7月7日(金)④
私は動きを止めたが、声を聞いた瞬間、何が起こったのか、そして「起こった」ことのヤバさ度合いを完璧に正確に把握した。そしてだからこそ振り返ることはせず、ただひたすら項垂れた状態でその場に立ちつくし続けた。
「いつもいつも言うこときかずに勝手なことばっかりやって……、そんなにあたしを苛立たせたいのかしら」
言うまでもなくKが登場したのである。学校内において自らの試みが予期せず頓挫させられる場合、大抵こいつの登場がきっかけとなるのだが、この場合もまた、例外ではなかったということだ。
「……」……あのなあババア、そのセリフはまず、図書館でかくれんぼしている連中にこそ向けてやってくれや、「かくれんぼ」と「散髪」という二つであれば、どちらがより「図書館」という施設から縁遠いものなのか、火を見るよりも明らかだろう……?
私はそう言いたかったが、実際にはもちろんただ黙ったまま頭の中で九九をひたすら唱え続け、Kによる言葉責めとそれに伴う発狂の予兆とに耐え続けていた。
結局Kは16:55きっかりまで管を巻き続け、かと思うとその後はいつも通り私を17:00:00に退館させることに命を懸け始めた。せめて床に落ちた大量の髪の毛だけでも何とかしておこうと真っ当な考えを起こし、掃除機を持ち出した私だったが、Kが目ざとく「何やってるのっ! 物事には優先順位ってのがあるのよっ! そんなの明日の朝でいいじゃないのっ! 明日の朝早く来て片づけなさいよっ!」と一喝してきたことで完全にやる気がなくなり、万事休した。……いや、「そんなの」……って、お前の中での「優先順位」はいったいどうなってるんだよ……?
そうして最悪の気持ちのまま、帰途についた。これで一週間以上プールに入ることができていない。次に「泳いでもよい」との許可が下りるのは、いったいいつ頃になるのだろうか……?
しかし結論から先に申し上げれば、その日のクライマックスは、むしろそこから始まることとなった。
そして同時に私の運命は、大きく変わっていくことになる。
そうしないとまた嫌味を言われるということで、大きな声で挨拶をしてから図書館前でKと別れ、校舎を出るあたりまで、普段と変わらない光景が続いた。
逆に言えば決定的瞬間は、もうすぐ校門のところにたどり着くというタイミングでもたらされた。そう、大仰な物言いは個人的には好むところではないが、それに関しては、まさしく、正真正銘、紛うことなき、「決定的」な「瞬間」と言ってよいだろう。
校門のすぐ近くには守衛室があって、その隣には二つ、横に並ぶ形で胸像が設置されていた。創立者ともう一人……、誰だったか忘れたが、とにかくその私立高校にとって重要そうな人物を讃えるために作製されたオブジェのようだった。少なくとも、当初はそのような理念の下、作製・設置されたものであったはずだ。
だが残念ながら現在のそれは作成した側と作成を許諾した側の両陣営の神経を疑いたくなるようなひどい代物に堕していた。何しろ恐らく何の覆いもかぶせられることなく、ただひたすら直射日光や風雨にさらされ続けたせいなのだろう、像全体がナイフか何かで適当に表面をそぎ落としたかのようにボロボロになっていたのだから。顔に至っては、黴なのか錆なのか正体のよくわからないもので全面が隈なく覆われていた。最初にこの学校を訪れた時(たぶん面接の機会だ)、校門をくぐってすぐのところで、畏れ多くもそれらにお目にかからせていただいた時は、人間を象った像というよりも、何らかの非人道的な実験を重ねていく過程で偶然生み出されたバケモノが、関係各所をたらいまわしにされた挙句、その場に打ち捨てられたかのような印象を受けた。
だが私はここで、胸像の外見的なヤバさについて、云々しようというのではない。そもそもこの学校にまつわる存在(教員や生徒など)の多くが、皆それぞれ人並み以上のヤバさを備えた連中ばかりだったのであるからして、胸像のヤバさはむしろ整合的である。
だからここで「胸像」の話を持ち出したのは、その胸像の一つ(恐らく創立者でない方)が、私に向かって語りかけてきたからである。
より正確を期せば、語りかけてきたのは像そのものではなく、その影であった。
本格的な夏が近づいているとは言え、さすがに太陽が少しずつ沈み始めた感のある午後5時すぎ、人の上半身を象った像に由来するとは思えないほど、影は縦に長く引き延ばされていた。わずかにくびれているように見えなくもない箇所があることで、かろじて頭とその下の部位との区別がついたのだが、ここで着目したいのは、影のてっぺんである。製作者のひそかな悪意がそうさせたのか、像はどちらも頭が完全に禿げ上がっていて、つまり偉い偉い創立者様とその関係者は、よりによってハゲの状態のまま、半永久的にそこに閉じこめられていたのだ。だからいくら引き延ばされていようと、頭頂部の影は少なからず丸みを帯びていなければおかしいはずだった。
しかしちょうど私の足が、影の中で頭頂にあたる位置を踏み抜いた直後、変化が兆した。
私が足を上げるか上げないかというタイミングで、「角」を彷彿させる何かが二本、ゆっくりと顔を覗かせ始めたのだった。
すぐに異変に気付いた私は、どうやら厄介事が持ち上がってきているらしいと頭で理解はしていた。だが反面その「厄介事」は明らかにこの世の理を外れているようだったため、頭の処理が追い付かず、結果的に私はしばらくの間その場に静止し、ただひたすら事態が展開していくのを見守ることしかできないでいた。
数秒後、二本の「何か」の成長が止まり、あとに残された影のシルエットから私が連想したのは……「ウサギ?」
そう、初め「角」のように思われた「何か」は予想よりもさらに長く伸び、さらに先端がほんのわずかに垂れ下がるようになったことで、むしろ兎の「耳」を彷彿させる外貌を獲得していた。もちろんだからと言って、何かがわかりやすくなったわけではない。
だがそれよりも何よりも私を驚かせたのは、先に言及した通り、影が言葉を発してきたことだ。例えばくだんの私の呟きに対し、それをかき消すようにして影はこう言ったのである。
「早く戻れ」
「……」もちろん影がしゃべるだなどというたわけた事態の発生を全く予想していなかった私には、すぐに反応することなどできない。
「早く戻れ」
もう一度同じ言葉が繰り返される。確証はなかったが、何となく声が下方向から聞こえてきている気がして、私は膝に手を突いてかがみ込んだ。老朽化のせいなのか、ひび割れの目立つコンクリートに、陰影がところどころ形をゆがめつつ張り付いているというだけの光景には、特筆すべきことが何かあるわけではないように思われた。
だがほどなくして再び声が発せられた時から、私は間違いなく、声が「影から」「こちらに向けて」発せられているのだということを信じて疑わなくなった。その認識の変化の理由は存外単純で、いつしか影の一部分がわずかに欠けたようになり、言葉が放たれるのに合わせて、その部分が開いたり閉じたりすることを繰り返し始めたからだった。あたかも口を動かして、セリフを発しているかのように……。
「……どういうことだ?」私はもう一度、そう呟いた。下を向いているためなのか、後ろ髪の襟足に当たる箇所にやけに強い陽光がぶつかってきている気がする。全身を覆う汗の膜が鼻の辺りで破れ、滴となって垂れ落ちることが連続する。
「早く戻れ」
「……モド……レ?」
「そうだ、さっきお前が俺を産み落とした便所にだよ」
「……」オレヲ、ウミオトシタ、ベンジョ? やっと違う言葉が投げかけられてきたが、それが何を意味するのか、さっぱりわからなかった。わかりそうな気配さえない。あるはずがない。
反面、「言葉が変わった」ということによって、「聞こえている声は幻聴ではない」という解釈が私の中で優勢なものとなったのは確かだった。仮に「幻聴」だとすれば、その「変化」はあまりに局所的で劇的に過ぎる。単に「思い込み」という風に受け取って得心をいかせるのに、新たな「言葉」は立派でありすぎたということだ。
しばし思案した私だった、少なくともとりあえず「便所」に行くべきであるらしいということは何となくわかった。さらに、「さっき」という表現がついていたことから、直近で利用した図書館脇の「便所」のことを言っているのだろうとも推測がついた。もちろん積極的にそうしたいはずもなく、また「影がしゃべる」という、なかなかどうして奇矯な展開に、既に強く頭が痛み始めることが始まっていたが、残念ながら他にどうにもしようがないということで、私は身体を起こすと一つ大きく伸びをし、それから再び校舎の中に入ったのである。