神の子との出逢い
痛に顔を歪める。
かれこれどれくらい続いているのだろうか。視界を覆う暗闇にも絶望する。苦しみ続けた彼女は、早く解放されたかった。このまま意識を手放せば、自分は楽になれると。
「……だめ」
帰りを待っている母親もいる。学校の友達も。顔に出さずとも心配しているであろう、幼馴染の存在。
「帰るんだ……!」
諦めない、少女はもがき始める。今にも呑まれそうになっても、全身で抵抗する。
一縷の光が差し始めた。少女はその光に必死に手を伸ばす。その度、闇に引き戻されそうになってもだ。
「!」
またしても光に包まれた。この光は安心できるものだった。
少女はゆっくりと瞳を閉じ、その光に身を委ねた。
「うう……」
ゆっくりと目を覚まし、体を起こす。少女は身震いをした。あの時の嫌な感触がまだ、残っているからだ。
「ここ、どこ……?」
月明りを頼りに周囲を見渡す。近所の森とは違った、鬱屈とした深い森であった。頼るものがない少女は、不安になる。瞳に涙を浮かべるが、首を振った。
「ううん、しっかりしないと。こわがってちゃだめ。こわくない、こわくない」
鳥や虫の鳴き声がする。冷たい夜風が吹く。草木の匂いだってする。
あの暗闇よりはましである。無事脱することが出来たことに、少女はひとまず安堵した。
「こわくない、こわくないんだ……」
パキッ。
地面に落ちていた木の枝、それを誰かが踏んだようだ。
「ん?……ひゃあああ!?」
少女は振り返ると同時に悲鳴をあげた。そしてそのまま後ずさる。
そこにいたのは、見たこともない異形の姿だった。
緑色の乾いた肌をもち、そして異常に長い耳と鼻をもつ。よれた腰巻を着用し、二足歩行のようである。
「―」
「……」
少女に何か話しかけているようだが、少女は頑なに距離をとろうとする。穏やかな声であろうとも、それを彼女が認識することは難しかった。
相手は手にしたランタンを少女に近づける。よりお互いの姿が鮮明になった。
「ひっく……」
色々なことが起こり過ぎて、少女の涙が止まることがなかった。にじりにじりと近づいてくる相手から逃げようとも、もう体も動かない。
ついには眼前まで来ていた。少女は目を瞑る。
「……?」
少女の目元に皺のある指が添えられ、涙が拭われた。
「え……」
大きく瞳を開くか、間近に迫ったその顔に慄いてしまう。だが目の前の存在はどこか悲しそうにしているだけだった。ハッとした少女は、そっと相手の手に触れた。
「ごめんなさい」
見慣れない姿に一方的に怖がり、傷つけてしまったと。その思いも込めてだった。皺がれた手に頭を撫でられた少女は、もう逃げることはなかった。
異形の者は後方に向かって、何か言葉を発しているようだ。一呼吸を置いてから、茂みから何者かが姿を現す。
「―」
現れたのは同じ年頃の人間だった。
褐色肌に簡素な服を身にもとっていても、それでも美しさに遜色はない。肩くらいまでの黒い髪、そして。中性的な容姿であることから性別の判別は難しそうだ。
「―」
「えっと……」
相手が色々と話しかけてくるが、少女は聞きなれない言語に困惑していた。一方的に話しかけられても、理解することはできなかった。
「……じゃあ、これか?これならわかるか?」
「あ……」
ようやく馴染みの言葉を耳にした。少女は何度も頷く。やっと通じたか、とお互い肩を下ろした。傍らにいた異形の者と一言二言交わしたあと、まっすぐに見据える。
「……俺はラムルだ。こいつはトビー」
俺。その響きに男であると、少女は認識した。
「トビー、さん。それと……。あ、わたしは……」
落ち着いてきたものの、まだ声の震えは止まらない。それでも声を絞り出して、自分の名前を告げようとする。
「わたしは……つる……やの」
「は?」
威圧的な目の前の少年ラムルの態度に、びくついてしまった。少女としては、異形の存在よりも、この尊大な少年の方が恐怖でならなかった。
「そ、その。つる……か……」
「……ツルカ?」
温もりのある声で呼んでくれたのは、異形の者であるトビーであった。ある意味救いであったこともあり、少女はつい頷いてしまった。
「ツルカ」
トビーはもう一度彼女の名を呼ぶ。少女には不思議と馴染んだ。
「はい。わたしはツルカ、です」
トビーは安心するように、と肩を軽くたたいてくれた。トビーの方は言葉が通じないようだが、それでも悪い人ではないと少女は思えたのだ。
きっと、この恐そうな少年も悪い人ではないはずだ。だからこそ、改めてきちんと挨拶することにした。
「あやしいものではありません!トビーさん、それにラムル!ここがどこか教えてください!」
今度は元気よく挨拶できた、と調子を取り戻した。だがラムルの表情は険しくなる。
「うるせぇ」
「え」
「それに。いきなり呼び捨てとかなんなんだ、お前。いいか、俺はラムル様だ!とんだ無礼者だな、まったく」
「え」
どこぞの幼馴染もそうだった。初対面の時に呼び捨てにしたら、―嫌な顔をされた。そのことを少女は思い出す。結局は君呼びで事なきを得たのだ。
「ごめんなさい、ラムルくん!」
「ラムル様だ!わかったか、鼻水女」
「は、はなみず……?」
呆然としつつも、少女は持っていたハンカチで鼻を拭う。彼女は気がつく。ずっと自身が鼻水を垂らし続けていたことに。顔を真っ赤にしながら顔を背けた。
「んで、鼻水女。みたところ迷子か。いや、お前……」
言いかけたところでラムルは口を噤む。
「お前。……そうか」
そして黙ったまま、森の奥深くへと歩いていった。
「とりあえず休んでいけば?少し歩くけど」
「え……」
ゆったりとした所作でラムルが振り返った。彼のこのような穏やかな表情は初めて目にするものであった。少女は戸惑う。
「色々あって疲れただろうし。もう安心しろよ。……こわくないから」
「……はい」
戸惑いつつも、何ともいえない気持ちになっていた。突然の優しさもそうであり、そんな彼の表情を見た自分の感情すらも。
「わかったならいい。まあ、ほんと心配しなくていいからな。このラムル様のもとなら、な!」
「……うん?」
さっきまでの優しげな少年はどこかへ行ってしまったのか。
「このラムル様の元ならな!だから敬えよ、鼻水女!」
「は、はなみずおんなじゃない。……ツルカだよ!」
「そうかそうか。鼻水垂らしのツルカだな。覚えておく」
「もー!」
地団太を踏みかねない少女ツルカを尻目に、ラムルはさっさと歩いていった。そのやりとりを見守っていたトビーはくすりと笑ったようだ。
「おせわになります!」
やけくそながらにそう言いながらも、ラムルを追っかけていく。
そして歩き続けていくと、明かりが見えてきた。
中央に焚火があり、それを囲むように木造の家たちが並んでいた。その場しのぎで作られたような粗雑なものであった。
彼らはここで暮らしているのだろう。夜が深まった分、他の住民たちは寝静まったようだ。
「うーん……」
まだ幼いツルカも例外ではなかった。疲労もあって、眠たそうに目元をこする。トビーが背負うとしてくれたので、素直に甘えることにした。
「まあ、トビーんとこに世話になれよ。……こいつが第一発見者なんだからな。なんだよ、その目は」
「―」
トビーが何か述べるとラムルは慌ててる。そして否定しているようだ。
「違うし!俺じゃない、こいつだ!こいつが発見して、助けたんだ!……だ、誰が必死だったとか。……おい、トビー!」
そこからの会話はツルカは覚えてない。眠気と聞きなれない言語の相乗効果で、ツルカはそのまま眠りこけてしまった。