―2―
「ゆ、幸乃原……えっと…………」
さて、璃央がピンチだ。
今日もぴっちり執事様スーツの璃央専用執事さんを前に、璃央は右後方の傷の横で焦る。
傷とは、璃央のでも俺のでもなくて、車の。
俺が後部座席の窓から二人を見物していると、幸乃原さんが「あー、うー、えーっと」の璃央から視線を外して俺を見、深々と頭を下げてくる。
「お久し振りです、洸祈お坊ちゃん」
俺が認める執事の中の執事さんは、執事スタイルで執事スマイルをしながら……つまりは、彼はエリート執事なのだ。しかし、俺は彼に関しては“お坊ちゃん”だけは気に食わない。
執事が言うのはかっこいいけど、言われる一般人は恥ずかしすぎる。
「お久し振りです。幸乃原さん」
俺も窓枠に手を添えて頭を下げた。そして、俺が璃央の背中に声を殺して苦笑すると、幸乃原さんの表情が微かに和んだ気がした。
それを見ると、俺は和んだ。
と、
「だから、すまない!」
「璃央様、あとは私が運転してもよろしいですか?」
「あ、ああ!勿論だ!」
ペコペコと曖昧に誠意だけで謝る璃央。
どうやら、塀の角に車をぶつけた璃央は、執事の宥めによって多少は気が静かになったようだ。
幸乃原和志、元煉葉の筆頭執事。
現在は煉葉を飛び出した元煉葉の跡取り息子、煉葉璃央の執事だ。
『何で璃央?煉葉はいいんですか?給料ちゃんと貰ってます?』
そう聞くと、
『璃央様からはお金では買えない沢山のものを頂き、頂いております』
と、真面目な顔で答えられ、
『愛とか?』
『愛や正義、何でもですよ』
そう言って微笑んだ幸乃原さんはよく分からない人だ。いや、幸乃原さんにそう言わせる璃央が何だか恐ろしくなったりもした。
結局のところ、幸乃原和志とは、外見以外は不明な執事ということだ。
彼のプロフィールはここまでとしておこう。
静岡から奈良、駅で幸乃原さんと落ち合い、奈良から向かうは……―
「奈良公園!」
奈良公園に決まっている。
「お前なぁ……」
助手席の璃央が呆れているようだが、折角ここまで来て、奈良公園に行かないのは脳内メモリーに損だ。
人生初の奈良公園でまずすべきは、先程から駐車場と公園の出入口付近の売店でうろうろしているアレと戯れることだ。
俺は後部座席の窓を全開にした。
「いい?先行ってていい?」
「“先に行く”って、目指す地点があるのは洸祈だけだ」
璃央は一々煩いなぁ。
璃央から目を逸らして、ミラーに映る幸乃原さんを上目遣いに見ると、俺をわざわざ振り返った彼は、運転席からにこりと一言。
「止めたら、あとから行きます。璃央様もどうぞ」
そこで璃央に話を振るのは余計だが、ノリのいい幸乃原さんは好きだ。
俺がちゃっちゃとドアのロックを外して外に飛び出すと、溜め息を吐いた璃央も車から降りてくる。
嫌なら降りなければいいのに。
まぁ、数時間前の幸乃原さんの愛車に傷を付けたことも関係しているのだろう。
俺は璃央を無視して、恐る恐るそれに近付いた。
初のリアルな鹿だ。
茶色い毛と焦げ茶の角。
濡れた鼻と口元。
寝てる……。
すると、俺の気配に瞼がすっと上がった。
あ、逃げちゃう。と思ったら、案外逃げない。前肢を折り、後ろ肢も折って礼儀正しく座っている。
じっと俺を見ていた。
凄く近い。
触れるかな。触ったら怒るかな。寝起きは短気かな。
「兄ちゃん、触っても大丈夫だ」
悶々と考えていた俺に、平日の昼間に暇そうにしていた売店のおじさんがにやりと笑いかけてきた。
では、その滑らかビューティフルな毛並みに……。
「わあ……ごわごわだ」
予想と違って滑らかではないが、撫でると逆に気持ち良さそうに顔を俺の膝に擦り付けてきたのは嬉しい。
よしよしと額を撫で、目一杯撫でるために俺はしゃがんだ。しかし、突如として鹿が起き上がると、俺から離れていく。
唐突であっという間。
何で!?
鹿に嫌がらせをしたつもりは毛頭ないが……………………いや、嫌がらせをしてきたのは璃央だ。
あれは噂の鹿煎餅!
「おお!現金な奴だな!」
璃央は俺のハニーを煎餅で釣った。
それどころか、観客の少ない今の時間帯に、公園の鹿達が嬉々として璃央に群がってくる。
くそぉ!
はははと無邪気に笑う璃央。
ムカつく。
現金を持ち合わせていなかった俺は車のリュックのところへ戻ろうとして、後ろを向いた俺の目の前、20センチ弱に幸乃原さんがいた。本当に真ん前にだ。
…………この人……怖いかも。
「幸乃原……さん」
「これ、鹿煎餅です。どうぞ。袋は彼らの顔より高く上げないと、奪われてしまいますよ」
…………………………………。
「俺、幸乃原さんが大好きです!」
顔を綻ばせる執事さんは怖いどころか、やはり、好きだ。
ハーメルンの笛吹とはこのことだろう。
俺の背後では鹿が列をなしている。
俺
鹿
鹿
鹿
鹿
鹿
鹿の行列だ。
「璃央!鹿!」
つい自慢しようと、ベンチに座って傍らの雌鹿を撫でる璃央に叫んだ。
「私の名前と鹿を横に並べるな!まるで私が鹿みたいじゃないか!」
そうだろうか。
璃央は叫び返す。
ということで、鹿煎餅を鹿達に全部あげ、大仏さんに会いに幸乃原さんと歩く璃央を追いかけた。
「奈良の大仏って室内にあるんだ」
「暗いな……洸祈、顔上げてると転ぶぞ」
何もないのにつっかえると、璃央が俺の腕を掴む。
奈良の大仏様はとても大きく、その体をも覆う室内の天井はとても高い。ぽつぽつと天井からのオレンジ色のライトと、足元のライト以外、小明という小明はなく……璃央の顔もよく見えなかった。
大仏の背中、案内の看板に従って、出入口の反対側まできた時、ちょっとだけ恐くなった。ホラーは別にどうってことはない。
問題なのは絶対的力。つまり、自然災害。
この場で恐ろしくなったのは地震だ。
「璃央、先行ってていい?」
「背中もご利益がありそうだが?むしろ、背中こそ、神の後光みたいな」
「神と仏は別だから。じゃ、鹿のとこにいる」
「ああ。足元気を付けて」
足元に気を付けて、俺は大仏を中心にぐるりと一周できるコースを駆けた。
早く太陽の下に行きたい。
「へあああ!!!!鹿肉やぁ!!!!」
「あ、逃げた。あ、また。なぁ、お前避けられてるよな?」
「ところで、奈良の鹿は野生なん?せやったら鹿鍋に一体連れて帰って……」
鹿を愛でるどころか、食べたいらしいちびっ子が、ふと、親子の鹿を撫でる俺を見詰めてきた。
「ん?どうした?」
「あの男……」
何やらサスペンスな雰囲気だが、俺はちびっ子も、その横の男も知らない。“あの男”でもない。
だから、頭だけは下げといた。
若い白衣にジーンズの男と、Tシャツにパーカーとハーフパンツの膝小僧を見せた少年は、その間も俺を見る。
なんだろう。あんまり関わらない方がいいかも。
「ほら、目指すは銀閣寺だろ?もう鹿はいいか?」
「ん?鹿?嗚呼……もうええわ。京都行こか」
大量に持っていた鹿煎餅をビニールから地面にばら蒔き、少年が俺から目を離した。そして、男に付いて踵を返す。ふわふわと揺れる黒髪とパーカーの帽子。
一瞬だけ、少年は俺を振り返り、二人は駐車場に消えた。
それを見計らったかのように鹿が落ちた煎餅に集まる。俺の手から離れた鹿の親子もまた……。
「鹿に嫌われた少年……か」
変な子。
「洸祈、行くぞ!」
璃央が売店の傍から俺を呼んでいた。
璃央は二人には出会わなかったのだろうか。いや、きっとすれ違ったのだろうな。
「今行く!」
駐車場へと消える璃央。
俺は芝生を踏んで公園を横切る。
鹿煎餅に群れる鹿。
「ふ~ん、コウキ言うんやな」
!?
「………………ちびっこ……」
ちびっこが木々の間から顔を出していた。
京都に行くんじゃなかったのか?
「“ちび”…………我にいい度胸やのぉ」
「じゃあ、何て呼べば?」
「………………ヒワってゆうたらどうするん?」
変な子。
「……イセ大阪弁のヒワさん」
「はは、ええのぉ。そー焦らすんか」
「そう焦らすさ」
耳にチリチリと何かが弾ける音。足下の落ち葉が燃えていた。
「あらら……人災だ」
俺は自分で呟く。
ぐりぐり。ぐりぐり。
踏み潰すけど、燃えが広がる。
ヤバいな。
本気で鹿肉がジューシーに……。
「洸祈!目瞑れ!」
璃央だ。
目を瞑ると広がる闇。
そして、あいつの顔。
『裏切り者』
「っ!!!?」
違う。裏切りじゃない。
大切な大切な友達だったんだ。
何よりも誰よりも大切な俺の友達だったんだ。
俺は友達として好きだったんだ。
「いいか、落ち着け。お前は鹿が好きだ。鹿は可愛い」
鹿は可愛い。
特に雌鹿が。
特に小鹿が。
俺の手から煎餅を食べる。
煎餅がなくなったら俺の手を舐めてねだるのだ。
「よし、目を開けていいぞ。向かうは幸乃原の実家だ」
璃央は俺の腕を引く。
前を歩く璃央の革靴は焦げたりしたのだろうか。
黒だから分からない。
俺は、不自然に黒くなった土を踏んで璃央の後ろを歩いていた。
あの少年はいなくなっていた。
「琉歌ってふわふわもはもはだから好き」
「それは仮の姿だがな」
幸乃原宅こと、幸乃原和志の息子と嫁宅は以外と由緒ある風だった。
我が日本に残る日本屋敷……ではなく、伸びっぱなしの雑草が縁側にまで蔓延っている。
『我が家は代々農家です』
執事談。
祖父から幸乃原さん、幸乃原さんから息子さんへ。
そして、息子さんは、東京の人混みより土と自然を愛するお嫁さんと二人で仲良く野菜を育てているそうだ。
「仮の姿って、琉歌はいつでももふもふはふはふだろう?」
俺は、
ふわふわ
もはもは
もふもふ
はふはふ
の首に顔を埋めた。
白くてぬいぐるみみたい。
が…………。
軋む縁側で首を傾けた琉歌に抱き付いていたはずが……!?
俺は白の着物の…………イケメンの首に……………!!!?
「首ぃぃいいい!!!!」
生首だ。
人間の肌色の生の首。
『驚かせたか?』
喋った!?首切り権座衛門(意味不明)!?
「だ、だだだ誰!」
「琉歌だって」
「琉歌ぁあ!?」
琉歌はふわふわもはもはもふもふはふはふだろう!?
『私は琉歌だ』
白髪のイケメンさん…………陽季。
餓鬼だったとはいえ、あんな約束を……!!多分、忘れてファンの女の子でも作っているんだろうけど……。
つい考え事をしていた俺は黙ってしまったから、琉歌が不思議そうな顔をした。
『洸祈?』
「………………琉歌なら璃央よりモテるよ」
「私はモテないと?」
「一途に運命の女の子探してるんでしょ?そーゆーのって、女からしたら相談しやすいけど、恋愛の対象にはならないよね」
「――っ!!」
笑い話に持っていったつもりだが、琉歌だけは俺をじっと見ていた。
父さんの条件は軽く済むものではなかった。寧ろ、俺の傷口を抉るような最悪な条件だった。
「カミサマと契約しろってのかよ!!!!」
口調が荒くなる。
幸乃原さんや息子さん、お嫁さんがいる家で失礼だけど、俺は苛立ちを隠せなかった。
璃央を真っ向から睨めば、「条件だ」と冷たい。璃央にしてはムカつくが、璃央が本気なのが分かる。
「お前がカミサマが嫌いなのは分かる。だけど、この条件が呑めないなら……」
「呑めない!!カミサマなんて大嫌いだ!」
勿論、カミサマの琉歌も。
カミサマなんてもうこりごりなんだ。
「なら、崇弥慎の命令で崇弥家に帰れ。崇弥当主になって家に縛られればいい」
「は?」
崇弥慎の命令?
崇弥当主?
それより……璃央が怖い。
「な、何だよ、璃央」
「私の言葉は慎の言葉だ。慎の書いた契約書がある」
璃央が懐から出した紙からは確かに父さんの魔力を感じた。
「洸祈、契約したくないのなら、崇弥に帰れ」
何でだよ。
こんなの卑怯だ。
叫びたいけど、叫んだって現状は変わらない。
選択肢は一つしかないままだ。
カミサマと契約をする。
永遠を生きる不老不死。
悲しみも喜びも失った愚かな人々。
神に近付き、神に見放された人々。
「璃央は俺にカミサマと契約しろと?あいつと……氷羽と同じカミサマと?」
「………………洸祈……」
『璃央、二人きりにしてくれないか』
縁側の隅に立っていた琉歌がそう提案をした。
璃央はこくりと頷いて行ってしまう。俺はただ、突っ立っていることしかできなかった。
奇妙な組み合わせだと思う。
琉歌と俺。
「琉歌がカミサマだから、琉歌を母体にした護鳥もカミサマ?」
『どうだろうな。洸祈はカミサマが嫌いか?』
「うん」
『何故?と聞いてよいか?』
「駄目。だけど……苦手なんだ」
縁側に並んで腰掛ける俺達。
琉歌は空を見ていた。
俺は地面を見ていた。
『故郷はスウェーデンの森で、趣味は劇場をただで覗き見ること』
それって何だか人間くさいな。
『欲しいのは名前と家族…………愛だそうだ』
「名前と家族と愛……」
俺だ。
名前と家族。
まだ欲しいのは愛。
「俺に愛はあげられない。ないんだから」
捨てたんだから。
でも、俺は愛を欲しがっている。
安らかに眠れる居場所を探している。
そのカミサマも俺と同じなのかな。
『最近、夜になると泣くんだ。ずっと……。何故?と聞けば、分からないと答える。ただ悲しいと』
悲しい……はカミサマにないはず。
『あの子は今夜も泣くのだろうな』
「俺と契約すれば泣き止むのか?」
『私は笑うあの子がみたい』
「俺は笑わすのは苦手だ」
『あの子は笑うのは苦手だ』
……………………あーはいはい。
俺が折れろっていうことね。
琉歌が身を屈めて俺の膝に乗せたのは…………それは、何と言えばよいか……。
それは小さな小さな……―。
「…………………妖精」
青く光る羽を背中から生やした子供。
俺の手のひらぐらいの白く透き通った肌を持つ少女。
簡単に壊れてしまいそうな儚い命を持った彼女は俺の手に大粒の涙を落とす。
眠りながら泣いている。
いつまでも。
いつまでも。
『洸祈、名前を』
そうだった。
名前はどうしよう。
女の子で寂しがり屋で泣き虫で……雨だ。
雨みたいに泣く泣き虫。
琉雨…………気に入らなかったら、後で変えればいいか。
「琉雨。こいつの名前は琉雨」
『ルウ……よい名だ』
泣き虫だからって理由を言ったら怒られるだろうか。
まぁ、いいや。
琉雨、契約をしよう。