幸福な王子
幸福な王子
再びオスカー・ワイルドだ。この本は解説によると、幸福な王子という童話集とザクロの家というワイルドの書いた童話集とを一まとめにしたものらしい。大分ゆっくりと読んだせいもあって、半ば記憶が薄れてはいるが、解説が記憶を想起させてくれた。解説者って偉大。
さて。大学の先生の話によると、作家は子どもができると童話を書くらしい。
オスカーもそれに当てはまるのか、と思いきや、流石オスカー・ワイルド。俺たちにできないことをやってのける。そこにしびれる。憧れる。
表題にもなっている幸福な王子。これは幸せの王子様、などの題で絵本などになっているものである。日本で知らない人は数少ないはずだ。まさか、幸福の王子をオスカー・ワイルドが書いていたなんて。その事実を知った瞬間の私の胸に宿った疑念の炎はオスカー・ワイルドを知っている方なら想像が容易いはずだ。
ワイルドの特徴としては、汚い言葉で申し訳ないが、エロチズムとグロテスクである。そのエログロを苦みを残しながらもうまく芸術として昇華させている。芸術というと少し敷居が高いのだろうが、なんというか、現実離れしていない芸術なのだ。つまりは、聖堂に描かれるような絵を落書きのように建物の壁に書き記したような、やさぐれて挑発的な、それでいて、目を背けられない、そんな奇妙さが内蔵しているように思える。
さて、そんなワイルドが子どもたちのために書き残した童話とは一体どのようなものか。それは凄く悲観的なものが多い。というか、これ、子どもに読ませられない。絵本の幸せの王子様は大分マイルドなのだな、と思った。その辺りは『世界平和はお金で買えるのか~最強の生徒会副会長黒江銀編~』で書いたので省略する。
それぞれの話において、数々の感想があるのだが、一々書いていたらそれこそきりがない。一編を読み終わった後の清々しさと、その反面の胸苦しさ。これはなかなか甘美であり、是非とも大人にはお薦めしたい。解説を読んで気が付いたが、前編を通して、大体二つのテーマで描かれている。下層階級の悲惨さ、人の無情さと、恋のはかなさ、無情さである。両方に無情さと書いたのだ。ハッピーエンドで終わる作品は少ない。そう言われると、童話ってハッピーエンドで終わるの、少ないよね。それは、きっと当時の世界の悲惨さを物語っているに違いない。
童話や昔話は子どもに社会を追体験させる役目があると言われている。そう言われると、ワイルドの童話も秀逸であるかもしれない。
私が子どもであったら、善良で騙されるということを知らない男を死にまでおいやった野郎を許さない、と思ったり、改心していい人になった男を涙ながら褒め称えるだろう。でも、大人になった私は、より強く、人の醜さを知った。その上で読むと、人を騙す男を責められはしない。人間の大半はそういう醜い人間で、困っている人を助けるなんてことはしない。改心した人間だって、もっと早く気付けよ、とか思ったりする。私が大人になったというより、もとより性根がねじ曲がっている故なのだろうが。筆の力は、読者を誘導する力があるように私には思える。登場人物を通して描かれる物語には、必ず登場人物に感情移入しなければならない。だが、ワイルドはそれを嫌ったようだ。むしろ、もっと多角的に世の中を見て欲しいという願望ではないが、現実的な考えがあるように思える。
やはり、そういうものは童話には適さないようにも思える。だから、大人の読み物でしょう。
私は童話なんて書けないし、そんなに読んだことがないので、ワイルドの筆力に舌を巻くところがあった。それは、物語を繰り返す、というか、似たような語り口で始めるということだ。確か、杜子春か何かも何度も同じ様なあやまちを繰り返すという感じだったと思うが、そう言う風にした方が子どもには馴染みやすいのだな、と思った。私には子どもはいないし、作ったりするつもりもない。彼女さえできたことはない。だから、誰かに望みを託して物語を書くということは未だできたことはない。ただ、思うところは、社会の醜さというものを前もって知っておいて欲しいと私は思う。綺麗ごとでは生きてゆけない世の中。でも、できれば綺麗なままでいてほしい。私の作品のテーマは実はそんなものなんだろうな、と思ったりする。
結局自分語りになってしまう。でも、本というのは抱く感想は人それぞれだ。むしろ、私は感想文など書くと、意見が過激だったり、偏ったりする。私が初めて真っ当に書いた読書感想文は登場人物の批判で終わってしまった。ある意味、そこが私の出発点でもあるのだが。
人はそれぞれの歴史を持っていて、そこから居間の人格や心象が現れる。そんな人が書いた様々な読書感想文を読んでみたいものである。
とはいえ、私は自分の描いたものが一番だと思ってるし、他の人の書いた文など批判しまくりだ。でも、それでいて認めている部分もあったり、こいつはすごいと思ったりする。ある意味、偏見を持ったまま読むというのは作品の新たな発見にもつながるので、よければどうぞ。