六日月の口笛(文章版)
どこからか聞こえる笑い声が今日も楽しそうだった。
彼はケイタイの画面から目を離して伸びをした。別に誰かと連絡を取っていたわけじゃない。誰とも分からないようなネットの世界から目を上げて部屋の窓から外を見ると、妙に高い位置につけられた窓からは真っ暗な空だけが見えていた。
「そろそろ寝るか」
口に出して彼は、自分の声に驚く。それ以上何も声を出さないようにして彼は電気を消した。たったひとつ彼の存在を証明していた明かりが消えた。
残暑。9月になっても熱帯夜が続いていた。
電気を消してみたもののまだ眠くはなかった。外からほんの少し入ってくる光に目が慣れて天井の模様が見えてくる。渦巻く木目を見上げながら、消えてしまえればいいのにと思った。そしてそんな自分を叱った。消えるのはまだ、怖かったから。
今日も彼は静かに笑っていた。同僚達が笑い合うのを輪の中でじっと見つめていた。ときどき掛けられた言葉に返事をして、彼から話した言葉はかき消された。
そういうふりをして密かに一人を作っていた。
寂しくないと言えば嘘になるけれど胸の痛みにはもう慣れた。
だって人は、いつだって結局は一人なんだから。
彼が夜道を駆け出したのはきっと、そこに誰もいなかったからだろう。まだ11時だったけれど火曜日の住宅街にはもう誰もいなかった。ときどき見える明かりも、寝る準備のシャワーの音がした。帰る場所がある人は、行く場所がある人だ。
誰かに見つかったら誤摩化せるように、ゆっくりと走り出した足は次第に速くなっていった。行くはずだったコンビニを通り越して、いつのまにか全力疾走して交差点に出た。通る人もいないのに信号が律儀に光っている。彼は立ち止まってから青と赤のあいだの黄色で道を渡った。
上がった息とじっとり汗ばんだTシャツをつかんで彼は誰にともなく苦笑した。不思議と不快には思わなかった。むしろ少しだけ、本当はとても気持ちよかった。
リン、と誰かが仕舞い忘れた風鈴の音が聞こえた。
応えるように短く口笛を吹いて、彼は来た道を戻っていった。