第177話 吾輩は犬である。名前は——ヴェルベット
「むかつく! むかつく! むかつく!!」
全身で怒りを表しつつ、口からは暴言を吐き出しながらも、少女は一心不乱に駆ける。
「なんなのあいつら! まじイミわかんないんですけど!」
つい先ほど負けた相手に対して、先ほどから彼女は、口から出るに任せて悪態をつき続けていた。
「ぜったいにユルさないんだから……! アイツら、いつかぜったい……いいや、今すぐにでも、ぶっころしてやる……!」
スタミナが尽きるまで走り続けた彼女は、ようやくこの大型のショッピングモールの出入り口へと辿り着いた。
入り口前に積まれたバリケードを見て、一瞬足を止めた我がご主人さまは、そこでこちらを見ると一言命令を下す。
「ヴェルベット! “たいあたり”!!」
ご主人さまからの命令を受けて、我が身に超常の力が発揮されるのを感じる。
「わんっ!」
高らかに一声、返事を吠えると、吾輩はバリケードに向かって突進する。
ドゴッ!!
小型犬でしかない自身には本来ならば出せるはずのない破壊力の突進でもって、入り口のガラスドアは手前に積まれたバリケードも含めて吹き飛ばされた。
通り道が出来たところで、ご主人——いや、お嬢は、外へと飛び出した。
そして吾輩に対して、労いの言葉をかけてくれる。
「よくやったわ、ヴェルベット! さすがはルナの一番の“しもべ”ね」
嬉しそうにそうやって褒めてくれるお嬢の言葉を受けては、吾輩としても鼻が高く、ついつい尻尾を振って喜んでしまう。
そんな吾輩の反応を受けて、お嬢も嬉しそうな顔をしたが——しかしすぐに、その顔は暗く曇ってしまった。
「ルナの手持ちも、もうあんただけになっちゃった……他はぜんぶ、ぜんぶあのくそやろうに……っ!」
振り返ったお嬢は、その目にショッピングモールの巨大な全景を映して、なんとも言えない顔をする。
「せっかく……ルナの時代が来たと思ったのに……! このやばやばな世界で、ルナがヒーローになれると思ったのに……! ここは——ここにあるものは全部……ぜーんぶっ、もうルナのものだったのに……っ!」
いっそ泣きそうな表情で、お嬢は憤りのままに叫ぶ。
しかし一通り叫んだあとは、一転してシュンとした様子で、吾輩に憂いを帯びた瞳を向ける。
「あーあ……上手くやってきたと思ったのに、どーしてこうなっちゃったんだろ……?」
その言葉を受けて、改めて吾輩も、これまでの経緯をこの小さな脳みその中に思い浮かべてみた……
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元々はただの小型犬で、お嬢に飼われだして三年と少しのポメラニアン(♂)だった吾輩に、明確に知性と呼ぶべきものが芽生えたのは、いつのことだったか。
それこそ、世界中の生き物たちが死んだままではいられなくなったあの日が、まさにそうだったのではないか。
元々、人間であるルナお嬢の言葉を、吾輩は理解してはいなかった。しかし、言葉は解らないながらも、仕草や表情や発する匂いなどから、それまでにも吾輩は十分にお嬢の言いたいことを理解することができていた。
それが——お嬢に謎のボールで“捕まえられて”からは、明らかにお嬢の話す言葉の意味を理解できるようになっていた。
というよりも、これは……お嬢の言葉を言葉としてではなく、その意味そのものを直接的に理解しているというか……
ううむ……難しいことは今の吾輩にもさすがに理解できない。
だが、その「ボールの出来事」の後には、なにやらお嬢との間に“繋がり”のようなものを感じるようになった。
すると、それからはその“繋がり”を通して、お嬢の感情や発する言葉の意味を感じ取ることができるようになったし、さらには、お嬢の発する“命令”に従うことで、普通ではあり得ない現象を起こせるようになった。
これまでのお嬢とのやり取りから察するに——お嬢はそれまでも、独り言のように吾輩に語りかけるのが一種の癖であった——なにやらお嬢はつい最近に、“謎の声”を聞いて不思議な力に目覚めたらしい。
そしてその力こそが、吾輩にも不思議な力を与えているということのようだった。
お嬢はその力を使って、生き残った人々を助けて回った。
吾輩以外にも、その辺をウロウロしていた“ゾンビ”とかいう“死してなお動くもの”をボールで捕まえて、そして、その捕まえたゾンビを使役して他のゾンビと戦わせた。
お嬢の力はどうやらそういうふうに、相手を捕まえて自分の味方にしてしまうことができるというもののようだった。
さらには、捕まえた者は戦いを通して成長するようで——吾輩もそうだが——捕まえて戦わせていた“ゾンビ”たちも、しばらく戦っているうちに、もはや同種のゾンビなどではまるで相手にならないくらいに強くなっていた。
このショッピングモールにたどり着くまでに、お嬢は使えそうな相手を見つけては捕まえて、そして戦わせて、成長させていった。
そうしながら、生き残っていた人々を助けていき、安全な場所を求めて移動していった先で、このショッピングモールにたどり着いたのだった。
お嬢がここにたどり着いた時点では、モールの中にはまだ“ゾンビ”たちがいたが、生存者もいくらか残っていた。
お嬢はすぐに内部のゾンビを全滅させて、生存者たちを救い出した。
それからのお嬢は、すごく楽しそうで生き生きしていた。
元よりお嬢は、世界がこんな悲惨な状況になっても悲観しているような感じではなかった。それについては、世界が崩壊するのと同時にお嬢が目覚めた——例の人並み外れた力の存在も大いに関係するところだと思う。
ゾンビや怪物が出現するようになっても、その力があればどうにでもなる。むしろ、その力を使って人々を助けることで、自分が特別な存在になったようにすら思えることだろう。
お嬢にもいくぶん、そういう部分は見られた。力を使って人を助けて、得意になっている様子が。
それでもお嬢は、力を他者のために使っている。たとえ、その結果として自分の欲求が満たされるのだとしても、それは紛れもない事実だ。
まだ幼いゆえに、少しばかり抑制が効かない部分もあるが……そこは吾輩を筆頭に周囲が諌めていけばよいのだ。
まあ、吾輩はお嬢の相棒——あるいは愛犬——だとはいえ、本来はあくまでお嬢の飼い犬であり、忠実なるしもべであるからにして、なかなか忠言をするのも難しい立場である。
なのでその役目を期待するのは、やはりお嬢の両親であるパパ殿とママ殿であろう。
特にママ殿の言うことに関しては、お嬢も一番素直に聞くことであるし。
二人が無事だったのは本当に幸運だった。まあ、力を手に入れたお嬢と、そのお嬢から力を与えられた吾輩が真っ先に助け出したのだから、実際、よっぽど運が悪くなければ助けられたと思うところだが。
確かにお嬢は誰彼問わず助ける善人というわけではない。両親を助けに行く際には、助けを求める他人の声をすべて無視していた。しかし、吾輩はそれを非道だとは思わない。むしろ当然の行いだとすら思う。
それに、自分の身内を優先したとはいえ、やっていることは人助けに違いないのだから、やはりお嬢は根は善人なのだ。
両親を助けた後は——まあ、そこでも自分の知り合いや友人を優先していたが——他の人たちもなるべく助けるようにしてきていた。
その結果が、このモールに集結したたくさんの人間の生存者たちなのだ。
生き残っていた者たちを助けて、彼らから感謝と称賛を受けて、そして、快適に暮らせる拠点として使えそうな場所にたどり着いたことで、いよいよお嬢の気分も高まっていた。
いつになくはしゃいだ様子で、お嬢はゾンビを完全に排したモールの内部を見て回っていた。
まるでお供のように、助けた生存者の中からまだ年若い者たちを大勢引き連れて、この新たな拠点として使っていくつもりの建物の中を練り歩いた。
お嬢はすでに、世界がもはや元のようには戻らないのだと思っているようだった。
しかし、そのことに悲観した様子はなかった。どころかむしろ、この状況を楽しみ始めているようだった。
なぜなら、もしそうだとしたら——このショッピングモールにある豊富な物資が、実質的にすべて自分のものになるということに、お嬢が気がついてしまったからだった。
——いや、それにお嬢が気がついたのは、アイツの入れ知恵によるものだ。
そのこともあって、お嬢はアイツのことを気に入ってしまっていた。
しかし吾輩は……アイツのことがどうにも気に食わなかった。
それはまさに、野生の勘とでもいうものだった。
匂うのだ、かすかに……これはそう、人間で言うところの、嘘やごまかしとでも表現される、ソレの匂いだ。
アイツは何かを隠している……それが何かまでは、吾輩にも分からない。
だが、あるいは——一見して人畜無害な普通の人間であるように振る舞ってはいるが——アイツもまた、お嬢と同じ存在なのかもしれない……と睨んでいる。
今のところは、お嬢に対して敵意や害意の類いは感じないので、個犬的に警戒するのみに止めているが……気を許すつもりはない。
とはいえ、ソイツのせいでお嬢はもはや、このショッピングモールとそこにあるすべての物資が自分のものであるように考えてしまっており、たいそうはしゃいでいた。
ここにあるすべてのものを自分の思い通りにできるという考えは、お嬢にとって大変お気に召すものだったらしい。
だからこそ——もはや自分の城のように感じていたこの場所に、いきなり無理やり入ってきた男たちに敗北し、這々の体で逃げ出さねばならないことに対して、お嬢は堪えきれない怒りを覚えているのだった……
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「わんっ!」
近くにやってきた人の気配を感じた吾輩は、すぐに回想を切り上げて一声吠える。
「——っ! 出てきなさいよ!」
吾輩の警告を正確に読み取ったお嬢が、物陰の向こうへと声を発した。
すると、そちらより現れたのは——まだ年若い人間の少年だった。
「ふん……アンタか。へぇ〜? てっきりアイツらにやられたのかと思ってたケド、生きてたんだ〜?」
「……お前の方こそ、無事だったんだな」
その少年は、全身が真っ黒な出立ちだった。
吾輩が見たところによると、この少年もお嬢と同じく“超常の力”を使える特別な人間だった。
「当たり前じゃん! あんなヤツらにやられるほど、ルナは弱くないし!」
「そうかよ……。それで、お前、これからどうするつもりだ?」
「はぁ? そんなの、アイツらをぶっころすに決まってんじゃん」
「……どうやってだよ? お前、自分があいつらに手も足も出ずに負けたくせに、よくそんなデカい態度できるよな」
「あっれぇ〜? びびってなにも出来ずに逃げまわってたダケの人が、なんか言ってくるんですけど〜」
「お前なっ……! ——いや……いい。今はお前とケンカしている場合じゃない……それに……」
お嬢とこの少年はあまり相性がよろしくない。——なぜかお嬢はこの少年が相手だと、息をするように煽ってしまうのだ。
だが、吾輩の感覚からすると、この少年の性根は善良だ。なんやかんや言いつつ、ここに現れたのもお嬢のことを心配してのことらしい。——どうも、そういう“匂い”だった。
「ナニぶつぶつ言ってんの? はぁ……これだから“いんきゃこみゅしょう”のオタクくんはさぁ」
「おまっ……! せっかくこの僕が、渋々ながらお前に協力を持ちかけてやろうとしているってのに……」
「てゆうか、いちいち上から目線でうっとーしーんですけど! それにさっきから、お前お前って——ルナにはルナって名前がちゃんとあんの!」
「……悪かったよ、ルナ」
「え、いきなり呼び捨て……? ——キモっ、これだから“どーてい”は……」
「なっなっ、だ、誰がどうて——んん! お前、意味分かって言ってんのか?!」
「しーらない! でもどーせ、“どーてい”なんでしょ?」
「……呼び捨てがダメなら、なんて呼べばいいんだよ」
「あ、話そらした。やっぱりドーテイなんだ」
「……」
「うそうそ、そんなにキレなくてもいーじゃん……えっと、名前なんだっけ?」
「……影人だよ」
「エイトくんね。ルナはルナだから」
「分かったよ、ルナ……ちゃん」
「え、ちゃん付け? キモっ……」
「……っ、だから、どう呼べってんだよ……!」
「あーゴメン、素でキモかったから」
「……」
「まー、ちゃん付けよりは呼び捨ての方がマシかなー? でもー、なんか呼び捨てだとカレシっぽいし……じゃあ、やっぱりさん付けかな?」
「……却下する。小学生女子にさん付けとか、あり得ない」
「はー? もう、ならなに付けならいいわけ?」
「別に……呼び捨てでいいだろ」
「うわっ、カレシ気取りかよ……」
「なんでそうなるんだよ……! このっ、ませが——」
「わんっ!」
埒が明かないので、吾輩は助け舟を出した。
「ああ、なるほど、さすがヴェルちゃん、ナイスアイデア! ——ならさ、嬢でどーよ? ルナ嬢って呼んで!」
「え、ちょっ、待って——えっ? お前、犬と喋れるの……っ!?」
「お前じゃなくて、ルナ嬢!」
「わ、分かったよ……ルナジョー」
ようやくお互いの自己紹介が終わったところで……吾輩はこちらに向けられた意識を感じ取ったので、そちらに反応した。
「わんっ!」




