第102話 こんなに追い詰められたら……これはもうアカンですよ(小籔◯豊風)
足音が、聞こえた。
私はその瞬間、それまで窓際の壁に寄りかかって体育座りをした膝に埋めていた顔を、ガバッ——と上げた。
確かに、聞こえた。足音が、近くで。
誰かが、この階に来ている……?
「……ね、あ、アユ、今——」
「——しっ! ……静かに」
私は、声を発したナオちゃんを慌てて制する。——ギリギリまで絞った声量で。
ナオちゃんは、ヒュッ——と息を吸い込んで言葉を止めると、そのまま無言でこちらに顔を向けて、コクコクと頷いた。
……なぜか彼女はそのまま息も止めている様子だったので、私は手振りで——リラックスして息を吸うように促した。
ナオちゃんは私に指摘されて初めて、自分が息を止めていたことに気がついたみたいだった。
そうこうしているうちに、足音はこちらに近づいてきて……足音の他にも聞こえてきたのは、低い、地の底から這い上がってくるかのような……唸り声だった。
ゾンビだ。
ゾンビは、私たちの部室の前を通って——そのまま通り過ぎていった。
隣のナオちゃんが、大きく息を吐いた様子を感じる。
私はそれを受けて初めて、自分もいつのまにか息を止めていたことに思い至った。
足音はもう、かなり遠のいていて、やがて聞こえなくなった。
隣のナオちゃんが私の方を向いて、口を開けたり閉じたりパクパクとやっている。——これはたぶん、喋りたいけど声を出すべきではないから……ということなんだろうと思う。
私も、感情ではとにかくなんでもいいから彼女と言葉を交わしたいと思っていた。だけどそれ以上に——自分の心音すら止めたいほどに——静かにすることを理性は望んでいた。
だから私は、ただ黙ってナオちゃんの肩に手を回して抱き寄せて、もう片方の手で彼女の手を握った。
すぐにナオちゃんも、同じように私の肩に手を回してくれた。
私たちはそのまま、お互いに抱き合うようにして、ひたすら暗闇の中で息を殺していた。
私たちは確かに追い詰められていた。だけど、それでもまだ余裕があったんだと思い知った。
なぜなら、実際のところ、今まではゾンビが近くに来ることは無かったから。——この三階まではゾンビは来ていなかったのだ。
だが夜になって、ゾンビは私たちのすぐそばまで迫ってきていた。
ここにきて初めて私は、今までの状態など、まだ追い詰められた内に入らなかったのだと思い知らされることになった。
たった壁一枚挟んだ向こう側、そこに自分を襲う怪物が徘徊している……。
そんな状況、もはや筆舌に尽くしがたいとはこの事だった。
——余計なことは考えず、ただただ無心に息を殺して、自分の存在を消す。
いっそのこと自分で自分を殺してしまいたくなる程の、狂おしいほどにこの身を蝕む様々な感情の奔流を、なけなしの理性と、隣の彼女の存在が、かろうじて抑え込んでくれていた。
時折、近くで物音がするたびに息を止めて、私たちはお互いに一層強く抱き合った。
もはや私の意識は、周囲の暗闇との境も消え、その存在を宙に広げ、辺りへと同化していった。
ただ唯一、隣のナオちゃんの存在が——彼女の温もりだけが……自分がまだ生きていると私に教えてくれていた。
どれくらいの時間がたったのか。どれくらいの時間そうしていたのか。
もはや自分が眠っているのか、起きているのか、目を開けているのか、閉じているのか。——生きているのか、死んでいるのか……。
それすらも分からないような状態だった私は、しかし、現実からの呼び声により、ハッキリとその意識を覚醒させた。
それは——
“アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!”
——まるで、絶叫だった。
震えた。
大気が、建物が、床が、鼓膜が、そして……窓ガラスが。
割れた。ガラスが。
ただ、幸いにしてヒビが入っただけで、破片が落ちてきたりすることはなかった。
私たちは、自分の心音すらうるさく聞こえるほどの静寂の中で、足音に耳を澄ませるように集中していた。
そこに、この突然の大音量が襲いかかった。
その時に受けた衝撃は、まるで車に撥ねられたかのようで、もはや何らかの反応を現すことすら私には出来なかった。
私とナオちゃんは、ただただ硬直したかのように身体をこわばらせていた。
反応したのは、別のモノだった。
「ウ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
“ソレ”は叫び声をあげて、私たちの部屋の前を全力で走り抜けていった。
そして“ソレ”は、階段を転がるように降りていった。——いや、実際に転げ落ちていくような音もしていた。
そもそも、足音から想像される速度は、到底、階段をまともに降りられそうではなかった。
まだ痺れたようにしている耳には、近くだけではなく辺り一帯の様々な場所から、先程の“大絶叫”への「返答」が続々と発せられているのが伝わってきていた。
——……何が、起きているの?
私が取り乱していないのは、偏に大きすぎる衝撃に打ちのめされていたからだった。
そして、打ちのめされた自分を支えてくれる——あるいはそれは、同じように打ちのめされてお互いに寄りかかり合っていただけかもしれないけれど——隣の彼女の存在のおかげだった。
私たちはお互いに震えていた。その震えは、お互いに触れ合った部分を通して相手に伝わった。
だが、そのお互いの振動が共振して増幅されることはなく、むしろ互いに干渉し合って次第に震えを止めていった。
自分と同じように、恐怖に震えている人がそばにいる。でも、その人がいるお陰で、自分は確かに安心を感じている。——そしてそれは、相手も同様なのだ。
彼女にとっても私の存在は支えとなっている。自分は今、彼女に必要とされている。
その自覚は何より、私の心を奮い立たせてくれるものだった。
————少しずつ、落ち着いてきた。
周りにはもうゾンビの気配はない。足音も、唸り声も。それらは遠くへと過ぎていった。
それに伴い、恐怖も少しずつ私の心を過ぎ去っていった。
そうすると次に湧き上がってくるのは——好奇心だった。
一体さっきの……まるで『絶叫』のような大音量の正体はなんだったのか、と。
私は注意深く周囲の気配を探り——やはり近くには何もいないようだ、ということを確かめると、隣のナオちゃんを伴って、恐る恐る、出来る限りの静かな動作によりその場から立ち上がった。
そして、この部屋の唯一の情報源である窓の外を確認してみる。
先程の音はあまりにも大きすぎて、もはやどちらの方向からだとかは判別不能だった。
それに、どうせ私たちが出来ることは、この窓から外を見ることだけだ。
窓にはヒビが入っていたけど、外の様子が見れないほど酷くはなかった。
しかし外は真っ暗で、目をこらしても、あるのは一面の暗闇だけだった。
——結局、何の情報も得られなかったか……
と、諦めかけた時——視界の隅に変化があった。
——光だ。
あそこは……正門の外のあたりだろうか……?
何やら光りを放っている物体が、特定の範囲を行ったり来たりと忙しなく動き回っている。
あの光はなんだろう……? 動きは、かなり速い。
光の動きには規則性があった。一定の間隔で消えるのだ。だが、しばらくするとまた現れる。
それに、光が消える際には、なぜか上に移動していくという法則もあった。
この規則性は、何なのだろう。……誰かが操っている? あるいは、アレそのものが意思を持っている、とか……?
まさか、人魂——とかではないよね?
……ゾンビに怪獣——ときて、その上、幽霊や人魂なんて連中まで現れ出したとしたら……
勘弁して欲しい……と切に思うけど、事ここに至っては、もはや新たに何が現れようと不思議には思わない。
ある種の諦めか、あるいは悟りの境地とでもいうのか。
私は、本来なら恐怖するべき正体不明の光を、しかし、目を離す事なくその後も観察し続けた。
好奇心、というのもある。アレが危険な物なら正体を見極めないと、という義務感めいた思考も。
だけど、私が目を逸らさずに見つめ続けた一番の理由は……気晴らしだ。
いや、そう言うと語弊があるかも知れないけど……ただ、何もしないでじっとしているよりは、何かをしている方がマシだった。
動いている物を目で追って、その正体を見極めんとする。それは、座り込んで自分の膝の間に顔を埋めているよりは、まだマシな選択肢だった。
そうして、意外と平静な思考で例の光を眺めているうちに、私はそれに気がついた。
光そのものというより……その光の近く、地上の辺りに、何かが大量に群がって蠢いているようだ、ということに。
やはり遠いし、暗いのでハッキリとは分からないけど……アレは多分…………ゾンビ、だろう。
では、あの光は?
ゾンビを引きつけているのだろうか。……何のために?
分からない……だけど、あのゾンビたち、とにかくすごい量だ。
もしアレが、光に群がることなく、こちらに来たりしたら……
しかし光は消えることなく、その場を動き続ける。
私も、隣のナオちゃんも、黙ってそれを眺め続けた。
どれくらいの時間、そうしていたのか。光はやがて消えてしまい、その後はもう現れることはなかった。
光が消える少し前くらいになると、私はそこで何が起きていたのかを理解することができた。——光が一体、何をしていたのか。
最後の方は明らかに……蠢く影——ゾンビの数が減っていることに気がついた。光は、ゾンビを倒していた。
この光の正体は、一体なんなのだろう……あのトラの怪獣と同じような、なんらかの怪物の一種なのだろうか……?
まあ、ゾンビを倒してくれたわけだし、今のところは害はないどころか有益なくらいだけど……
その後はもう外の暗闇に変化はなく……
私たちは再び、窓辺に寄り添って座り込んだ。
——静寂。
じっと動かないと肌寒さを感じる。私は、ナオちゃんと密着するようにして、お互いに暖を取った。
疲労が、すでに体にだいぶ蓄積しているのを感じる。しかし、眠ることもできない。
私たちは、ただただここに居て、そして、待っていた。
何かを……いや、待っているのは果報だ。
寝てはいないけど、寝てはいけないけど、しかし私たちにはもう、待つことしか出来なかった。
本質的には何も変わらないのかもしれないけど……それでも、私たちはここで、「自分たちは何かを待っている」ということにしたかった。
何の意味もなく、ただ置き去りにされて、取り残されて、この先には何も、希望は存在しない……そんなのは、嫌だった。
今を何とか耐えて乗り越えたら、きっとその先には、何かが、希望が待っていると……そう、思いたかった。そう思っていないと、もはや、ただ時を過ごすことすら、私たちには不可能だった。
夜になって、身近にゾンビの脅威が迫ってきた。その状態は、まさに極限状態で……
私の精神状態は、すでに限界が近かった。