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あの日あの時、彼と  作者: ゆうひ
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 私は困窮していた。だから逆らえなかったのである。

 彼氏は声を荒げ、激越な口調で問うてきた。

「いつもいつもどこにいっているんだ!」

「ごめんなさい。」

 また殴ってきた。私のかわいい顔が台無しになってしまう。それでも私は彼氏の力になっていることが嬉しく、その関係を受け入れ始めていた。

 以前よりこのようなことがあった。

 大学内で男と話すと、決まって激しい口調で罵倒してきた。初めはおかしいと思っていた。しかし感覚が麻痺していってしまっていたのだろう。受け入れてしまった。

「数学教えてもらうために昔の友だちに会っていました。」

 また殴ってきた。痛い。痣になっていた。

 彼氏から逃げたかった。でも逃げることはできなかった。なぜだろう。こんなに酷いことをされているのに。

 しばらくして彼氏は落ち着きを取り戻し、私に謝ってきた。私は笑顔で「いいよ。」と言った。

 布団に入り、明日のことを考えていた。

 明日は彼と会う日。今回は顔にも痣がついてしまった。きっと聞かれるだろうな。どう説明しようか。

 翌日。

 九月初め。

 彼は私と対面するや否や、目を疑うような表情で私にきいてきた。

「どうしたの?」

彼が心の拠り所になっていたのだろう。つらくて、苦しくて、限界の近かった私は一切合切話すこととした。

「彼氏にバレちゃった。」

 彼に迷惑をかけるまい、とかろうじて涙を堪えたものの、胸をえぐられるような苦しみだった。

「その青あざ、殴られたのか?」

「うん。」

 彼の穏やかでどこか哀愁を感じる声が鼓膜を震わしたと同時に、私のダムは決壊した。

「もう彼氏と一緒に居たくない。今までもDVっていうのかな。ずっとされてた。」

 私は目に涙を浮かべ、そう伝えた。

 すると彼は一瞬の逡巡もみせずに口を開いた。

「うちにこい。しばらく彼氏から離れよう。」

 そう言ってくれて本当に嬉しかった。しかし彼氏から離れることはできない。彼氏には私が必要だ。私は彼氏の助けになっている。私がいなければ彼氏はダメになってしまう。

そう考えながら、私は自分の思いを告げた。

「彼氏から離れることはできない。申し訳ないけど数学教えるだけにして。」

 目にキラキラと涙が湧き、心が痛かった。

「それ共依存って状態だよ。自分ではわかってないと思うけど、一旦冷静になって話きいて?」

「うん……。」

 共依存?どこかで聞いたことがあるような……。

「共依存ってお互いに依存しあっている状態なんだ。このままの状態が続くとお互いだめになるよ。一度うちに泊まって、彼氏との関係性をもう一度考えよう?」

「でも……。」

 でもそんなことしたら彼氏が怒ってさらに酷いことをするかもしれない。もうそんなのはうんざりだ。

「いざとなったら守るから。」

 彼はどこか達観したような目つきで私を見つめた。なぜか彼のことは信じられると確信した。

 思いついたら行動する、熟慮ができない私はすぐに答えを出してしまった。

「そこまで言うならわかった。でもとりあえずは少しの間だけね。」

「うん。」

 勉強は早めに切り上げ、彼の家へと向かった。

 途中、私の生活用品と食べ物を買った。彼は私の食べ物や生活用品をためらいなくおごった。彼氏だったらむしろ私がおごるほうなのに。彼はどこまで優しいのだろう。

 彼の家には必要最小限のものしかなかった。

 目につくのは布団とパソコン、充電器、テーブルと無造作に床に積まれた教科書や参考書。生活感がなかった。

 唯一大量にあったのがタバコの吸い殻だった。換気扇の下には2Lのペットボトルに入ったかなりの量の吸い殻があった。健康志向が高く頭も運動神経も良かった高校時代の彼がここまでタバコを吸う人になるとは想像すらできなかった。彼をこのように変えてしまったのはなんだろう。

 彼と会ったときは昔から変わっていないと思っていた。今はどうか。確かに変わっていない感じがする。でもなんとなく、見えない壁があるような気もした。気のせいかもしれないが。

 ちょうど夜ごはんの時間帯だったので二人でごはんを食べることにした。私はコンビニのお弁当、彼は小さなカップラーメン。通りで痩せているわけだ。毎日こうなのだろうか。

 彼の健康が心配である。彼曰く、食べ物に興味がない、エネルギーを摂取できればそれでいいらしい。

 いくら常識はずれで科学的知識の欠いている私だって、カップラーメンしか食べなければどうなるかわかっている。栄養失調で死んでしまう。

 よし、私は決意した。

 食べ終わり、しばらくして彼は私にお風呂を勧めてきた。なんだか申し訳ない気持ちになり一旦は断ったものの、彼の善意に甘えた。

 彼氏の家ではなんだか申し訳なくてそんなことはできなかった。いつあの恐ろしい罵倒と暴力が待っているかわからないのだから、落ち着けなかった。

 かたや彼の家。ゆっくりとお湯に浸かったのはいつ以来だろうか。今日昨日あったことは当然頭に浮かんだものの、シャワーと同時に流してしまおう。

お風呂を上がって髪を乾かそうと思ったらまさかのドライヤーがない。さすが彼だ。彼は男性としては髪の長い方だったがドライヤーを使わいようだ。でも明日にはここを出る予定だから、やむを得ずドライヤーは諦めた。

 予定とは行ったものの、どこに行くかは全くの未定だ。彼氏のところには行きたくないし、かといって他に行くあてがあるわけでもない。どうしよっか。

 そんな事を考えながら、私はまた数学にとりかかった。彼はまた、懇切丁寧に教えてくれた。彼とだったら約六ヶ月で数学を仕上げるという目標を達成できるのではないだろうか。

 しばらくして一段落し、二人でコンビニに行くことにした。深夜のコンビニ。人のいない道。ハーゲンダッツのアイス。なんだか夢見た理想の彼氏みたいだった。初めての体験で、もし理想の彼氏だったらこうなっていたのだろうか、と思い巡らせた夜だった。

 翌朝はいつもより気持ちよく目覚められた。

 彼は温和な表情でまだ眠りについていた。

 起こさないようそっと布団を出、私はすぐに勉強にとりかかった。寝ぼけつつあった頭は、糖分は少ないものの、すぐに回転し始めた。

 ふと彼の顔を見つめると、同時に彼は目を覚ました。

「おはよう。」

「おはよ。」

 彼は眠そうな目で電気ケトルのお湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れ、徐にタバコを吸い始めた。

 彼によるとこれがないと一日は始まらないという。彼が一服し終わったのを見計らって、私は話し始めた。

「これが普通なのかな。」

「ん?」

「こうゆう日常が普通なのかな?殴られることに怯えず、ごはんたべてお風呂はいって、レイプまがいのこともされないで。こんなに安心したのいつ以来だったんだろ。」

「大変だったんだね。」

 安心しきったのは家族を除けば始めてだった。彼氏とも安心したことはなかった。ただの高校時代の友人である彼なのに、ここまで安らぎを感じられるとは思いもしていなかった。

 でも今日中には家を出ていかないといけない。どう生活していこうか案じていたところ、彼の口をついて出てきたのは思いもよらぬ言葉だった。

「今日も泊まったら?帰ったらまたひどいことされるんじゃない?」

 私は喜びと申し訳なさの入り混じった感情だった。

 もっと泊めてもらえるのは嬉しい。でも彼の迷惑になる。いくら私が安心するからと言って、彼に頼りきりじゃいけない。

「迷惑じゃないの?」

「もう散々迷惑はかけられてる。」

 彼はおどけたような表情でそう言った。

 私は彼のそんな顔に愉快な気持ちになり、満足げな顔でこう言った。

「じゃあ泊まろっかなー。」

「どうぞどうぞくつろいでください。」

 彼も笑いながらそう言った。

 彼は私のバイトを辞めさせようとしたが、私は辞めるつもりはなかった。彼に全てお世話になるにいかない。そうは思っていたものの、彼の強い要望に負け、仕方無しに辞めることとなった。

 彼は私に衣食住全てを提供してくれるようだった。神様、仏様、彼様。

 そんなこんなで私は勉強に戻った。

「ねえ、ここってなんで部分分数分解するの?」

「そのままだと通分しなきゃいけないでしょ。それは現実的じゃない。部分分数分解すると最初と最後だけ見れば良くなるんだよ。」

「こうゆうやつだと、どんなもので分解できるの?」

「できるよ。」

「なんで?」

「今は結果しか知らなくても大丈夫。どうしても知りたいなら、ヘビサイドの展開定理を調べてみなよ。」

 ヘビ…なんとかなんて教科書にはもちろん問題集や参考書にも載ってなかった。彼の数学は底なしの沼のようだった。

 その夜から私は彼のために手料理を振る舞うようになった。スーパーで二人で食材を選んでいるときはまるで新婚夫婦のようだった。

 あの彼氏とは正反対だ。

 歩いて五分ちょっとのスーパーだったが彼は初めてきたと言っていた。コンビニにしか行かないらしい。彼の食への興味がないことを再認識した。

 彼の健康が実に心配だ。タバコもかなりの量を吸っているようだし。彼の吸うタバコは十七ミリだそうだ。私はタールだとかを知らないので教えてもらったことによれば、それなりに重いタバコらしい。そのタバコを一日二箱近く吸っていた。正直いつもタバコ臭い。部屋の中で吸わず、換気扇の下かベランダで吸っているようなので、タバコのにおいがそんなに好きではない私にとっては幸いだった。

 彼は寡黙な人ではあったが、全く話さないというわけではない。行き帰りと買い物を含め、三十分ほどだったがいろんな話をした。

 彼の浪人、うつ病の過去。自殺未遂。未だ気分の不安定が続いていること。

 なんとなく変わったとは思っていたが、こうゆうことだったのか。そんな彼に頼み事をしてしまって、いささか肩身が狭かったが、

「むしろ刺激になって嬉しいよ。」

 と言ってくれたのでそのまま信じることにした。

 九月末。

 彼の後期の授業が始まった。

 寝ている間を含めて何日も一緒の時間を過ごしていた私は、彼が日中外に出ている間、暇になってしまった。いや、勉強はしていた。

 しかし、ふとした時に話す相手がいないというのは案外堪えるものだった。もちろんそんな中でも勉強は続けた。

 数日後、彼は合鍵を渡してくれた。

 彼が大学を休んだ日は一緒に家で勉強を、大学に行ったときは喫茶店やファミレスで勉強をすることが多かった。場所を変えて勉強するというのはいい刺激になっていた。しかし、それでもマンネリ化はしていた。

 とは言いつつ、数学の成績は思った以上に上がっていた。それとともにどんどん好きになっていくのがわかった。もっと好きに、もっと得意になるにはどうすればいいか。

 彼に相談してみると、大学の図書館にくるといいとのことだった。確かに理系の大学を目指して勉強している私にとってはかなりいい刺激となる。しかも理系の総合大学だから理系の蔵書が数多くあるらしい。これは行くしかない。

 彼は授業で出席を取らない日は学生証を私に預け、私は図書館に行った。

綺羅びやかな場所だった。物理化学、位相幾何学、統計学、製剤学、薬物動態学、分子生物学、量子力学……。

 文系の学部に通っていた私は、このような類の本に囲まれたことはなかった。何もかもが目新しかった。

 そういえば、以前彼は、ヘビサイドの展開定理、と話していた。探すのはなかなか手間取ったが、ようやく探し終え、中を開いてみた。Σの中にΣ?逆ラプラス変換?実数係数多項式?果てしない数学で私には到底理解できない。

 このようなことを学べるようになると思うと胸が高鳴った。

 十一月末。

 私はそろそろ彼の変化に気づいてもよかった。


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