死ぬ死ぬ詐欺
怖かった。何者でもないことではなく、何者にもなれないことが怖かった。
20年程生きてきたが、何一つ成し遂げられたことはない。
サッカー選手となりワールドカップで得点王を目指した小学生も、漫画家となり1億部発行する作品を生み出すことを目指した中学生も、弁護士となり多くの被告人に無罪を与えることを目指した高校生も、同じ人間とは思えないのだ。絵空事だった。
僕という存在は、ちょっと器用貧乏で、それを鼻にかけて努力をせず、結果第3志望の大学に進学し、非常に高い自尊心と釣り合わない現実を見て見ぬふりするだけの臆病者だ。承認欲求が肥大化し、押し潰されそうになった僕は、ビルの屋上に立っている。転落を防ぐ柵を越えることは容易で、迫り来る死の恐怖を覚えさせるにはそこまで役に立っているとはいえない。
下を除けば、道路の上にひっきりなしに訪れるサラリーマンとトラフィック、繰り返す毎日を過ごす、死者にも等しい存在が見える。あんなのは真っ平御免だ。死んだように生きるなら、生きるように死んだほうがマシだ。様々な恐怖から目を瞑るぐらいなら、失明してでもそれらと向き合うべきだ。
その為に、僕はこれから命を絶つ。恐怖に負けたと罵っても苦ではない。恐怖と戦ったことは、自分の中でだけ勲章となるのだから――。
「キミ、怖くないのか」
声がした。柵の向こう側からだ。
見ると、若い男が立っていた。若い、といっても弱冠二十歳の僕みたいな青年ではなく、30歳手前位の、無精髭が似合う男だった。素人目からしても上等なスーツをかっちり着こなし、何故か桜色のネクタイを締めていた。
「ええ。そりゃ、少しは怖いですけど、僕は死ぬと決めているので」
この男に対する疑念はあったが、会話をしようと思った。只の気まぐれだ。
「はは。そうか、それは失礼した。ところで、見たところ、キミはかなり若い。今ここで死なずとも、宇宙飛行士にでも大統領にでもなれる可能性はあっただろ。それを捨てるのか。そのことに恐怖はないのか」
「ありますよ、そりゃあ。だから、何者にもなれずいつか死ぬ恐怖と、何者かになったとしても今死ぬ恐怖を天秤にかけました。その結果が、今の僕です」
「短絡的だな。本来それらは対立するものではないだろう。人はいつか死ぬ、それを今かいつかかなんて。本来同じ直線上にあるものだ」
「ですが、恐怖に苛まれている時間が違います。私は短い方を選んだ、というだけです」
「つまらない。それこそ文字通り短絡的ではないか」
ここに来て見知らぬ男に罵倒されるとは思わなかった。彼の口調は、僕の感情を逆撫でするというよりも寧ろ、僕の興味を誘うように手招きしているように感じた。
「どれ、キミの為に自己紹介をしよう。私は医者だ。とある途上国の紛争地域で、少年兵の傷の手当とカウンセリングを行っている。肉体的、精神的な苦痛を取り除いてきた」
「少年兵というものは、碌に武装もしない、高度な作戦も要求しない、単純な鉄砲玉だ。まともな訓練もされていないのだから当然死にやすく、事実彼らは常に死を恐れている」
「本来ならコカイン等の薬物でアッパー状態にさせてそれらを紛らわせる。しかしその薬物が少なくなり、終いに尽きて仕舞う頃には、私のような医者が駆り出される」
「私は言葉巧みに、彼らから恐怖を取り除いてきた。悪く言えば自殺幇助だが、今の君のように、結果的に死から遠ざけることもできる。キミは、私に興味を持っているから、話を聞いてしまっているのだろう」
言い返せなかった。
「偶然だよ、このビルで仕事があったから煙草を吸いに屋上まで出た。するとキミが、今すぐにでも死のうという状況じゃないか。だから話しかけたんだ」
「……そのカウンセリングというのは、僕も受けられるものですか」
「驚いた。非常に興味を持ってくれているじゃないか。仕方ない、今回は特別に、お代はその柵を越えることでやってあげよう。そこじゃあ、不安定だからね」
僕は彼と煙草をふかしながら話を続けた。彼のセブンスターの煙は辛く、僕の人生を表しているようだった。
「まず、キミは何故死ななかったのか。それは、私に興味を持ったからだ」
「キミの死の恐怖を上回る恐怖は、君を殺すのには十分だった。だから私は、それに対応する興味を引き出して、死の恐怖を蘇らせた。恐怖は他の感情と共存するものだからね」
「人間が法律を遵守するのは、罰を受けるのが怖いからだ。趣味に没頭するのは、退屈な時間が怖いからだ。死の恐怖を取り除く医者の話に耳を傾けるのは、死ぬのが怖いからなんだ」
僕は彼の話を黙って聞いていたが、心の中では、首がもげるほど頷いていたはずだ。彼の言葉一つ一つは、僕の心の的を全て射抜いていた。彼には、それ程の力があった。
「どうやらキミは好奇心が強い。それに白黒ハッキリつけたがる。だから答えの無い問いに対しては途端に弱くなる。興味は空を切り、白と黒の間の色を彷徨い続けるからだ」
「……そうです。では、具体的に何をすれば良いのですか」
「はは。またそうやって白黒つけようとする。良いよ。そんな君にとっておきの処方箋がある」
「『死ぬ』と言い続けること、ですか」
「そうだ。キミは恐怖の中生きることを恐れている。生に対する恐怖は、死に対する興味でしか抗えない。明日死んでやる、と毎日言い続けなさい。目先のことだけ、それを繰り返せば良い」
「…私はそれが怖いから、先ほど死のうとしていたのですが」
「じゃあ今死ねば良いじゃないか。別にいつ死ぬという期間は定めてないよ。声に出しても、ネット上でも、好きな時に好きなだけ言えばいい。私も仕事がある。これで失礼させてもらうよ」
そう言うと彼は足早に去っていった。後を追う気はなかった。
「親の仕事を継げと言われたので、辞めさせていただきます」
方便だった。明日死ぬからだ。電話の向こう側の忌々しい上司は心配していたが、僕は安堵していた。
明日死ぬって分かってたから大学には行かず、貯金を全部下ろして北海道に来た。広大な大地で、僕は墓場を立てることにしたのだ。本当に死にたいからこそ、満足に死にたかった。
満足いく墓石は少なく見積もっても50万はかかった。当然、その金は無かったが、借金をすればどうにかなりそうだ。その日の内に複数のクレジットカードを契約し、キャッシングの審査まで2~3日時間を要することが分かった。明日どころか、明々後日も死ねなくなった。
その間僕は、死ぬ方法について考えた。首を吊るか、飛び降りるか、ただ、死ねなかった時やり直すのが面倒だったので確実な方法が望ましい。オーバードーズ、自傷行為、僅かでも生存の可能性がある内は駄目だ。夜通し考えて、僕は「誰かに殺してもらう」という恐ろしい選択肢を思いついたが、自分で死ぬのに人の手を借りる恥ずかしさで白紙に戻した。
同時に、墓石の着工についても調べていたが、これも1ヶ月の期間を要することが分かった。
結局、明日死ぬと言った僕は3日間北海道で生存し、期間の問題から墓石を建てることも無しにした。
不思議なもので、明日死ぬと考えながら生きていれば、目の前を通過する列車に飛び降りようとはしなかったし、回転寿司店の熱湯サーバーで手を洗おうともしなかった。
それからは、死を盾にやりたいことをやり続けた。国内外問わず至る所に足を運び、様々なものを見た。その時の僕は、明日死ぬから、というより、どうせ死ぬからという精神だった。楽観的で、伸び伸びとしていた。生きるということはそういうことかもしれない、と思った。何に囚われるでもなく、最後の晩餐を繰り返す日々、それが堪らなく楽しかったのは事実だが、終わりは直ぐに訪れた。キャッシング、貯金の金が底を尽きたのだ。
明日死ぬ、という考えは特に変わっていなかった。というより、財布に1円も入っていなかったから、どうせ5日もすれば餓死するのが目に見えていたからだ。死ぬ方法、場所を考え、結果あの医者と遭遇したビルから飛び降りることにした。前と同じだった。
死ぬというのに何とも超然としていた。無為的で、特に思うことは無かった。やり残したことなど無かったからだ。遊び慣れた子供のように、颯爽と柵を越える。やはり、自殺を止めるには少々心許ないな。
下を覗けば変わらぬ通行人とトラフィックがあった。彼らは死んでいるが、僕は生きているとか、思うことは無かった。死の恐怖も無ければ、生の恐怖も無かった。
ふと、あの医者の声がしたので、呟いた。
「少しも怖くないですよ、僕は死ぬと決めているので」
きっと呆れているのかもしれない。
まあ、それも関係の無いことだ。
翼が生えた気がした。
満足していた。
数秒の恍惚の後、意識を失った。
ほどなくして、僕は命を落とした。
死ぬと言った来ないはずの明後日は、49回訪れた。