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食事を終えたセドナ達は、その後自室に帰る事になった。
俺はセドナの後ろについて歩いている。一応は、部屋まで送るという仕事だ。
けれど、俺の胸には色々な思いが渦巻いていた。その理由の一つが、目の前を歩くセドナだ。
あんなに子犬と仲良くなる為にと毎日通っていたのに、その子犬が殺処分されたと聞いて顔色も変えずに平然としているのだ。
挙句の果てに、流石ですわお父様だと? 正直、俺はそこまであの子犬と接してたわけでもないが、それでも無辜の命が勝手な理由で奪われた事に腹が立つ。
婚約者の話も、子犬の話も、民を導くだのなんだのの話も、全て表情も変えずに「わかりました」で済ますこの女が信用できない。
というか、元凶はジニアスだ。あいつ、絶対悪役の貴族じゃねえか。ゲームではいいやつっぽいエピソードとかチラホラあったのに、実際は最悪のクソ野郎だ。
いや、わかるよ。この国の文化の上では正義なのかもしれない。けど、人としてどうだって話だ。
誰の意向も確認せず、有無を言わさず自分の考えを押し付けて、それが神の血を引く一族だからだ? ふざけんな、お前も飯食って眠い時は寝て、トイレで糞尿をする同じ人間だろうが。ああ、なんかすげえイラつく。
気付けば、俺は肩を怒らせて地面を踏みつけるように歩いていた。
その姿をちらりと見たセドナは、一瞬「ふふ」と笑う。
何がおかしいんだ。おかしいのはお前たちだろ。
そんな思いが顔に出たのか、セドナは笑みを深くし、言った。
「少し、外の風に当たりたい」
そうして、庭に寄り道する事になった。
○○○
夜の庭は不気味だ。
昼間見ると綺麗な花々も。夜はその美しさを控える。
それどころか、その花の下の隠された暗闇が存在する事を意識させられる。
その暗闇の中に何かが潜んでいるかもしれない。そんな想像を惹起させる光景が広がっていた。
立ち止まったセドナがこちらに体ごと振り返り、口を開いた。
「不快な思いをさせたな。すまなかった」
風に吹かれ、謝る彼女は妙に弱々しく見える。
けど、俺のどこに向けていいのかわからない怒りは、口から飛び出しそうだった。
「あんたは、平気なのかよ」
「私が?」
「……別に、あんた達の人生に口出しするつもりはないけど。それでも、あの子犬には関係ない筈だろ」
「……そうだな。可哀想な事をした」
「可哀想!? 殺されたんだぞ!」
「すまない。私の判断が甘かった」
こちらに近づきながら、しおらしく謝るセドナ。
違う。そうじゃない、俺はセドナを責めたい訳じゃない。
いや、だとしたら、俺は何の想いをセドナにぶつけようとしているんだ?
胸中に広がる疑問は、まるで花の下に広がる暗闇のように実態がなく、掴もうとしても掴めない。目を凝らしてもそこには何もなかった。
でも、それでも何かがあるんだ。だから、俺は声を荒らげた。
「お前は! それでいいのかよ!」
「じゃあ……」
ふわりと、鼻腔にフリージアの香りが入ってくる。
セドナが、ふいに俺の胸に顔を埋めたのだ。
今まで複雑な感情で頭がぐるぐるしていたが、それが一気に吹っ飛んだ。
セドナは、そのまま顔を上に向け、悪戯めいた笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、お前がどこかに連れ去ってくれるか?」
しばし見つめ合う恰好になる俺たち。
腕の中のセドナは、存外に華奢だった。
フリージアの花の香りは、セドナの使っている香水なのだろう。その香りのせいで何も考えられなくなるが、それでもじっとセドナの目を見ていると、気付くことがあった。
悪戯っぽく笑っているように見えるが、その奥は決して笑っていない。
本気で縋りたい、そんな必死な目をしている。
余裕を見せる様な態度に見えて、体は震えていた。
悪役令嬢、ラスボス。前世の記憶にあるセドナ・ヴェルザンディはそこにはいない。
セドナは、普通の女の子だった。
俺は、頭の中で誰かにぶん殴られた気分になった。
ハッとした俺に何か気付いたのか、セドナは身を放し、不敵な笑みを浮かべて言った。
「冗談だよ。すまんな、からかってしまった」
彼女の目には、もう縋るような揺らぎはない。それが少し寂しくも感じる。
俺は、自分の心の整理をする為に彼女に問う事にした。
「セドナ。聞かせて欲しい。……まず結婚は、どう思ってる」
「悪くない話ではないか? 王太子殿下とは拝謁した事はないが、美男子で人望も厚いと聞く」
「違う、そうじゃない。お前はそれを幸せと思うのかって事だ」
「何を言っているかわからんが、それが私の役目だよ」
「わかった、次だ。お前は俺がこの国から逃がしてやると言ったら、一緒に来るか」
言うと、セドナは一瞬呆けた顔をして、笑う。
「まさか、本気にしたか? 面白い男だな」
「いいから答えてくれ」
「……無理だよ。それにな、アオイ」
セドナは空を見上げた。
「私は、この国を愛している。文化は人を歪ませ、時に悪い面も覗かせるが、それは一部でしかない。私はこの命を、この国の民の為に使うつもりだ」
俺の頭の中に、前世で最後に聞いたセドナの言葉が反芻する。
『こんな世界ですが、私は愛していました。民も、あなたも。だから、どうか立ち止まらないでください。幸せを諦めないでください。そのために死ねるのなら、私は幸せです』
俺は心が震えた。そうだ、セドナは何故、国家を転覆させたんだ。
「何をするつもりだ」
「この国はな、アオイ。もう終わっているんだ。このままだと近隣諸国に攻められ、戦火で傷付き、そうして消耗した場所は統治するだけの価値もなくなる。いずれ植民地支配されるだろう」
空を見ていたセドナが、俺の目を射抜く。その目は、確かな覚悟を感じる目だった。
「だから、早めに自分の国の内部から『終わらせる』必要がある。この国の貴族と文化は、豊かな時代であったならよかったが、今の時代ではもう駄目だ。そして民も政治が変われば暮らしが良くなると勘違いしている。だから、武力を持ったまま全てを崩壊させ、支配ではなく援助という名目で他国の関与を受け入れなくてはならない」
「援助なら、呼びかければ今でも可能なんじゃないか?」
「この国はな、周りと衝突し過ぎたんだよ。だから、その国は悪でなくてはならない。民によってその悪は討伐され、政治ができない民を他国が援助し、諸国はうまく利用してコストをかけずに利益を得る。そんな未来が理想だ」
「……セドナは、その理想の為に死ぬのか」
俺の言葉に、セドナは驚いたように目を見開く。
「……ふふ、そうだな。もし、そうだとしても後悔はないさ。最悪の悪女として民に討たれてやろう」
悪戯めいて笑うセドナ。けれど、もう騙されない。
だって、あの目の奥を知っているから。その体の弱々しさを俺は知ったから。
人知れず爪が白くなる程に拳を握る俺に、セドナはいっそ優しい声で言う。
「お前は、明日から使用人を辞めるといい。少ないが退職金も出そう」
突然の言葉に、今度は俺が言葉を失って目を見開く。
「私は少し風に当たって帰る。お前も、もう部屋に戻れ」
そう言って彼女は、去っていった。
○○○
簡素なベッドと、簡素な箪笥。スタイルミラーとクローゼット。これが俺の部屋の家具の全てだ。
いや、部屋といっていい物かわからない。元々は倉庫だったらしい。
部屋に戻った俺は、着替える事もせず、スタイルミラーの前に立っていた。
見ると、黒髪、黒目の青年が立っていた。
前世の俺と比べると、少し美化されている気がする。
線が細く、優しそうな顔をして、弱々しい目を向けている。
優しそう? 弱々しい?
「ふざけんなよ!!」
俺は拳でスタイルミラーを殴り付けていた。
蜘蛛の巣のようにヒビが入ったそれは、それでも俺の顔を写している。
俺は自分の姿に無性に腹が立ち、その平和ボケした顔に次々と拳を叩き込んだ。
「何が攻略だ! 何がラスボスだ! 何が悪役令嬢だ!! ふざけんじゃねえ!」
物に当たってもしょうがないとは思う。
でも、止まれなかった。
俺はこれまでセドナを、いや、その他のシンス達もそうだ。ゲームのキャラクターと接しているくらいの感覚でしかなかった。
それがどうだ。
セドナは自分のこれからの未来に震えて、縋って逃げてしまいたくなる程に恐れて、それでも気丈に笑う事でしか紛らわす事ができない、本当は誰かに頼りたいのにそうできない、不器用で弱い普通の人間だった。
だからこそ許せない! ゲームを攻略するくらいの軽い気持ちでいた俺自身が! 軽々しくセドナは悪い奴だから、最後に討伐されるからと人間扱いしなかった自分が!
「くそが!! ちくしょう!! あああああ!!」
見やると、手はガラスの破片で血まみれになり、スタイルミラーはもう何も写していなかった。
でも、俺は止まれなかった。手近な壁に拳を叩きつける。
壁には拳の形が血で描かれていた。
その拳の形が憎いとでもいうように、俺は壁を何度も殴り付ける。
「俺は! 俺はぁ!!!」
声が震えた。目からは涙が流れて、目の前が滲む。
前世ではこんなに感情的になったことも無かったし、泣いた事もなかった。
どうしていいかわからない。
ただ、俺の中にあるもやもやとした気持ちが燃料となって、いつまでも頭の中が燃える様に熱い。
壁に出来た赤い拳が10を超えた頃、俺は膝から崩れ落ちて泣いていた。
「うわあああああああああ!!」
それは号泣だった。
何もかもが悔しい。セドナの気持ちなんか、一度も考えた事がなかった。
子犬を処分したと言われた時、彼女はどんな気持ちだったのか。会った事も無い婚約者を告げられた時、彼女は何を思ったのか。俺がジニアスに手を踏みつけられた時、彼女はどういう想いでいたのか。
この世界に来てもう一カ月も経つのに、俺は彼女の心について何も分かろうとしなかった。
同じ人間なんだ。そんな当然の事に、まったく思いも及ばなかった。
これじゃあジニアスと同類じゃないか! こんなの最低なクソ野郎じゃないか!
そして、不意にフリージアの花の残り香が鼻につく。
その匂いは、震える少女の、弱々しい姿を思い起こさせた。
俺は顔を上げる。
その目に、かつてミーシャが開けた壁の穴が目に入った。
俺は自分の拳を見つめる。
壁は殆ど傷付いていないのに、馬鹿みたいに傷だらけの俺の拳。
ダメだ。これじゃあ弱すぎる。
俺は、ふつふつと心の底から湧き上がる気持ちを吐露する様に、唸る様な声を漏らした。
「やってやる……。やってやるぞ。ゲーマーらしく攻略してやるさ」
そして、俺は血に濡れた拳を突き上げた。
「俺が攻略した99通りのエンディングでは、セドナは死ぬ未来しかなかった。けどな! 見てろ! 俺が100番目の! 俺だけのトゥルーエンディングに辿り着いてやる!」
そして、声には出さず心の中で「待ってろよ悪役令嬢、俺がお前を、絶対に救ってやるからな」と誓うように言った。