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6月30日(金)⑤

 改めて、まず「先輩」の容姿を確認していこう。簡単に言えばデブで、さらにデブであることの他に脂ぎっていること、鼻息が荒いこと、髪の毛がギトギトなこと、せき込むと止まらなくなることなど、とにかく近寄った者に生理的な嫌悪感を催させる能力にステータスを全振りしたらしいクソだった。

 それゆえ、至近距離で必要最小限の言葉を交わしているだけで我慢できなくなり、その鍾乳洞を彷彿させるレベルで垂れ下がった腹部に右アッパーをかましてやりそうになったことは幾度だか知れない。つまり簡単に言えば、そのデブは様々な意味合いにおいて「規格外」だったということであり、その意味でも、やはりKの相手として、全く不足はなかったわけだ。

 だがしかしそうは問屋が卸さなかった。

 何しろ、私が就職してわずか2週間足らず、ちょうどゴールデンウィーク明けから、「先輩」改めデブは、職場に来なくなってしまったのだから。……たわけている、あまりにたわけていすぎる……。

 のちにナカムラから聞かされた話によれば、精神的に病んでしまったのだそうだ。初めは1ヶ月だけ休職するつもりだったらしいが、休んでも状態は一向に改善されず、結局そのまま退職の運びとなるだろうとのことだった。

 ナカムラも本人から直接聞いたわけではないらしく、だからその話がどこまで的を射ているのかについては確かめようがないが、もし本当だとすれば、とんでもない場所に来てしまったようだと、私はその失踪したデブの「近況」を聞かされた直後、授業中ということで他に誰もいない図書館で、閲覧用の席に腰かけ、持参した酒を肴に昼食を取りつつ考えていた。

 ……思い返してみれば、そもそも私がこの学校にやってくることになったきっかけもまた、やはり元々働いていた別の図書館職員の失踪なのだ、つまりそれほど長くない期間の内に、図書館関係者が2人も、忽然と姿を消したということになる、これはいったいどういうことだろうか……?

 初めは若干の希望的観測も込め、そのように半ば便宜的に疑問を浮かべなどしていたのだったが、図書館職員の連続失踪事件の「真相」は、実際には火を見るより明らかだった。「先輩」の蒸発から数日が経った頃には、私は早くもそのことを完全に理解していた。誰かから知らされたというよりも、ただごく普通に学校生活を送っているだけで、全身でそれをヒシヒシと実感することができていた。

 ここまではっきり述べてしまえば、もはや皆まで言わずとも明らかだろうが、その「原因」とは、要するにKの存在だった。


 先に述べた通り、Kは社会科の教員である。恐らく部長職にあるということで担任ではないのだが、授業は普通に行っていて、たぶんその数もそれなりに多いはずである。にもかかわらず、奴は頻繁に図書館にやってくる。校舎のはずれの、しかも最も高い位置にあって、生徒でさえなかなか近寄らない場所なのだが、奴は暇さえあればわざわざ足を運んでくれやがるのだ。もちろん「読書」が目的なのであれば、私も止めはしない。図書館で読書をすること。そこには何らおかしなところは含まれていない。

 だがもちろん、そうではないのだ。

 Kが図書館で行うことは、端的に言えば「監視」であった。

 まずカウンターや準備室で業務を行っている私の横に座り、じっと熱い視線を注いでこちらの働きぶりを見極めようとしてくれたかと思えば、今度はおもむろに立ち上がり、何をするでもなく、館内をゆっくりと歩いて回り始める。そして何か気になるところを見つけようものなら、すごい形相ですかさず厳しく激しい指摘を行ってきやがるのだ。

「床に埃が溜まってるわ、ちゃんと毎日掃除してるの?」「……」

「机に消しカスが落ちてるわ、ダメじゃない、不衛生ねえ」「……」

「棚の中の本が傾いて倒れそうになってるわよ、ちゃんとチェックしときなさい」「……」

 ……いやいやいやいや。

 ちょっと待て、と私は言いたい。「埃が溜まる」のも「机に消しカスが落ちている」のも「棚の中の本が傾く」のも、全て当然のことだ。それが日常生活というものだ。違うか?

 だがもちろん筋金入りのクソに、正論など通じない。勤め始めた最初の日に既にそのことを嫌と言うほど思い知らされた私は、だから普段から何を言われようと、基本的にただ黙って曖昧に笑みを漏らすだけで済ませている。要するに非常に寛大な心で以て慈悲をかけてやっていたということであり、さらにまた、人生全般を通じておかしい奴らと半ば強制的に交流させられ続けてきた私は、「波風立てずに済ます」ことがこの場合の最も賢い対処法だと知っていた。

 だがそんな私でも、一つだけどうしても我慢ならないことがあって、それはKが私を夕方5時きっかりに帰らせることに並々ならぬこだわりを見せていることだ。

 この学校の勤務時間は、「8:30~16:30」である。私はそのことを採用面接の際、眼鏡のレンズが分厚すぎてどこを見ているのか全く分からないという笑える特徴を持つ「事務局長」なる人物から繰り返し聞かされていた。

 そして実際、他の事務職員たちは、どれだけ忙しかろうと、仕事が残っていようと、16時半になると荷物をまとめて足早に学校を後にする。教員連中が、早く帰るのが罪ででもあるかのように、特にやることもないのにその辺りをフラフラして時間をつぶしているのとは対照的だ。要するに「働き方改革」の叫ばれる現代においては、そのような割り切った「働き方」こそが「スタンダード」ということになるのだろう。逆に言えば、閉館時間に合わせて図書館職員だけが17時まで勤務を続けていることがむしろ特例に該当するのである。

 だがだからと言って、毎日閉館10分前になると図書館にやってきて、生徒よりもこの私を帰らせることに病的なほど強い情熱を注ぐというのはいかがなものなのか? もしかすると、過労死を恐れているのかもしれないが、貴様がやっている「追い出し」行為は、本当に労働者を守るための配慮だと言えるのか? 少なくとも私はそれによって、むしろ多大なるストレスを受け続けているわけだが……、どうなんだ?

 もっとも、前日までであれば、私は帰途に就いたふりをしてどこかの男子便所に籠り、時間をつぶしてから「プール開き」を迎えることで、やるかたない憤懣を少しは解消することができた。ここで言う「プール開き」とは、だいたい19時過ぎに生徒が校舎から消え、私にプールで自由に泳ぐことのできる時間が到来することを意味している。さすがのKも男子便所まではついてこられないだろうし、またプールの鍵の予備は私しか持っていない。そして目的が「鍛錬」であれ、身体を動かすことはそれ自体、やはりとても気持ちのいいものなのである。

 だがプールが使用できなくなった今、全てが一変した。

 まるで生徒を叱る時と同じような大きさと高さの金切り声で、「ほら、もう時間よっ! なにぐずぐずしてるのよっ! 早く閉館の準備しなさいっ!」などと執拗に追い立てられ、ほとほとうんざりした気持ちにさせられながら腰を上げ、荷物をまとめ始めた私は、これまでとは異なり、絶望的な気分を抱えたまま、しかも一歩一歩それを膨らせながら、家に帰るしか、なかった。

 

 しかし残念ながら、私はまだ気づいていなかった。

 プールでの大腸菌の発生、それは実際にはまだ、ほんの序の口にすぎなかったのだ。


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