カシミアに委ねて
「禍々しい闘気が満ちておるのぉ。」
マ・カロンの作り出した擬似障壁を神具で張り続けているマチルダが絶望的な嘆きを呟く。
今現在空中から襲い掛かる竜のガーゴイルの脅威は居なくなった。
周りの瘴気も弱くなっている。
それでも周囲は依然として目視が不可能なほどに立ち込めたモヤで覆い尽くされている。
離れた邪神竜の苦悶の咆哮が響き渡る。
確かな事実は今すぐにでもここから立ち去るべきであるという事だ。
障壁の側に立つカシミアは戦闘モードを崩してはいない。
だが、疲労の色は明らかだった。
もう危機がないと言うわけではないだろう。
まだ神具に注ぎ込んでいたために削られていたであろうマチルダ自身の魔法力の源、マナはほんの僅か減ったに過ぎず、まだ完全に近い状態で残っている。
しかしながら、マ・カロンの切断した空間も徐々に塞がろうとしている。
然程長くは保つまいと心の中で呟く。
「あ、マ・カロン、戻って来たでふぅ。」
ジョルジュの声に目線を彷徨わせると、槍ほどの長さに伸ばした「孫の手」に身を預けるようにしてはいるものの、マ・カロンは障壁に向かって歩んで来ている。
満身創痍かもしれないが、無事であったことにマチルダは安堵の微笑を浮かべていた。
カシミアが慌てて近づくと、マ・カロンも微妙にうすら笑みを浮かべ、見上げる。
「これは酷くお疲れでふぅ。」
いつもの軽口の割には、声のトーンは軽やかさを失っていた。
「カシミア、スゲエェな破斬のバトルアックスを使いこなしてるじゃねえか!」
マ・カロンの称賛にカシミアも素直に照れてみせる。
「ま、り、竜マニアだからな!」
ちょっと噛み気味で強がり胸を張っているカシミアにジョルジュは吹き出して笑う。
「そんな、頼りになるカシミアにお願いしたいことがあるんだ。」
マ・カロンの声には切迫した危機感が漂う。
カシミアはジョルジュが出した伝説の覇斬のバトルアックスを握りしめる。
「ここはヤバい、何が起こるか…、予想もつかねえ。
この人々を逃さなくちゃならねえが、今オイラが行くわけにゃいかねえ。
カシミア、是非あんたに頼みたい…。」
コクリとカシミアは頷き、チラッと胸にぶら下がるジョルジュに目を降ろす。
ジョルジュはニヒルに笑ったように見えた。
「まぁ、マ・カロンもこう言ってるでふぅ…。
カシミア、頼んだでふぅ。」
カシミアはとても大丈夫だとは言い難いマ・カロンの様子を見て躊躇うが、返事の代わりに優しく右手でジョルジュを包み込む。
「ああ、分かったでござる。」
ジョルジュの瞳から一筋の涙が溢れる。
「力入れ過ぎでふぅ、筋肉!」
懸命に泣き出しそうな声を震わせている。
「生意気で顔色の悪いカエルにござる!」
カシミアは悪態をつきながら泣いている。
首からジョルジュを取ると、一瞬戸惑いながらもマ・カロンに手渡す。
しっかりとマ・カロンは受け取ると、ゆっくりと首に掛ける。
すぐ側に近づいて来ていたマチルダが手に持つ神具をカシミアに差し出した。
「あとは任せるのじゃ、これは大役じゃからのぉ、しっかりのぉ…。」
涙を拭うことなく、マチルダはカシミアを抱きしめる。
嗚咽を抑えることができない。
障壁の奥にいる民衆もその光景を見て、もらい泣きを始める。
涙を堪えながら、天を仰ぐカシミアは心を決める。
コクリと頷くと、天に届かんばかりに右手を突き上げ、カシミアは生贄にされるところであった民衆に向かって叫ぶ。
「我は、ヴィンスラッド王国、魔法参謀マチルダのボディガード、魔法剣士カシミアでござる。
この魔の谷から、今すぐ脱出するでござる。
慌てなくて良いでござるぞ。
だが、呉々も気をつけて、我について来てくだされ!」
マチルダから託された障壁を展開する神具とバトルアックスを握りしめて、あえて振り向くことなく歩み出す。
生き延びた多くのものがその後に続く。
邪神竜自体の絶対性が揺らいだ今、もうこの地は全てが予測不可能でしかない。