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6月30日(金)➀

 大腸菌が出たためしばらくプールは使用禁止になる。

 その話を聞かされた時、私の頭に思い浮かんだのは、「またか」の三文字だった。ここで言う「またか」とは言うまでもなく、「これまで幾度となく繰り返されてきたこと」が「再び発生したこと」に対する「うんざりした気持ち」を表している。

 とは言え、「プールの水から大腸菌が出る」という、どの角度から眺め直したとしても極めて特殊であることの明らかな出来事が、私の人生において既に発生済みだったというわけではない。むしろ当然、それは初めての経験である。

 だからこの場合の「またか」は、出来事の「具体的な内容」よりも、その「形式面」に限定して向けられていると考えるべきだ。簡単に言えば、私は運が悪すぎるのだ。ただ生きているだけなのに、ロクでもない不幸が次から次へと襲い掛かってきすぎるのだ。その「不幸」の際たるものは、もちろん生まれたことだが、ここ最近それが襲い掛かって来る頻度が、さらに加速度的に増しているような気がしていた。

 くだんの「悲報」を伝えにやってきたのは、保健体育の教師のナカムラだった。

「笑えるよな、大腸菌だってよ、ダイチョウキン、ハハッ、響きからしておもしれえな」

 イラつきや戸惑いなど、あらゆる負の感情が入り混じって頭の中がグチャグチャになっている私の状態に全く頓着することなく、ナカムラはそのように言って笑った。もちろん私には何が面白いのかさっぱりわからない……。

 ナカムラと私は現在同じ私立高校で働いている。奴は教員で、私は図書館職員だった。この年の春、年度初めに図書館職員が謎の失踪を遂げ、代わりの人員が必要になった際、ナカムラが学校側に私を推薦し、働けるように計らってくれたのだ。つまり私にとって奴は、ある種の「恩人」ということになる。

 だがこの男が私に対してこれほど馴れ馴れしいのは、我々が古くからの馴染みであるという点に拠っている。出会ったのはずっと昔で、確か幼稚園に通い始めるよりも前から同じマンションに住んでいた。小学校から高校まで同じ学校に通い、さらに部活も同じ卓球部だった。大学進学を機に違う道に進んだが、ついこの間再会し、また取り留めのない会話を交わすようになった。図書館の職の斡旋も、そのような流れの中から自然と出てきた話だった。

 だが我々二人の間柄など、ここではどうだってよろしい。

「……喜んでる場合かよ、しばらく泳げねえってことだろ、どうすんだよ、話がちげえじゃねえかよ」

 そう、プールで泳げないこと、それは私にとって、非常にクリティカルな問題だった。文字通り、「死活問題」だったと、言い換えてもよい。


「図書館職員」として働き始めるまで、私は「警備員」として、自宅及びその周辺のパトロールに心血を注いでいた。大学を卒業してすぐその職に就き、だいたい2年ほど勤務を続けたのだが、その間、この街で大きな事件が起こらなかったことには、間違いなく私の熱心な「治安維持活動」の貢献によるところが大きいと自負している。

 もちろんそれがどのような類のものであれ、「目標」を達成するためには相応の努力、しかも闇雲にではなく正しい方向に向けての努力が必要である。そしてその「目標」が「治安維持」であった場合、「正しい努力」には、「身体を鍛えること」というのがまず手始めに該当するはずだ。なぜなら言うまでもなく「警備員」の仕事や「治安維持活動」には、「不審者の排除」というアクションが表裏一体のものとして必然的に伴うからである。

 実際、図書館職員への転職を真剣に考え始めた時、個人的に最も大きな懸案事項となっていたのは、まさしく「鍛錬の時間が減るのではないか」というものだった。

 そもそも私は「転職」しても、パトロールをやめる気はなかった。もし仮に「私」という枷を失ったとすれば、この街はいつ忌まわしき魔窟へと堕してしまったとしてもおかしくないはずだったからだ。それほどまでに完璧に、私は街の風紀を守っていたということだが、反面、基本的にフレックス制の勤務だった「警備員」の職とは異なり、学校で働くとなると、行動に或る程度の制限がかかることは必至である。つまり必然的に、これまでせっかく鍛え上げた肉体が弛緩していくことは目に見えていて、そのことが私には耐えがたかった。

 だから、勤めていた人物が突然蒸発してしまったということで、ナカムラから図書館で働かないかという誘いを受けた時、私は初めそれを断ろうとした。要するに、「優先順位」という点で、「治安維持」が「転職」に勝ったということだ。まあ当然と言えば当然だろう。「転職」は所詮一個人の戯れに過ぎないが、「治安」を「維持」できるか否かは不特定多数の人間の今後の生活に関係する重大な問題である。

 だがナカムラはよほど私と同じ職場で働きたかったようで、こちらがやんわりと断りを入れてもすんなり諦めることをしなかった。それどころか、しばらく思案するかのようなそぶりを見せていたかと思うと、「学校は24時間無料のジムのようなものだから大丈夫」などと吐き捨て、実際に「生徒が帰った後の時間帯であれば、プールとトレーニングルームを使用してもよい」という許可を取り付けて来た。体育教師だからこそなし得た配慮なのであろうが、それにしてもなかなかどうして俊敏なフットワークである。

 つまり身も蓋もなく言えば、私はプールが使用できることを条件に、この学校での勤務を承諾したのも同然なのだ。

 にもかかわらず、しばらく使用禁止だと? しかも大腸菌が出たとかいうわけのわからない理由で? たわけている、あまりにたわけていすぎる……。

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