6月30日(金)④
この学校が特別なのか、はたまたどの学校も同様なのかは、他所で勤めたことがないのでよくわからないのだが、少なくともこの学校における「教員」を自称する連中は、「生徒」を名乗るクソガキどものクソっぷりに合わせて採用されたかのように、どいつもこいつもがクソであるという点で共通していた。まあ「教員」とやらを名乗っているだけで偉くなったと勘違いしているのは序の口として、他にもわけのわからないところでブチ切れたり、自らの非を認めずに逆切れしたり、同じことを毎日のように何十回も繰り返しても平気でいたり、そのくせ、保護者対応の時だけ過剰に遜ったりするといった風に、大げさでなく挙措の全てが「目の毒」だった。
しかしKはそんな「盤石」の教師陣のうちでも、出色のクソだった。乱暴な物言いで申し訳ないが、大げさでなく、人間として扱うことすらご遠慮したいレベルだった。
こう言うと、何やら私の側がただ一人で勝手にいきり立ってめちゃくちゃにこき下ろしているだけのように思われるかもしれないが、そうではない。そいつは間違いなく私の尊厳を大いに侵害してくれたのであり、その意味で「百罰」どころか、「千罰」や「万罰」に値すると言っても決して過言ではないくらい、正真正銘本物のクソだった。
もちろん、おかしい奴とはできるだけ距離をとって関わり合いにならないようにするというのが定石であることは重々承知している。その意味で、クソ中のクソから「被害」を受けるような状況を作り出してしまったこと自体が私の落ち度であるという見方は成立しなくもない。つまり本当に困難を避けたいのであれば、あらかじめアンテナを高く張り、一足先に危険の近づきを察知すべきだったということだ。
だがそうではないのだ。
何の因果か、私は望む望まぬにかかわらず、ただ生きているだけで、そのクソの権化と極めて密接な関係性を結ばざるを得なくなった。なぜなら図書館職員である私に対し、そいつは校務分掌で言うところの「図書部長」の役職についていたのだから。……私は問いたい。本当に心の底から強く問い申し上げ仕り候いたしたい。マジでなぜこいつを要職につけたのか? 「図書部長」など所詮「窓際族」の末路に過ぎないなどという事実は、ここでは全く何の意味も持ちはしない。「部長」であることに変わりはない。……本当に、人事の配置を考えた連中は、いったいどういう了見だったのか? 頭が沸いているからと言って、何をやっても許されると思っていたら大間違いだぞ……。
だが仮にどれほどおかしかろうとも、既に確定してしまった「現実」に対して云々したところで、それは全くの無駄というものである。そういうわかりきったことを、改めて思い知らせでもするかのように、Kがさらに畳みかけてきた。
「もうすぐ五時だからさあ、そろそろ片付けしなさいよ」
四月の半ば過ぎ、この学校にやってきたばかりの私と初めて言葉を交わした時、Kは気色の悪い笑みを顔に張り付かせていた。「気色の悪い」と述べたのは、マントヒヒそっくりの顔のつくり自体が、見る者に嫌悪感を催させる造作だったことに加え、さらにその「笑み」が明らかに「作り笑い」だったことに多くを依拠している。作り笑いは、「それ」と悟られていない場合はまずまず有効に機能するが、逆に「それ」であることが明らかな場合、見る者に疑念や不快感の類を催させてやまないものなのだ。
実際Kと対面した私は、図書館や勤務形態などについての様々な説明を聞きながら、早くも強い吐き気と頭痛の類に襲われ、スムーズに身動きが取れなくなっていた。もちろん、奴が放散してやまない虚飾めいた雰囲気が、最大にして唯一の原因である。さらにその「吐き気と頭痛」のダブルパンチは、時間の経過とともに威力を増していき、だいたい「説明」が二時間を超えたあたりで、ある種の「嫌な予感」として結実するに至った。だが、それも当然だろう。この学校の図書館は、格別大きいわけではない。ところどころで立ち止まりながらゆっくり見て回ったとしても、10分もかからないぐらいで踏破できる、そんなごく普通の学校図書館だ。にもかかわらず、わざわざ「二時間」もかけて、いったい何を「説明」することがあるというのか。
そのような事情で私は新しい「職場」への最初の出勤日の、しかも正午にもまだ達しないタイミングで、既に転職したことを後悔していた。まさしく「嫌な予感」というわけだが、それでも本来であれば、私は最初のガイダンス?を除けば、以降それほど頻繁にヤマギシと接触する必要はないはずだった。なぜなら同じ図書館にはもう一人別の、言うならば「先輩」と称されて然るべき人物が存在したからだ。つまり、ヤマギシと日常的にやり取りを交わし、図書館をともに運営していくという非常に名誉な役割は、本来私のような「新米」ではなく、その「先輩」こそが担うべき役割だったということである。
だが「先輩」がその学校の関係者の御多分に漏れず、例によってなかなかどうしてパンチの効いた人物(=クソ)だった時点で、私は期待を全てかなぐり捨てて覚悟しておくべきだった。
まず着目すべきはその容姿である。もちろん、こき下ろしたいわけではない。単に外見の異様さを論い、誰かを馬鹿にするというのは、むしろ自分自身が救いようのないカスであることを自ら証明しているようなものである。だが反面、そいつ自身に「こき下ろされるべき要因」があった場合は話が別だ。その場合、「容姿をこき下ろすこと」は、単なる「幼稚な意地悪」ではなく、「怨恨に基づく正当な仕返し」へと変貌するからだ。
この場合もまた、そうだった。