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7月7日(金)②

 一瞬にして場の空気が硬直し、続けて静寂がその上を隈なく覆って回った。つまり事態はいったん、私の意図した通りに収束していったと言ってよい。まず静かにすること。図書館での滞在に際して、それが最も基本的な心構えであることは、絶対に疑い得ない「常識」だからだ。

 しかし反面、これまで私にとってあまりに厳しいものであり続けてきた現実が、いつまでもこちらの「意図した」通りに伏在したままでいてくれているとは限らない。

 むしろ私が「意図した」結果、それとは異なる風に転がり始めるというのがいつもの「王道」パターンであり、今回もまた、例外ではなかった。

 耳にした瞬間、「聞き間違い」であることを疑いたくなるような、そんな異音がいきなり発生し、場の空気を様々な意味合いにおいて大きく揺るがせてくれたのは、それからすぐのタイミングだった。

「ぶちっ、びゅち、びゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅるるるるるる……」

 どうだろうか? 文字面を目にするだけで、発生した事態のヤバさの度合いが、この上なくはっきりと、うかがい知れるのではなかろうか? いや敢えて疑問を投げかけるまでもなく、何か決定的な紐帯が引きちぎれたことを彷彿とさせるその音こそ、言わば「新世界」の幕開けを高らかに謳い上げる号令であった。

 ここまではっきりと名状してしまえばもはや言うまでもないだろうが、要するに怒りに任せて息んで声を上げた瞬間、私は下着の中に新たな下痢便が産み落としてしまったのだ。まさしく、「新世界」の到来と呼ばれるにふさわしい出来事だろう。……いや、だがどういうことだ?

 いったん肛門が開いてしまったが最後、既に何もかもが手遅れであり、だから何の意味もないとわかってはいた。だが、それでも私は自らに、執拗に問いかけずにはいられなかった。

 ……お前は確かにすぐ前まで便所にいたはずではなかったか? それを「劇的な出来事」だなとど大げさに位置づけ、確かにその職責を全うしたのではなかったか? にもかかわらず、いったいなぜ、もう一度衣類を着用した今このタイミングで、心機一転再び一生懸命踏ん張って、まさしく新たな生命の息吹を感じさせるような、そんな尊い営みに精を出さねばならんのか? ……貴様はいったい、何がしたいのか? ただの、バカなのか? それとも頭、いや尻のネジが吹っ飛んでいるのか? マジでふざけるのも大概にしておけよ……。

 だがやはりどれだけ悔やもうと、いったん確立してしまった「現実」の姿を改めることは絶対にできない。殊にこの時のようなケースにおいては、改めようと望むこと自体が「噴飯物」だろう。唯一「できる」ことと言えば、せいぜい「現実」がそれ以上悪い方向へと傾いていかないよう、場当たり的に対処することぐらいだ。違うか? ……いや、違わない。この場合で言えば、「再度トイレに行くこと」がその「対処」に該当する。

 だから私はそうした。


「全て」を放出してしまったということで弛緩し、快感に貫かれるとともに恍惚とさえし始めた身体を叱咤激励し、さっそく移動を開始した。

 肛門の辺りのズボンを上から左の掌で抑え、極力被害が拡大しないよう努めながら、それでいて太腿の裏側を恐らくウンコに由来すると思しき液体が、一筋、二筋と流れていくのを冷ややかに感じつつ、ゆっくりと後退していき、何とか図書館から出ると、再度便所の個室に籠った。こういう時に限って、隣の個室を誰かが占有しており、時折何やら呪詛のような唸り声が聞こえてきていたが、無視して応急処置を続けた。

 まず、主に指先を筆頭とするさまざまな部分がクソだらけになるのを甘受しながら、頑張って下半身を剥き出しにするところまで持って行った。下着はもう使い物にならなかったので、便器の中にそのまま突っ込んで流した。その時にまた「おいっ!」という呼びかけが聞こえたような気がしたがやはり無視して無心で作業に勤しんだ。逆に下着の野郎が身を挺して被害を食い止めてくれていたおかげで、ズボンの方は何とかギリギリそのまま穿き続けられそうで安堵した。後は臀部を綺麗にすれば終いだ。

 隣で踏ん張ってるらしい何者かを除けば、近くに誰もいないことを確認してから個室を出ると、蛇口をひねり、激しく水を出しっぱなしにした状態で手洗い場のシンクに後ろ向きに腰かけた。

 そうして洗浄すること体感にして約5分、ある程度肛門回りが清められたことを確認した私は、ズボンだけを穿き、図書館への帰還を開始した。

 外の世界をノーパンでウロつき回るというのは、少なくとも記憶にある範囲では初めての体験であり、だから最初のうちは身も心もヒヤヒヤしたものだったが、すぐに慣れた。それどころか、かなりキビしい極限状況を知恵と工夫で乗り切ったことで、私は少なからず満足感を覚えてさえいた。

 ……やればできるじゃないか、さすがにこれまで数々の修羅場を経験してきただけのことはある……。

 そしてその上等な心持は、図書館内の環境が先刻までとは見違えんばかりに清浄化されていたことで頂点に達した。

 簡単に言えば、クソガキどもが「かくれんぼ」をやめて大人しく席についていたのだ。

 ようやく私の真剣な訴えかけが功を奏し、クソガキどもの心を動かしたということなのだろう……。私はそう考え、さらにほんの少しだけ、気分を良くした。

 だが結局のところ、それは単なる勘違いに過ぎない。そう、完全なる勘違いだ。

 冷静になって考えてみたまえ。クソガキどもが自らの振る舞いを顧みて、その奇行を検めるなど、あるはずがないのだ。それはクソガキが、クソガキたる所以を手放すことを意味する。そんなことは起こり得るはずがないし、期待するだけ野暮というものだろう。

 だから裏返して考えれば、クソガキどもの静けさは、「純粋な良心の発露」などではなく、むしろ「より重篤な奇行の徴候」ということになる。

 当該時点において、私がようやくクソガキどもの真意に気づいたのは、ノーパンのままゆったりと歩いてカウンターに戻り、いつもの席についた時のことである。

 


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