ドリアングレイの肖像
ドリアングレイの肖像
オスカー・ワイルド作、新潮文庫福田恆存訳のドリアングレイの肖像を読んだ。
まず、この読書日記の経緯を話そう。
綾辻行人のanotherの解説にて、解説を書いているひと、多分有名な作家さん、が言っていた。初めて作品を読んだ時のスリルが羨ましい、僕はもうそれを二度と味わうことができないのだから、と。それは私も常々思うところなので、今、この瞬間を閉じ込めておきたく、これを書く。
ネタバレを存分に含むので注意いただきたい。
まず、私は冒頭でオスカー・ワイルドに置いてけぼりにされてしまう。オスカー・ワイルドは読者を圧倒的な表現力で、その場に取り残してしまった。純真無垢な美青年ドリアングレイは芸術家バジルの頼みで肖像画のモデルになっていた。そんな時、バジルの友人のヘンリー卿とドリアンは運命的な出会いを果たしてしまう。そこが、なんともほもほもしい。なにせ、ヘンリー卿とバジルのやりとりはどう見ても美青年を取り合っているからだ。これは・・・と思いここで本を閉じる読者も多いだろう。あらすじには、歳をとり醜くなるドリアンの代わりに肖像画が歳をとる、などというメルヘンチックな説明がされているからだ。それが殊に百ページ近く渡る。だが、そのほもほもしさこそ、この作品を芸術まで引き上げた。むせかえるほどの妖艶な香気。ヘンリー卿のドリアンを悪の道に取り込もうとするカリスマ。そして、純真無垢なままだった青年の自我の目覚め。どうしても三島由紀夫の禁色を思い出す。禁色はドリアングレイの肖像をモデルに書かれている。
結局のところ、肖像画が主役となってくるのは後半であり、この小説はSFでもファンタジーでもないことが分かる。ただ、純真無垢な少年が堕落していく姿をワイルドは描きたかっただけなのだ。
イギリスの風景、貴族の生活、そして、貧民の生活。それらも繊細なタッチでその当時を知らない我々でも容易に場面を想像できる。長く知己を含んだヘンリー卿の会話。少しヒステリックではあるが、意外と正しく、それでいて、気弱なのに妙な情熱のあるバジル。そして、汚れを知らぬ透明なドリアンの声。その対比はまるで絵画の風景と人物と鑑賞者を併せ持った芸術ではないだろうか。絵画でも文学でもそうだが、鑑賞者がいることで、初めて一つの作品は完成する。そこまでワイルドが狙ったのかは今では知りえぬところであるが、ただならぬ、鬼気にも迫る才能が感じられる一品であった。食事で表せば、それは肉の香りをかぐわしいほどに詰め込んだシチューであろう。咽びかえるほどの肉の香りにさらりとした舌触りのシチュー。それでいて、少し雑味に近い苦みがある。だが、大人の味覚を知っているひとには分かる通り、それらはついつい病みつきになってしまう。
作品の味わいを一瞬に閉じ込めようとする私も、ドリアンのように若さを永遠に閉じ込めるという愚行を犯しているのではないか。だが、それは思わぬほど甘美で、贅沢な余韻を私に味合わせている。