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7月20日(木)⑳

 勤め始めてから3ヶ月近くが経過したとは言え、もちろんまだ教職員全員の顔と名前が一致しているはずもなく、だからその時現れたのが誰だったのかはわからない。まあわかる必要など特にありはしないのだが、いずれにせよ、だいたい五十代半ばぐらいに思われるその女性は、気の弱そうな見かけとは裏腹に強引に扉の隙間に顔と手をねじ込むと、「手招き」に似たしぐさを行いながら言ったのである。

「校長先生ちょっと、いいですか?」

「え? なんですか? いきなり……、今は、ちょっと、ダメなんですけど……、というか、どう見てもダメだろっ!? ダメなのかいいのかっていうのは、そもそも空気から察せられないですかっ!? ……あなた誰ですかっ!? 何様ですかっ!? これまでの人生、いったい何を学んできたんですかっ!?」

 校長は皺だらけの顔を歪め、さらに皺くちゃにしながら、それだけのことを一気に言いきった。風体からして異常者であることの明白は副校長やヤザキとは異なり、校長はつい先ごろまで所謂「好々爺」然とした雰囲気を崩さずにいたが、ここでようやく化けの皮が剥がれた。予想できていたことだが、実際にはこいつもやはりまたそれなりにイカれているのだと、私は確信を得た。

 それゆえもし私が同じ立場(大の大人にもかかわらず、激しく叱責される)に置かれたならばすぐにでも警察を呼ぶか、もしくは椅子か何かを武器として用いて返り討ちにしてやるところだったが、その女性は違った。彼女はひ弱な外見に似合わず、所謂「鋼のメンタル」の持ち主であるらしく、めげずに食い下がることをしたのだ。

「いや、でも、ちょっとだけ、いいですか?」

 結局根負けしたのは校長だった。ほどなくして奴は嫌そうな表情はそのままに無言で立ち上がると、一人で外に出て行こうとしたのだ。敵の一味の首領が退場するということで、一瞬だけ運が向いてきたかのように思ったが違った。すぐに女性が「あ、副校長先生と、ヤザキ先生も一緒に、お願いします」と慌てて付け加えたことで、結局最終的に私はKと二人きりで応接室に取り残されることとなったのだった。複数人に取り囲まれていた時よりも、状況はむしろ悪化したと言ってよいだろう。……空気が重く、ただひたすらに、息苦しい……。

 いたたまれなくなった私は室内を意味もなくしばらくうろついたのち、出入り口をふさぐように閉め切られた扉に近寄ると、耳を近づけた。もしかすると校長らがすぐ外で何やら話し合っているのではないかと考え、内容を聞き取ろうとしたのだったが、結局知覚できたのは、かなり遠くにあるはずの体育館で鳴っている、プログラムタイマーのブザー音だけだった。

「あんた……、本当に『カメノコウラ』が何か、知らないの?」

 気づくとKに話しかけられていた。他に誰もいないので、そうする必要もないはずなのに、Kはなぜか声を低めていた。その芝居がかった振る舞いは、相変わらずこちらに眩暈を起こさせるほど十二分に不愉快だった。抵抗すること自体が馬鹿らしく思えてくる……。

 それゆえ耳を扉に近づけていた私もまた、いったん立ち上がって身体を伸ばすと、同じように小さな声で返した。

「知らないですよ、知ってるわけないでしょ」

「どうだかねえ……、もし知ってるなら、惚けないで早く白状しなさいよ、こっちだって、暇じゃないんだから」

「……だから、知らないことをなぜ知っていると言わなければならないのか」

 互いに視線を合わせることもなくそっぽを向き合ったまま、言葉だけを闇雲に突き刺すようにして交換し合ったのち、私はどうしても確認しておきたいことがあり、尋ねた。

「そう言えば、俺からも一つ質問、いいですか?」

「え? あんたが私に質問? なんで?」

 無視してそのまま続けた。

「俺が体育館に行くって、どうやって、わかったんですか?」

 そう、その後の展開があまりに急すぎて、すっかり忘れていたのだったが、あの時体育館で鉢合わせたことの理由が、自分ではどれだけ考えてもわからないままだったのだ。

 だが意に反して、Kの方は取り立てて何でもなさそうな口調で言った。

「……ああ、そのこと……、ドウヤッテって、連絡があったに決まってるじゃないの」

「レンラク? 誰から?」

 Kが口にしたのは予想外の人物の名前だった。

「中村先生よ」

「ナカムラ?」聞き間違いかと思った。「なんで、ナカムラが……?」

「知らないわよ、でも、今から体育館に向かうって、わざわざ教えてくれたのよ」

「……」教えてくれただと? いつどこでどのタイミングで? いやそんなことよりも……、どういうことだ? いったいなぜ、何のために、あいつはそんなことをしたのか……? 

 後から振り返って考えてみれば、この疑問は存外重大な意味を持っていた。もう少し突っ込んで深く掘り起こしてみれば、私は一つの真相にたどり着くことができただろう。

 だが残念ながらと言うべきか、実際には私はその疑問について、それ以上考えることができなかった。

 なぜならすぐに再び勢いよく、扉が開け放たれたからだ。


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