5
ヴェルザンディ家の敷地は広い。
とんでもなく大きな屋敷がいくつかあるし、入口には大きな庭がある。
その庭には噴水があったり、花畑があったりするのだが。
今俺が居るのは、屋敷の裏側にある、花も噴水もない庭の一角だった。
土の色が足元に広がるそこに、一週間ほど前から小さな小屋が建てられていた。
そこに居るのは。
「くぅーん」
困ったように鳴く、一匹の犬だった。
子犬なのだろう、その体付きには幼さが感じられる。そんな犬が、額に汗でも流していそうな、眉があったらハの字にしていそうな雰囲気で鳴いている。
その原因となっているのは、子犬の向かいで膝を抱く様に屈みこんでい犬を見ている女、セドナだ。
彼女は、じっと子犬を見て笑っている。
いや、『屈みこんで子犬に笑顔を向ける女性』という字面からは、とても微笑ましい光景が浮かぶ事だろう。
だが、目の前にあるそれは違った。なんというか、間違い探しなら皆一様に彼女の顔を指さす事だろう。
そこにあるのは、邪悪な笑みだったのだ。
にやり、という擬音が相応しいそれは、大の大人でも後ずさってしまいそうな不穏な雰囲気が漂っている。
事実、子犬はのけぞるように嫌がっている様子だ。
しかし、セドナはそんな事は気にならないのか、時折「ふっふっふ」だとか「くっくっく」だとか小さな笑い声をあげながらじっと子犬を見つめていた。
俺は、取り敢えず聞いてみる事にした。
「セドナ様。何やってるんですか?」
「ふむ」
彼女は鷹揚に頷いてから言った。
「見てわからんか?」
わからんから聞いている。と言いたい所だが、一応は拾ってくれた主人だし、相手は最強のラスボスでもある。
俺は無駄な事とは知りつつも、脳細胞をフル動員させて考えてみた。
「やっぱりわからないです。何をしているか教えてもらっても?」
「ふっふっふ。そんなものは決まっているだろう」
セドナは、邪悪な笑顔をそのままこちらに向け、言った。
「子犬を愛でているのだ」
「……いや、じゃあなんでそんな何か邪な事を企んでそうな顔しているんですか」
「失敬な奴だな。子犬が怯えないように微笑んでいるのだ」
いや、犬、完全に怯えているから。寧ろ真顔の方がましではないだろうか。
「微笑むという言葉を、一度辞書で調べてみては?」
「無論調べた。声を立てずに、わずかに笑う事を微笑むというのだ」
「言葉の意味としては合っているのか……」
俺は僅かな頭痛を覚えて、人知れず頭を抱えて俯いた。
そんなこちらの様子を知ってか知らずか、セドナは再び「ふっふっふ」と気味の悪い笑い声をあげてから、言う。
「今日は、この子と仲良くなるために、秘密兵器を持ってきた」
「はあ、そうですか」
「これだ」
見せてくれたそれは、干し肉だった。
まあ、餌を与えて仲良くなるのは、悪い案ではないだろう。
セドナは、思わず子犬が「キャン」と吠える程の速さでその欲し肉を突き出し、邪悪な笑顔で言う。
「さあ、卑しい犬よ。この乾ききった肉片を口に入れるがいい。安心しろ、毒などは入っていない。ふふふ、変な勘ぐりはよせ、これはただの友好の証だ」
などと、ちっとも安心できない事を言う。
そう、この一週間、ここにくればこういう感じのセドナが見れるのだ。
この子犬は町で捨てられていたのをミーシャが見つけ、拾ってきたらしい。
セドナも忙しいらしいが、それでも子犬の事が気に入ったのか、毎日こうして様子を見に来ている。
それにしても、こうしてみるとセドナは悪役令嬢っぽくないような気もする。
いや、結局子犬を脅しているだけなので悪役だと言われればそうかもしれない。
けれど、国家を転覆させた大悪党というよりは、小動物を虐める小悪党のようである。
勿論小悪党でも悪は悪だし、動物虐待はいけない事だが。
ともあれ、どういう内容であれセドナはラスボスだ。距離をとっておいて、ゆくゆくは別の道を歩くべきだろう。
できるなら、主人公のアルティナと仲良くなるルートを探して王道のエンディングを目指したい。
『誰が為の戦乙女』は乙女ゲームだし、世界観が好きというわけでもなかったけど、こうして実体験として攻略するというのはゲーマーとして燃えるものがある。
そういう観点から、あまりセドナとの友好度を上げるべきではない。
しかし、セドナについて気になる事が一つ。実際に聞いてみるか。
「セドナ様、語尾にですわ、とか付けないんですね」
「なんで身内に余所行きの言葉を使う必要がある」
端的に返された言葉に、思わずなるほど、と唸る。
あれって格式ある言葉遣いみたいな感じなのか。以前の世界でも接客とかで「左様でございますか」とか、「とんでもない事でございます」とか、普段の生活では使わない言葉を耳にする事があったな。
因みに、「とんでもございません」はたまに聞くけど言葉として間違いらしい。
そんなどうでもいいような事を考える俺の隣で、相変わらず犬に干し肉を差し出す格好を続けるセドナ。
犬も困り果てているのか、目が弱々しく細められている。
助け舟を出してやろうと俺が思ったその時、犬が行動を起こした。
怯えながら、口をわずかに開いたのだ。
「そうだ。いいぞ。この肉片を口にし、己の血肉とするがいい」
絶対に黙っていた方がいいセドナが、嬉しそうに顔を歪めながら言っている。
そして、少しづつ、少しづつ子犬は口を干し肉に近づけ、もうすぐ干し肉に触れるや否やという所で。
「セドナお嬢様」
背後から声がかかった。
「なんですの? わたくし忙しいので、用があるなら早くいいなさいな」
メイド服を着た使用人に声を掛けられ、余所行きの言葉で返したセドナ。
彼女はセドナにとって『身内』ではないという事だろうか。
そんな彼女が、子犬に視線を向けて言う。
「その生き物はなんでしょうか」
「わたくしの使用人が先日拾ってきましたの。生き物を愛でるのも、時に良いものですわね」
「そうですか、ジニアス様にご報告は?」
「しておりませんわ。このくらいの裁量は与えられておりましてよ?」
「大変失礼いたしました。ただ、報告は必要かと存じますので、私から報告させていただきます」
言って恭しく礼をするメイド服の女。
貴族ってのは、面倒な仕事なんだな。いや、生まれた時から貴族ってことは、面倒な生き物というべきか。
ただ、気になる点が一つ。この二人のやり取りが、まるで刃物を突き付け合っているかのように鋭く、その場に緊張感があるという事だ。
仲が悪いのだろうか。
その場合、どっちだ。
セドナとこのメイドの仲が悪いのか、それともセドナとジニアスの関係が悪いのか。
メイド服の女は考察する俺に一瞬だけ目線をやると、再び口を開く。
「セドナお嬢様。ジニアス様からの伝言です。拾った人間を今日の晩餐に連れてこい。との事」
「承知しましたわ」
「それでは」
メイド服の女は一礼すると、そのまま去っていく。
セドナは干し肉を地面に置き、立ち上がった。
「アオイ。あなた、今日の晩餐で私と同席しなさい。使用人としてのテストのような事もされるかもしれないから、心しておくように」
そう言って、セドナも去っていく。
取り残された俺と子犬は顔を見合わせて、しばし見つめ合う。
地面に置かれた干し肉が、何故かひどく悲しく見えた。