「第二王子殿下は婚約者を嫌っているらしい」――王城の地味なメイドですが、お二人とも相手のことしか考えていませんよ?
「第二王子殿下、公爵令嬢様との婚約を破棄されるらしいわよ」
「まあ」
私は磨いていた銀の燭台から顔を上げました。
ここは王城。
そして私、エナメルは現在、この王城で下級メイドとして働いております。
廊下の隅。
私のすぐ近くでは若いメイドたちが箒を持ったまま、楽しそうに話していました。
「だって最近、全然お二人で会っていないらしいもの」
「そうそう。それに第二王子殿下、最近は伯爵令嬢様とよく一緒にいらっしゃるんでしょう?」
「じゃあ、やっぱり公爵令嬢様は捨てられるんじゃない?」
「かわいそう!」
「でも第二王子殿下って、ものすごく格好いいし」
「伯爵令嬢様も美人だものね」
「幼なじみ同士で、お似合いかも」
まあ、王城とはウワサの多いところです。
私は燭台を磨きながら静かに聞いておりました。
第二王子殿下。
そして、その婚約者である公爵令嬢様。
お二人が婚約されたのは、たしか5年ほど前だったでしょうか。
私はそのころ、まだ別のお屋敷で働いておりましたので、詳しい事情までは知りません。
ただ最近、お二人の仲があまりよろしくないらしい。
それは王城で働いていれば嫌でも耳に入ってきます。
「エナメル」
「あら」
振り返ると先輩メイドが立っていました。
「いつまでそこを磨いているの。終わったら第二王子殿下のお部屋よ」
「はい。ただいま」
「今日は執務机まわりもきちんとね」
「承知いたしました」
私は磨き終わった燭台を置き、第二王子殿下のお部屋へ向かいました。
その途中、廊下の向こうから第二王子殿下が歩いてきました。
そしてちょうど反対側から、公爵令嬢様も歩いてきます。
「あ」
お二人の視線が一瞬だけ重なりました。
第二王子殿下がすぐに目を逸らします。
公爵令嬢様も、少し遅れて反対側を向きました。
……。
私は少しだけ首をかしげました。
第二王子殿下の体内を流れる魔力が、ほんの一瞬乱れたからです。
私は長年、自分自身の魔力を細かく制御する技術を磨いてきました。
魔力制御に熟練すると、他人の身体を流れる魔力もある程度分かるようになります。
もちろん、心が読めるわけではありません。
分かるのは、流れが強くなったり、弱くなったり、少し乱れたりしたこと。
その程度です。
今の第二王子殿下は、公爵令嬢様を見た瞬間、胸のあたりから顔へ向かう魔力の流れが少しだけ強くなったように見えました。
「……」
緊張でしょうか。
でも、どうして婚約者を見て緊張するのでしょう。
恋愛って難しいですね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
第二王子殿下はご不在でした。
私は静かに部屋の掃除を始めます。
寝台。
本棚。
窓。
絨毯。
そして執務机。
「……まあ」
机の上には大量の紙。
忙しい方なのですね。
仕事の書類には触らない。
それがメイドとしての基本です。
私は散らかった紙の間に溜まった埃だけを、慎重に取り除いていきます。
そこで一枚の紙が、ひらりと床へ落ちました。
「あら」
拾う。
見てはいけません。
そう思ったのですが、大きな文字が嫌でも目へ飛び込んできます。
『婚約者との会話候補』
……。
私は瞬きをしました。
その下には細かくいろいろ書かれています。
『好きな花――白百合』
『好きな菓子――木苺のタルト』
『最近読んでいる本――北方諸国紀行』
『苦手なもの――雷』
『馬が好き』
『刺繍は苦手。本人は隠しているので絶対に触れないこと』
まあ、よく調べていらっしゃいます。
さらに横には、殿下自身が書いたらしい文章。
『今日は天気がいいな』
その下に。
『ありきたりすぎる』
さらに。
『その髪飾り、似合っている』
その下。
『急に容姿へ触れるのは失礼かもしれない』
さらに。
『最近読んでいる本はどうだ』
その下。
『読んでいなかったら会話終了』
……。
「難しく考えていらっしゃいますね」
私はそっと紙を机へ戻しました。
嫌っている婚約者について、ここまで調べるものなのでしょうか。
先ほどのあの魔力の乱れ。
……。
体調不良ではなさそうですね。
人族の恋愛というものは、なかなか難しいようです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の午後。
今度は、公爵令嬢様のお部屋へ臨時で掃除の手伝いに入ることになりました。
公爵令嬢様は王城へいらっしゃる際、決まって使用されるお部屋があります。
今日もご本人は王妃様とのお茶会へ出席されていました。
「エナメルさん」
若い侍女がため息をつきました。
「はい?」
「お嬢様、最近お元気がないんです」
「まあ」
「第二王子殿下のことで」
やはり。
「最近、殿下が全然お会いにならないんです」
「そうなのですね」
「お嬢様は嫌われたと思っていて」
侍女は小声になります。
「しかも、殿下は伯爵令嬢様と最近ずっと一緒なんですよ」
「あら」
「幼なじみだからといって、絶対おかしいですよね?」
「どうでしょう」
「エナメルさん、冷たいですわね!」
そう言われましても、まだ何も分かりません。
私は机を整えます。
するとこちらにも。
紙。
また。
紙。
人族は恋をすると紙に書くのでしょうか。
今度は公爵令嬢様の文字。
『第二王子殿下のお好きなもの』
……。
私は嫌な予感がしました。
『好きな料理――仔羊の香草焼き』
『好きな色――濃紺』
『好きな馬――黒毛』
『苦手――甘すぎる菓子』
『最近興味を持っているもの――南方諸国の灌漑技術』
さらに別の紙。
『次にお会いしたら何を話すか』
『領地経営について』
その下。
『堅苦しすぎる』
『先日の舞踏会について』
その下。
『他の女性の話になったら嫌』
『最近はいかがお過ごしですか』
その下。
『他人行儀』
……。
私はしばらく紙を見つめました。
「……」
侍女が不思議そうに聞きます。
「どうしました?」
「いえ」
私は紙を戻しました。
「少し不思議に思いまして」
「何をです?」
「お二人とも」
「はい?」
「お互いのことばかり考えていらっしゃるのに、なぜお話しにならないのでしょう」
「それができたら苦労しないんです!」
怒られました。
難しいですね、恋愛。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
王城内のウワサは、さらに大きくなっていました。
「第二王子殿下、昨日も伯爵令嬢様と一緒だったんですって!」
「やっぱり!」
「婚約破棄も近いんじゃない?」
「かわいそう、公爵令嬢様」
「でも政略婚なんでしょう?」
「だったら仕方ないんじゃない?」
私は廊下の花瓶を替えながら、その話を聞いておりました。
そんなとき、向こうから例の伯爵令嬢様が歩いてきました。
美しい方です。
華やかで明るい。
その隣には第二王子殿下。
「あ」
メイドたちがさっと黙ります。
第二王子殿下は難しい顔をしていました。
「だから、どうすればいいと思う?」
「殿下」
伯爵令嬢様が呆れた顔で言います。
「もう十回は申し上げました」
「だが」
「普通に話してください」
「それができない」
「なぜです!」
「嫌われたくない」
「……」
伯爵令嬢様が額を押さえました。
私は花瓶を持ったまま瞬きをします。
今、第二王子殿下の魔力がまた少し乱れました。
公爵令嬢様のお名前を口にしただけなのに、ずいぶん分かりやすい方ですね。
「では、まず挨拶から!」
「挨拶くらいできる」
「そのあとです!」
「……」
「殿下!」
なるほど、会話の練習だったのですね。
伯爵令嬢様が、ふと私たちメイドの視線に気づきました。
「あ」
「……」
「……」
しばらく沈黙。
伯爵令嬢様が口を開きました。
「違いますからね?」
誰も何も言っていません。
「私と殿下はそういう関係ではありませんから!」
誰も聞いていません。
「幼なじみとして、やむなく、婚約者様と話す練習に付き合っているだけです!」
第二王子殿下が青ざめました。
「お、おい!」
「だって、このままだと私が悪女にされます!」
「……」
なるほど、ウワサというのはこうして広がるのですね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夕方。
公爵令嬢様が一人で庭園にいらっしゃいました。
私は植木の周囲を掃除していました。
公爵令嬢様は長椅子に腰かけ、じっと地面を見ています。
「……」
泣いているようですね。
メイドとして、こういうときは声をかけるべきなのか少し迷います。
でも、泣いているお嬢様をそのままにしておくというのも、あまり気分のいいものではありません。
「公爵令嬢様」
「……え?」
顔を上げる。
「失礼いたします」
「あなたは?」
「エナメルと申します。こちらでメイドをしております」
「そう」
公爵令嬢様は慌てて目元を拭いました。
「何か御用?」
「いいえ」
私は少し考えて。
「ハンカチをどうぞ」
「……ありがとう」
差し出す。
しばらく公爵令嬢様は何も言いませんでした。
やがて、ぽつり。
「ねえ」
「はい」
「あなたも聞いているでしょう?」
「何をでしょう?」
「殿下と、伯爵令嬢のウワサ」
「まあ」
「……やっぱり聞いているのね」
失敗しました。
「私」
公爵令嬢様は小さく笑いました。
「嫌われているのだと思うわ」
「そうでしょうか?」
「だって」
「……」
「会ってくださらないのよ」
「……」
「以前はもっと話してくださった。でも最近は、私を見ると逃げるみたいにどこかへ行ってしまう」
なるほど。
「だから」
令嬢は拳を握りました。
「きっと、私との婚約が嫌なのよ」
その瞬間、公爵令嬢様の魔力も少しだけ乱れました。
魔力の流れ方が、先日の第二王子殿下とよく似ています。
「……」
「伯爵令嬢様は美しいし、明るいし、話も上手」
さらに魔力の流れが少し強くなる。
「私は、堅苦しい女だから」
「そうなのですか?」
「そうよ」
どうやらお二人とも、似たようなところで魔力が乱れるようです。
病気ではなさそうですね。
「でも」
私は少し考えます。
メイドとして主人の秘密を他人へ漏らす。
これは良くありません。
ですが、これは秘密なのでしょうか。
紙に書いてあっただけですし。
……いけませんね。
それも秘密です。
「何?」
「いえ」
「変な人ね」
「よく言われます」
私は庭園の白百合を見ました。
そういえば、公爵令嬢様は白百合がお好きでしたね。
第二王子殿下の紙にそう書いてありました。
「公爵令嬢様」
「何?」
「白百合はお好きですか?」
「え?」
「いえ。綺麗に咲いておりますので」
令嬢が白百合を見ます。
「……普通かしら」
「普通、ですか?」
「ええ。でもね」
公爵令嬢様が少しだけ懐かしそうに笑いました。
「昔、殿下が私に言ってくださったことがあるの」
「何をでしょう?」
「白百合みたいだって」
「まあ」
その瞬間また、公爵令嬢様の魔力がほんの少し柔らかく揺れました。
「だから」
令嬢は白百合へ手を伸ばしました。
「それ以来、気にするようになったの」
「そうですか」
私は庭師の方へお願いして、白百合を一本だけ摘んでいただきました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
第二王子殿下のお部屋。
私は花瓶へ白百合を飾りました。
「……」
ちょうど第二王子殿下が戻ってきます。
「その花」
「はい?」
「なぜ白百合を?」
「綺麗でしたので」
「……そうか」
殿下はじっと白百合を見つめています。
魔力の流れも少しだけ変わりました。
「公爵令嬢様、白百合は普通だそうですよ」
「なっ!?」
殿下がものすごい勢いでこちらを見ました。
そして魔力の流れが一気に乱れます。
……。
分かりやすいですね。
「ですが」
「……」
「以前、殿下から『白百合に似ている』と言われたので、それ以来気になる花になったそうです」
「……」
殿下が固まりました。
「なぜ知っている!」
「昨日、ご本人から伺いました」
「そ、そうなのか」
「はい」
「……」
「……」
殿下はしばらく白百合を見つめていました。
「覚えていたのか」
小さな声。
「何をでしょう?」
「いや」
殿下は少しだけ笑いました。
「何でもない」
魔力の流れが少しだけ落ち着きました。
そしてすぐ、こちらを見ます。
「他に何か言っていたか?」
「秘密です」
「なぜだ!」
「メイドですので」
「くっ……!」
私は部屋を出ました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今度は公爵令嬢様のお部屋。
机の上に一冊の本を置きます。
北方諸国紀行。
「エナメル」
侍女が不思議そうに見ています。
「それ、どうしたの?」
「図書室で見つけました」
「お嬢様、好きそうね」
「そうですね」
ちょうど公爵令嬢様が戻ってきました。
「あら?」
本へ目を留めます。
「北方諸国紀行……」
「お好きでしょうか?」
「ええ」
公爵令嬢様は嬉しそうに本を手に取ります。
「これ、殿下も読んでいらしたのよ」
「まあ」
「以前、一度だけ話したの。面白いって」
「そうでしたか」
「……」
公爵令嬢様は本を抱きしめました。
「今でも、覚えていらっしゃるかしら」
「どうでしょう」
また少しだけ魔力が乱れました。
どうやら第二王子殿下のお話をすると、毎回こうなるようですね。
私は少しだけ笑いました。
「お話しになってみてはいかがですか?」
「それができたら苦労しないの!」
また言われました。
恋愛、本当に難しい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
舞踏会が開かれました。
私は壁際で、飲み物の補充係です。
第二王子殿下。
公爵令嬢様。
二人ともいらっしゃいます。
しかし離れている。
第二王子殿下は公爵令嬢様を見ている。
公爵令嬢様も第二王子殿下を見ている。
でも目が合うと、二人ともそらす。
そしてそのたび、二人の魔力がほんの少し乱れる。
「……」
なるほど、ここまで来ると私にもなんとなく分かってきました。
私は近くのメイドへ聞きました。
「あのお二人は何をしていらっしゃるのでしょう?」
「エナメルさん!」
怒られました。
そのとき、伯爵令嬢様が第二王子殿下の背中を。
どんっ。
押しました。
「行ってください!」
「わっ!」
殿下が前へ出る。
ちょうど公爵令嬢様の前。
「あ」
「あ……」
二人。
固まる。
「……」
「……」
長い。
非常に長い。
二人の魔力も非常に落ち着きません。
伯爵令嬢様が遠くから殿下を睨んでいます。
頑張ってくださいませ。
やがて第二王子殿下が口を開きました。
「し、白百合」
「え?」
「以前、君に似ていると言ったことがあっただろう」
公爵令嬢様が目を見開きました。
「……覚えていてくださったのですか?」
「忘れるわけがない」
「……」
「俺は」
殿下が言葉を詰まらせます。
公爵令嬢様もじっと殿下を見ています。
「俺は、白百合が好きなわけじゃない」
「え?」
「白百合を見ると」
「……」
「君を思い出すんだ」
公爵令嬢様の顔が赤くなりました。
魔力も今までで一番大きく乱れました。
あら。
第二王子殿下も同じです。
やればできるではありませんか。
「俺は」
殿下が拳を握ります。
「君が好きだ」
「……」
「ずっと」
「……」
「ずっと、好きだった」
公爵令嬢様が目を伏せました。
「私」
「……」
「嫌われているのだと思っていました」
「なぜ!?」
「だって、避けていらしたでしょう!」
「嫌われたくなかったんだ!」
「意味が分かりません!」
まったくです。
「話して失敗するくらいなら、何も言わない方がいいと思ったんだ!」
「それで私がどれだけ悩んだと思っているのです!」
「すまない!」
「伯爵令嬢様とは!?」
「会話の練習を!」
「……」
公爵令嬢様が伯爵令嬢様を見る。
伯爵令嬢様は、ものすごく疲れた顔で頷きました。
「本当です」
「……」
「私はこの数か月、延々と恋愛相談を聞かされていただけです」
「申し訳ない」
「本当に申し訳ないと思ってください」
伯爵令嬢様がそこで公爵令嬢様を見ました。
「ちなみに」
「はい?」
「私がこの数か月で一番多く聞いた女性の名前が誰か、ご存じです?」
「え?」
伯爵令嬢様が公爵令嬢様を指差しました。
「あなたです」
「……」
「朝から晩まで、あなたの話ばかりでした!」
「お、おい!」
「事実でしょう!」
「……」
第二王子殿下が黙りました。
公爵令嬢様の顔がさらに真っ赤になります。
「私だって……」
「え?」
公爵令嬢様が小さく言いました。
「私だって」
「……」
「ずっと殿下のことばかり考えていました」
第二王子殿下が固まりました。
「だから」
公爵令嬢様は少しだけ睨むように殿下を見ます。
「伯爵令嬢様とのウワサが、あんなに嫌だったのです」
「……」
「私も」
「……」
「殿下が好きです」
まあ、やっぱり、お互いのことしか考えていなかったのですね。
その瞬間、二人の魔力がまた大きく揺れました。
でも不思議なことに、少しすると今までよりもずっと穏やかな流れに戻っていきます。
なるほど。
やはり病気ではなかったようですね。
第二王子殿下はしばらく呆然としていました。
それから公爵令嬢様へ手を差し出しました。
「その」
「……」
「踊ってもらえるか?」
公爵令嬢様は少しだけ迷いました。
そして、その手を取ります。
「はい」
二人が踊り始めました。
周囲から歓声。
私は飲み物を補充しながら、それを眺めました。
「良かったですね」
隣のメイドが言います。
「そうですね」
「エナメルさん、嬉しくないんですか?」
「嬉しいですよ?」
「全然そう見えない」
失礼な。
とても嬉しく思っております。
ただ一つだけ疑問があります。
「何です?」
「最初から、お話しになればよかったのでは?」
「だから、それができないのが恋愛なんです!」
また怒られました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
第二王子殿下と公爵令嬢様は、以前よりずっと頻繁に会うようになりました。
王城のウワサも、いつの間にか。
「婚約破棄寸前」
から。
「第二王子殿下、公爵令嬢様に夢中」
へ変わっていました。
ウワサというものは本当にいい加減ですね。
私は今日も廊下を掃除します。
「エナメル!」
「あら」
第二王子殿下です。
「この間は……その」
「はい?」
「ありがとう」
「何のことでしょう?」
「……もういい」
殿下はどこかへ行ってしまいました。
その直後、公爵令嬢様がやってきます。
「エナメル」
「はい?」
「ありがとう」
「まあ」
「あなたのおかげよ」
「何もしておりませんよ?」
本当に何もしておりません。
花を飾って、本を置いただけ。
あとはお二人がご自身で話しただけです。
「エナメル」
「はい?」
「恋人はいないの?」
「……」
私はしばらく考えました。
「おりませんね」
「好きな人は?」
「特には」
「恋愛したくないの?」
「そうですねえ」
私は手にした箒を見ます。
掃除。
洗濯。
料理。
お茶。
主人のお世話。
忙しいものです。
「今のところ」
私は笑いました。
「メイドのお仕事の方が楽しいですね」
「エナメルらしいわ」
そうでしょうか。
まあ、恋というものは私にはまだよく分かりません。
でも今回、一つだけ分かったことがあります。
好きな方を目の前にすると、人の魔力というものは少しだけ乱れるようです。
もちろん、それだけで恋をしていると決めつけることはできません。
緊張。
驚き。
恐怖。
体調。
魔力が乱れる理由はいくらでもあります。
ですから、魔力だけを見ても恋愛のことなど私には分かりません。
でも。
好きな方同士が互いを見て、同じように魔力を乱し、最後には笑っている。
それを見るのは悪くありませんね。
私は今日も静かに王城の廊下を掃除します。
だって私は。
メイドですから。




