「仕事」について①
思い返しているだけでムカついてくるが、もう少しだけ、過去の話を続けよう。
3月20日の丑の刻近く、本来母親が担うべき「父親の介助」の役割が、あろうことか自らに回ってきたことで、私の中で何かが壊れた。その時以来、どのような物事に対しても、積極的に頑張ろうという気がなくなった。何をやっても無意味だという気がした。自分がいかに抗おうとも、現実の厳しさを前にしては圧倒的に無力だと気づいたということだ。
もちろんここに見られる所謂「認識の転換」は、陳腐と言えば陳腐だ。それこそ、かつて「ヒーローになりたい」などという、「可愛らしい」を通り越して「可哀そう」な夢を無邪気に抱いていたクソガキどもの大半が、自分が「ヒーロー」どころか、そもそも「端役」として「物語に参加すること」すら許されない矮小なクソだと気づく時期、通称「思春期」においては、そこらじゅうで掃いて捨てるほど同じ現象が発生しているはずである。
だからもちろんより重要なのは、3月20日深夜の出来事が私の情緒面にもたらした影響ではなく、より実際的な状況変化の方であった。
例えば、この出来事をきっかけにまず、父親が仕事を辞めた。
もちろん「自由」というのは憲法でも基本的人権の一つとして保障されているのであるからして、本来であれば、誰が仕事を辞めようが辞めるまいが、私にどうこう言う筋合いなどない。と言うよりも、そんなことは別にどうだっていいことだ。
だが、ダメだ。
父親が仕事を辞めたことについては、「憲法」だの「人権」だの、それらしい文言を持ち出してきて自分を納得させ、承服・看過してしまうわけにはいかない。J・S・ミルとやらの所謂「自由論」を参照するまでもなく、誰かの「自由」に対し、無関心を貫くことが可能なのは、私個人の「自由」がそれによって損なわれていない場合だけに限られる。そしてその観点からすれば、繰り返しになるが私は父親の手前勝手な辞職を単なる「権利」の行使であるとして認めてやるわけにはいかなかった。
なぜなら父親が仕事を辞することは、端的に「我が家」の収入が途絶えることと同義だからだ。
ここでいったん、「我が家」の家族構成について、簡単にまとめることをしておこう。
①父親ミウラカズヨシ(55?)…塾講師
②姉ミウラカンナ(28?)…自宅警備員
③私ミウラリョウヘイ(24)…自宅警備員
この「まとめ」を参照することですぐに気がつくのは、「我が家」における「自宅警備員」率の高さである。3分の2、つまり割合にして約67パーセントだ。もちろん同じ名を冠せられていると言っても、私と姉の仕事の内容はかなり違っている。いや、「担当」が違っているというべきか。基本的に自室のみを重点的に警備する姉とは異なり、私は広く街全体の動向に注意深く気を配っている。つまり正確を期すならば、私はこの街を統べる「神」なのだと称されて然るべきだ。
だがいずれにせよ、職種という観点から言えば、二人ともが自発的に「自宅警備員」を選択したというのは紛れもない事実であり、さらにそこからは自らのテリトリーの治安を守りたいという強い「使命感」の類いをくみ取ることができるだろう。職業人として、まさしく「模範的」である。
だがここで重要なのは、以上の通り、「模範的」な勤務姿勢が、その裏返しとして、収入面で完全に父親に依存するという、非常に望ましくない事態をもたらしていたことである。なぜなら周知の通り、「自宅警備員」というのは、実利を度外視した上で初めて成り立つ、極めて清廉潔白かつ崇高な職業だからだ。
確かに、パトロールの最中、時折自販機のおつりが残っているのを見つけたり、時折誰かの自転車の籠にコーラのペットボトルが放置されているのを見つけたりなど、期せずして臨時収入を得ることはある。だが、「自宅警備員」の毎月の給与は、基本的に「0円」均一であり、もちろん昇給や賞与などを望むこともできない。まさしく「ボランティア」というわけであり、そんなほとんど一文の得にもならない雑用に、ただひたすら「仕事だから」という理由によってのみ精を出している我々は、まさしく「聖職者」と表現されて然るべきだろう。
いずれにせよそのような事情のもと、大変不本意ではあるが先に述べた通り、「収入面で完全に父親に依存する」という屈辱的な帰結がもたらされることになる。言うならば父親は我が家の「財布」というわけだが、そんな風に「財源」としての役割にのみアイデンティティを見出すべき生き物が、あろうことか勝手に、私の許可を仰ぐこともせずに仕事を辞め、その役割を放棄したのである。……忌々しいことこのうえない。いったい何様のつもりなのか。




