言い切る。
「私は!」
「前にも言った筈です、フェル。あなたには、きっとこれから泣く事の出来ない場面が多い筈だ、と。そして、今はまさしく『その場面』です。私一人の看病で多くの人間の命が天秤にかかるような事態だけは避けなくてはいけません」
ラッセンの言葉に揺るぎは無かった。遠くで溜息が聞こえる。
「わかった。あんたは置いて行く。それでいいのね?」
「リリス!?」
溜息の主が発した言葉に、自分の最愛の人の声が重なる。
「ええ……」
「わかったわ。でも『今回は』よ」
リリスの言葉にラッセンは頷く。
「フェルは少しだけ残って別れを言いなさい。でも、最後の言葉は『さよなら』ではなくて『また今度』よ。わかった?」
「あ……」
リリスの言う言葉の意図を察して、フェリアシルはようやくラッセンの言っている言葉の意味を理解した。
「じゃ、私は、アルテミスの調整があるから、先に帰っているわ」
扉の閉じる音を確認して、ラッセンはゆっくりと口を開く。
「危ういですね」
「え……?」
フェリアシルはラッセンの意図が理解できなかった。
「目が見えない分、声で無理をしているのが、はっきりとわかります。前にキリコさんが言っていました。精神薬関係を多量に常用していた、と。もしかしたら、今のあの人は、その時と同じなのではないでしょうか? 話してください、フェル」
一旦言葉を切ると、映らない瞳をフェリアシルに向ける。
「いったいハーデスの秘密とは何なのか」
フェリアシルは溜息を吐くと、ラッセンが眠っている間に起きた事態をかいつまんで話し始めた。その様子を聞きながら、ラッセンはしきりに思案を巡らせているように、見えない目を宙に泳がせたり、下に向けたりする。
「そうですか。では、フェルの副官として、今回の件に関して二つ進言します」
「言ってもらえる?」
疑問ではなく、先を促すようにフェリアシルの声が響く。
「まず一番重要なのは、あなたもリリスさんの『心の支え』になってください。あの人は不思議な人です。人の心の中に土足で入り込みながら、それでいて相手には不快感を与えない。だから、フェルもあの人を親友だと思えるのでしょう?」
「そうね」
相槌を打つフェリアシルにラッセンは言葉を続ける。
「でも、自分の心の中には入らせない節もあります。ですから、あの人には『心の支え』が一人でも多く必要です。少なくとも、自分の愛している相手を『殺す』という事に耐えられるほど強い人とは思えません」
フェリアシルは黙って聞いている。
「それから、私見になりますが、あの人は自分の才能に見切りをつけています」
「どういう事?」
フェリアシルが不思議そうに声を出す。
「確かに、射撃能力は異常なまでに高すぎます。そして、あの才能を以てしたら、接近すら難しいでしょう。ですが、そこが逆に弱点になってしまっています」
「リリスが近接戦闘に弱いというのは周知の事実じゃない」
フェリアシルの言葉にラッセンは頷く。
「はっきりと言います。クロスレンジのみという限定をつけるのであれば、フェルでもHATで勝てるかもしれません」
「は?」
思わずフェリアシルは間抜けた声をあげた。
「クロスレンジだけでいいのなら、フェルでも勝てる可能性がある、そう言いました」
ラッセンはもう一度言葉を繰り返す。
「本当に?」
連邦軍一とも謂われるエースパイロットが限定条件内とはいえ、軍艦の艦長である自分に勝てないかもしれない、と副官は言ったのだ。
「ええ。確か、士官学校のHAT教習課程で、あなたが考えた近接戦闘プログラムのバージョンFを使えば、勝てると思います」
ラッセンの言葉にフェリアシルは考え込んだ。
「確かに、あれなら勝てるかもしれないけど……」
「私の進言は以上です。後は、フェルの思うようにサポートしてあげればいいでしょう」
ラッセンはそこまで言うと、フェリアシルに艦に帰るように促す。
「わかったわ。少し、試してみる。それからラッセン……」
「ええ、待っています」
みなまで言い終わるよりも早く、ラッセンはフェリアシルの言葉を遮った。その姿に、フェリアシルは少しだけ寂しそうに微笑むと、病室を後にした。




