少年クロックと修道士アリス
「もう朝か」
最低限のプライバシーを守るためにある、ボロボロのカーテンから太陽の光が透ける。
迎えたくない朝を今日も迎え、少年クロックは自身の華奢な体を、薄いボロボロのシーツのベッドから起こす。
クロックはギシギシと軋む床を歩きながら洗面所に向かう。そして鏡を見ながら顔を洗う。
伸びきっていた茶髪は昨日自分でではなく、姉を診てくれていた魔術医師のエバンスに頼み、短く切りそろえてもらった。
「ヒゲは……」
そう言ってクロックは、ヒゲなど全然生えていないのに剃刀を首に当てる。
「そろそろかな?」
“まだ死にたくないなぁ”
それを待っていたかのように、姉の最期を思い出す。冗談ぽく笑いながら、そう言って眠るように亡くなった姉の最期を。
「駄目だ」
クロックは剃刀を首から外し、洗面所の棚に戻す。そのまま顔をバシャバシャと乱暴に洗う。
「これも、そろそろ止めなくちゃ……」
顔をタオルで拭きながら、クロックは一人つぶやく。何度同じことを言ってきたのだろうか。
◆
クロックは手短に武具の装着を終え、朝食もそこそこというより、まったくと言っていいほどに食べず、ベッドの近くの机に置いてあるカバンと冒険者ギルドの管理カードを手に家を出る。
ボロボロの玄関のドアを閉め、自身の心境とは正反対の快晴に思わずうつむく。
「僕も今日で十五歳か。せめて今日までは……」
そんな独り言を口にして、クロックは胸元のチェスのクイーンの駒を握る。それはペンダントのように首からぶら下げるように加工してあり、彼はそれを一カ月前から肌身離さずつけている。
その握った手は、それの強度を確かめるかのように力強く握られている。
クロックが住む都市アリアベルクでは十五歳を成人として扱う。彼も今日成人として認められたのだ。
「成人の儀の前に、エバンス先生の所に行って……」
クロックの所属しているギルドでは、月の終わりに該当者がいる場合、ギルド直営の神殿で成人の儀が執り行われている。この儀式の終了を持って、クロックはモンスター退治などの依頼を受けることができるようになる。今までクロックは薬草採集や失せ物探しなどリスクの低い低報酬の依頼を受けることしかできなかった。しかしそれも今日で終わりだ。普通の冒険者なら喜ばしいことなのだがクロックは嬉しそうな素振りも見せない。
「姉さんの所は、昼からにしよう」
「やめてください」
クロックが姉の墓参りの事を考えていたところに、女性のただならぬ声が街中に反響した。その声にクロックは現実に戻され、声のした方に体を向ける。
「なんだよ。ちょっとくらい良いじゃねえか」
そこにはローブをかぶった人物と、その人に絡んでいるガラの悪そうな男が二人いた。
ローブをかぶった人物は、声を聞いただけでも女性と分かるような高く朗らかな声をしている。体つきはクロックより一回り大きく、胸の部分がローブの上からでもわかるほど膨れている。
この地区はスラム街に近いこともあり、お世辞にも立派な家は一つもない。一応この都市ではスラム街など無いということになっており、そこに住んでいる住民も戸籍がないため、いないものとされている。そういった事情も相まって、憲兵も最低限しか見回りをしないので、よくこういった輩が現れる。
「あなたたちのような汚れた心の持ち主は、まず、あちらの教会に向かうべきです」
「嘘でしょ」
その女性は、こんな状況にも関わらず男たちを朗らかな声で叱りつけている。クロックは、これはまずいと彼らの間に割って入る。
「あ、なんだ、てめえ」
男の威嚇に少しびくついたが、クロックはとりあえず女性に背を向け、男たちと対峙する。
「まぁまぁ、とりあえず落ち着いてください。何があったんですか?」
おおかたナンパだろうと思うが、この女性が何かしたのかもしれない。見たところ遍歴の修道士のようなので、さっきの調子で無理やり教会に行くよう説教をしたのかもしれない。
「何度も断っているのに、この方々が食事に誘ってくるのです」
男たちはクロックの問いに答えず、女性の方が答えてくれた。それならこちらの女性の味方を心置きなくできる。
「本当ですか?」
「うるせえよ。猟師は森にでも行ってろよ」
男たちは開き直ったのか、先ほどよりも額に筋を立てながらクロックをどかそうとする。
「アニキ、こいつクロックじゃないッスか?」
クロックの装備を見て、子分の方は思い出したようだ。クロックの装備はスリングショットと、ボーラと呼ばれる猟をするときに使う、三つ又にして括ったロープの先に丸石を結んだ武器を腰に下げていた。
一応背中の方に小型のナイフも携行してはいるが、他の二つが目立っている為、兄貴分の方はクロックを猟師と勘違いしたのだろう。
クロックは内心焦った。もしかしたら、余計に兄貴分をたきつけてしまうかも知れないと思ったからだ。
クロックは一応、戦う態勢を作るために周りを見渡す。あいかわらず、きれいな家は無い。だが、クロックが家を出たすぐとは違い、窓際にはこちらの様子をうかがっている人が何人もいる。このため、距離を取ってスリングショットで狙うのは止めておきたい。外す可能性は低いが、万が一もあるからだ。だからクロックはボーラに片手をかけていた。
「あぁ、ザコギルドの新人なんて興味ねぇよ」
兄貴分は、口ぶりからクロックの名前は知っているようだった。
「その下品な口調を改めるために、教会に行った方がよろしいと思います」
クロックの名前を聞いた時、兄貴分の顔が少し引きつった。それをクロックは見逃していなかった。相手の様子からこちらが下手に出れば、穏便な形で終わらせられるとクロックは考えていた。それなのに女性の方がさらに男たちを叱りつけていく。だからクロックは女性に少し黙っててもらおうと女性の方に顔を向ける。
「あなたも少し黙って――」
ここで初めてクロックは、彼女の顔をきちんと見た。たれ目で丸顔のいわゆるたぬき顔の可愛らしい顔に、セミロングの栗色の髪。クロックは思わず言葉を止めた。
「なぜ黙る必要があるのですか?」
外見などは全然似ていない。だが首をかしげる仕草は似ている。
「姉さん?」
クロックは男たちから意識を完全に外し女性の顔、仕草に目を奪われてしまった。
「テメェの姉かよ。ならお前を殴らせろ」
男たちは冷静に考えれば遍歴の修道士と見た目や装備が狩人の少年が姉弟のはずがないと分かるのに、頭に血が上っているのか、分かっていながら、引っ込みがつかないからクロックを殴って終いにしようとしているのか、拳を振り上げる。
クロックはまだ女性に目を奪われており、男たちのことを気にしていない。このままだと二回りも体格が違う男たちに殴り飛ばされる。その時だった。
―光を守護る楯よ―
「ギャー―」
女性がそう呟くとクロックの後ろから男の叫び声があたりに響き渡る。
「え」
クロックは驚いて振りかえる。そこには彼に触れる寸前だった右手を血まみれにしてうずくまっている兄貴分がいた。
「行きましょう」
「え、いや」
女性はそう言うとクロックの手を掴み走り出そうとする。クロックは困惑しながらも男の心配をする。
「一時間もすれば治ります。それよりもあなた名前は?」
「えっと、クロックです」
おそらく彼女が魔法を使ったのだろう。なにか聞き覚えのない魔法名と思われる言葉が聞こえた後叫び声が聞こえた気がしたので、クロックはそう思うことにして名前を答えた。
「クロックさんですね。私はアリスです」
そのままアリスはクロックの手を握ったままその場を後にする。
「どこに行くんですか?」
「街の真ん中の広場までです」
さっき、この人に姉を幻視したことは気のせいだろうと思いながらも、クロックはそのアリスと名乗った女性に付き従って行く。
「ほんとに大丈夫なのかな」
クロックは後ろを振り返ると兄貴分はまだ血が止まらないようだった。子分がどうやら回復魔法を使っているようだが効果がないようだ。
「あれ、実際に血が流れているわけではないのですよ」
クロックの心配そうな顔を見てか、アリスは足を止め自分が使った魔法の説明を始めた。
「あの血は、魔法で作られた幻覚で、本人の身体から出ていないのです。まぁ、本人は自身から大量の血が流れていると思ってるでしょうし、その感覚が自身の身体に伝わってるので、精神的にはかなりつらいでしょうけどね」
アリスは冷めた目をして男たちを見ている。
「アニキィー」
子分がそう叫ぶとアニキの方は気を失ったようだ。
「では、行きましょうか」
アリスはそれを見て、クロックの手を引きながら、再び歩き出そうとする。
「いや、気失いましたよ」
クロックはその場から動かず、逆にアリスを引き留めようと腕に力を込める。
「気を失ったのなら血が止まったはずですよ」
それを聞いてクロックは、輩の手を改めて凝視する。確かに先ほどまでは、遠目から見ても分かるほど血が流れていたが、今は止まったように見える。子分の方もそれに気が付いたのか、魔法の詠唱を止め、あたりをキョロキョロしている。
「血が止まっても気を失ってるんですよ。というより、あの子分キョロキョロしすぎだろ」
クロックは思わず敬語を崩し、困惑する。
「やっぱり、あなたの気質が原因だったのですね」
クロックがアリスの手を振り払い、輩の方へ向かおうとした時だった。
「あれ? 血が消えた?」
クロックの視界から、輩の周り一面に合った血が一瞬で消えた。
「あの人なら、あのままにしていても大丈夫ですよ。それよりも広場にあるカフェに行きましょう。そこで詳しいことを話しますから」
アリスは振り払われた手を再度握り直し、クロックを強引に連れて行こうとする。
「ええ、まぁ、そこまで言うなら……」
魔法を使った本人が再三言っているので、本当に大丈夫なのだろう。とりあえずこの人について行って詳しいことを聞こうとクロックは思った。
「では、行きましょうか。ホットドックがおいしそうだったんですよね」