まよいゆめ
急いでいた。
ダンスの練習があって、次の授業は数学。講義室までは遠いけれど、いつもはちゃんと間に合う。ただ今日は途中で来客に行き会って、道を聞かれた。由緒正しい「宿り木学園」の生徒として、おなざりに対応するわけにはいかず、少し後に教師と行き会って引き継げなければ、もっと遅くなっていただろう。
数学の教師は時間に厳しい。何であれ、きちんと座って鐘を待つべきだというのが持論だ。
だから。
いつもは使わない細い廊下へと入った。
階段を上る。通らないけれど、構造は分かっている。階段を上った先の廊下を奥まで進むと、突き当りは扉だ。鍵がかかっているわけではないし、立ち入りが制限されているわけでもない。蝶番の軋んだ音が、しんと静まった廊下に響いた。
古い建物だ。学院の建物が、適宜建て替えられていく中で、失敗したバッチワークの模様みたいに幾つかの古い構造物が残る。基準は分からない。取り壊して、渡り廊下を設置した方がすっきりとして良いのに、と建物の外側を迂回しながら、たまに皆で言いあうこともある。
短い階段を上り、以前は講義室だったろう、扉が取り外されてがらんとした空間の中を突っ切る。後ろの扉から出ると、また短い階段があって、下る。
下りた先の、左手側には大きな窓があった。
尖った山の先端、白い頂上がすぐそこに見える。
窓の外、雪に覆われた急勾配を、足に長くて薄い板をつけた人々が次々に滑降していく。スキーという雪山の遊びだと思い至った。斜面の奥側の針葉樹は、みっしりと雪が積もったまま凍っていて、まるでたくさんの雪の巨人が並んでいるようであった。
----ここは、山の中?
----ゲレンデのただ中に建っていた、のだったか。
ぼんやりと、そんな気もすると納得しつつ、何かに誘われるように窓枠に手をかけた。鍵はなく、観音開きの硝子窓を押し開いた。
喉と鼻の奥でまず冷気を感じた。次いで頬と窓枠においた指先に冷たさを覚えた。
絶え間なく、雪を板が鳴らす音とざわざわと林間を抜ける音に押し包まれる。
サシュ、と小気味良い音が間近に響いて、朝焼けを映したような色の毛織の帽子を被った人が、窓の外で止まった。
二階半の高さにある廊下と斜面の高さが一緒で、大きな雪眼鏡に戸惑った顔が写っていた。
彼(あるいは彼女)は、分厚い手袋に包んだ手を(手首に無造作にストックをぶら下げていた)差し出してきた。
断るという頭はどこにもなく、手に手を重ね、雪山の中へと窓枠を越えた。
「宿り木学院七不思議の一つ、《雪山に遊ぶ》と題されている絵がこちらです。」
好奇心いっぱいの新入生の顔を、案内役の上級生は見渡した。
「別名、絵が変わる絵。」
一般的な窓くらいの、大きな絵だ。そして、細かい描き込みが特徴だ。
「滑っていく人の数とか、服とか、位置とか、時には天候も違う・・・ことがあるそうよ?」
新入生は顔を見合わせて、そしてどっと笑った。
細かい描写だ。そして普段は通らない(いまは校地案内中だからわざわざやってきた)廊下の壁に掛けられている。つぶさに覚えている生徒など、きっといない。
「わたし、手前の木の間を滑っている赤い帽子の人を覚えときます!」
「じゃあ、わたしは赤い帽子の人の、ちょっと後の緑のマフラーの人にします。」
「全部は数え切れないから・・右上で滑り始めようとしているのは十二人、ですね!」
そんなことは起こらない、思い違いだ、と証明すべく言いあう新入生に、案内役の彼女は、
「----ここ、」
斜面の左上方、オレンジ色の帽子の人物を指し示した。
「この人は、まえ、ダークグレイの上着と紫紺色の下衣に色付けされた人と一緒にいたのよ?」
いま、そこには誰も居ない。
微笑む上級生に、新入生たちはまた顔を見合わせ、それぞれ困惑を込めて首を傾けた。
「えー、と先輩はそう覚えていらっしゃった、と?」
入学式の翌日、という付き合いの短さでも、既にリーダー格は出てきている。その自負をもって、口を開いた。
「ええ。」
上着の色は共通だが、入学年で下衣の色が違う。上級生は紫紺で、新入生は深藍だ。
「だって、わたしがそこに居たのですもの。」
「・・え、?」
普通のことのように話す、その笑顔が怖い。
「わたし、そこから、最近戻って来たところなの。」
しん、として。
上級生は微笑んでいて。
新入生は顔を三度見合わせて。
口の端がひくり、と引きつった。
「あなたたちは、この絵に食べられぬように気を付けなさい?」
それはとても静かな声音であったのだけれど、静かな廊下に陰々と響いて、・・・そう、まるで異界に誘い込まれるような。
誰の肩が先に跳ねたのだろう。後ずさったのだろう。
蜘蛛の子を散らすように、いなくなった目の前から、背後の絵を振り返る。
手を伸ばして、だれもいない、オレンジ色の帽子の人物の腕の先をなぞった。
窓に顔を寄せて外を見るような姿勢で、上級生はその絵を見つめ続けている。
「----こちらが、」
好奇心いっぱいの新入生の顔を、案内役の上級生は見渡して、
「宿り木学院七不思議の一つ、【『雪山に遊ぶ』絵を見る女生徒】の絵です。」
絵中の『雪山に遊ぶ』だけでも窓ほどの大きさで、その外側で絵を見る女生徒はほぼ等身大に描かれている。
「はい! これは何が不思議なんですか!?」
元気よく手を挙げて、ひとりの新入生が質問した。
庭園の噴水の飾りの鳥が飛んで行って戻らないから一つだけ空いたままの台座と、とある日に段数の変わる階段を、散文的な校舎案内のスパイスに紹介されてきた。
「だれも見ていない時、彼女は絵の中に入って一緒にスキーをしているそうよ。」
上級生は『雪山に遊ぶ』絵に描かれた斜面の左上方、オレンジ色の帽子の人物を指し示した。
「彼が彼女の恋人なの。」
「はい!」
また別の生徒が手を挙げた。
「だれも見ていないのに、どうして絵の中に入っているとか、それが恋人とか分かるんです?」
変だ、と尖ってみせたい年齢らしい口調で言う。
「こっそりと覗いた生徒がいたの。」
「ふーん、じゃあ試してみたいです。」
「勇気があるわ。」
年下の可愛らしい喧嘩腰を、微笑ましく許容して、
「じゃあ、忠告。」
もっともらしく、声を潜めた。
「彼女はね、恋人の側にいたいの。でも、人目があるとこうしてじっとしていなくてはならないから、早くわたしたちにあっちに行ってほしいのよ。」
一心に、雪山のその一部分に目を注ぐ後ろ姿を、上級生は振り向いた。
「ねぇ、いま、あなたを紹介しているから、もう少しだけ待ってね。」
「やだ、先輩。」
下級生たちはくすくすと笑いだしたが、上級生はあくまで真顔で絵の彼女に話しかけている。
「ちゃんと紹介しておくけど、あなたもどうかお手柔らかにね? あなただって、この年のころの好奇心というものは分かるでしょう?」
七不思議は、この絵の女生徒と真剣に会話している先輩では?と、馬鹿にした薄ら笑いを浮かべていた一同であったのだが、
----目の錯覚、だろうか。
壁にかかっているのは、『雪山で遊ぶ』で。その絵を頬を寄せるような距離で覗いている女生徒と、彼女を見守っている女生徒と。ふつうの友だちが連れ立っているように、ダークグレイの上着と紫紺色の下衣の生徒が二人がそこに立っていた。
誰の肩が先に跳ねたのだろう。後ずさったのだろう。
切れ切れの悲鳴と共に蜘蛛の子を散らすように、いなくなった下級生を見送って、上級生は再び絵を振り向いた。
【『雪山に遊ぶ』絵を見る女生徒】の絵を。
「これでまた、今年もお変わりなくお過ごしいただますわ。」
上級生は制服のスカートを小さく摘まんで、綺麗な礼を彼女に送った。
「変わらぬ良い一年を、あなたと我々に。」
そして、くるりと踵を返した彼女は振り返ることなく廊下を進んで、突き当りの短い階段を降りていった。
だれもいなくなった廊下。
『雪山に遊ぶ』が壁に掛かっていることを、だれも見ることはない。
幻想小説的なものを目指しました。
夢で、よく「つながっている」ようで「つながっていない」、「つながっていた」のに突然変調する、感じ・・実のところ、雪山と学校の廊下が続いているのは、いつかの「夢」の中です。印象が強かったので覚書に残していました。
鉄道駅から出て見える、ユングフラウヨッホの頂のイメージ・・かもしれません。
ところで。単独作品としても大丈夫だと思いますが。連載させていただいている、『五花陸の物語~世「界」の底から紡がれる~ 天智なる盾と謳われた傭兵の肩書は世「界」一多い⁉ 国王の親友で公爵で新都総督で世継ぎの王女の夫で神剣の保有者である』の世界観の中の、物語です。
宜しければ本編もお読みください。