VOICE
【VOICE】
辺境の小さな村は、どこか湿った空気に包まれていた。
旅の少年、フェイは食堂を出たばかりだった。
味の悪い食事だった。
「……最悪だな」
そう呟いて建物の外壁にもたれた。
そのときだった。
遠くの大通りの方から騒めきが広がる。
「治療師様だ!」
「聖女様が!」
フェイは興味を引かれて近づいた。人だかりの中心に、一人の少女が立っていた。
白いローブを羽織り、美しい銀髪を風になびかせている。透き通るような白い肌と、寂しげな瞳。フェイは見たところ自分と同じぐらいの年代‐‐15歳ぐらいほどと感じた。
「さあ、セリ様。こちらです。」
セリと呼ばれた少女は、喉を押さえて苦しむ老人の前に跪き、そっと手を重ねた。
「……あ……声が……!」
老人が驚きの声を上げ、周囲から歓声が上がる。「流石です!」
「マーメイドを一瞬で治すなんて……!」
フェイは近くの村人に聞いた。
「マーメイド?」
「声を失う奇病さ。感染者は徐々に声が掠れ、最後には永遠に喋れなくなる。治療法はひとつ。 治療師様と呼ばれる女性だ。
治療師様は病を自分の身に引き受けて治すんだ。その代わり……ほら、見ろよ」
感謝の言葉を伝える老人と対照的にセリは手に持ったノートに何かを書いている。筆談のようだ。
「治療師様はマーメイドを吸収していって喋れないんだ。病気を吸収する度に寿命が縮まるらしい。」
フェイは興味を抱きながらセリを見つめていた。その時、興奮した村人たちによりフェイの視界が一瞬揺れた。
押し寄せた人波に足を取られてそのまま前へと倒れ込む。
「うおっ……!」
制止する間もなく、体が人の壁を突き抜けるように押し出された。
その先にいたのは、白いローブの少女だった。
フェイの手はとっさに空を掴み──
次の瞬間、柔らかな感触に触れた。
時間が止まる。
左手は彼女の手に、右手は胸に触れていた。
フェイは硬直した。
少女もまた、完全に動きを止めている。
「…………」
沈黙。
一拍遅れて、少女の顔が一気に赤くなる。
「きゃあっ……!」
澄んだ、鈴のような声が辺りに響いた。
その瞬間、空気が変わった。
周囲の村人が一斉に息を呑む。
「……今の声……」
「治療師様、声出てるぞ……?」
少女自身も、自分の喉に手を当てて固まっていた。
そして次の瞬間、声はふっと途切れる。
静寂。
まるで最初から何も起きていなかったかのように、音だけが消えた。
フェイは慌てて手を離した。
「……なんだ、今の」
少女はゆっくりとこちらを見る。
恐る恐る、もう一度、フェイの手に触れた。
その瞬間。
「……っ」
小さな声が、再び漏れた。
掠れた、しかし確かに『声』だった。
少女の目が大きく見開かれる。
「……聞こえますか……?」
フェイは思わず顔をしかめる。
「聞こえてる」
言った瞬間、少女はハッとしたように口元を押さえた。
また声が出る。
周囲がざわめき始める。
「なんだ今の……」
「触れた瞬間だけ声が……?」
少女は混乱したようにフェイを見つめていた。
フェイは舌打ちする。
「……厄介なことになったな」
その言葉とは裏腹に、彼の目は少女から離れていなかった。
宿屋の一室で、神官と医師たちが興奮していた。
「重要な発見です! フェイ殿と肌が直接触れている間だけ、セリ様は声を出せます。服越しでは無効。指一本でも直接触れれば誰でも効果があります。ただし……フェイ殿が他のマーメイド患者に触れても何も起こりません。セリ様と触れている時だけ、特別に効果があるようです」
「これはマーメイド根絶に繋がるかもしれません。王都の研究所で詳しく調べたい。二人で来てほしい」
フェイは即座に首を横に振った。
「王都は嫌だ。断る」
セリがノートに文字を走らせる。
『お願いします』
震える文字。
彼女がそっとフェイの手に触れる。
「……声が出るの、嬉しいんです。
もっと、誰かと話してみたい……」
その姿を見てフェイはため息をついた。
「……わかった。数日だけだ」
セリが嬉しそうに微笑んでから告げた。
「ありがとうございます!えっと、ここから少し離れた港町で翌朝の船で一緒にお願いします!」
二人は旅立ちを決意して村を後にする。
セリは名残惜しそうに村を振り返る。
治療を終えた後も、村人たちは何度も頭を下げていた。
『ありがとうございます』
『どうか、お元気で』
その感謝の言葉に、 セリは何度も頭を下げ返していた。
村を離れ、人気の少ない街道に出る。
そこで初めて、 彼女は少し肩の力を抜いた。
「……なんだか、不思議です」
「何がだ」
「治療師としてじゃなくて……旅をしてるみたいで」
フェイは鼻を鳴らした。
「実際そうだろ」
やがて港町へとたどり着いた。
港町の市場通りは、夕暮れ前の賑わいに包まれていた。
潮風に混じって焼き魚の匂いが漂い、露店商たちの呼び声が飛び交う。フェイは明らかにうんざりした様子で人混みを歩きながら隣の少女をちらりと見た。
白い治療師のローブ姿のままでは、やはり目立ちすぎる。
「……その格好は目立つな。着替えた方がいい。この町なら服屋はあるだろ」
セリは少し困ったようにフェイの袖を摘んだ。
「でも……こういう服、あまり着たことなくて……」
「普通の旅人に見えりゃなんでもいい」
そう言いながら、服屋を見つけてフェイたちは服屋の暖簾をくぐった。
店内には色とりどりの服が並び、年配の女店主が目を輝かせる。
「あらまあ、可愛いお嬢ちゃん! 彼氏さんとお買い物かい?」
「違う」
フェイは即答した。
その横で、セリがほんの少しだけ頬を膨らませる。
女店主は面白そうに笑いながら、何着か服を取り出した。
「この辺りが似合いそうだねえ。どうだい?」
セリはフェイの手にそっと触れた。
肌が触れ合った瞬間、小さな声が零れる。
「……どうでしょうか」
「俺に聞くな」
「フェイさんが選んでください」
「はぁ?」
困ったように頭を掻きながらも、フェイは服を眺めた。
その中で目に留まったのはピンクのワンピースだった。
肩口が少し開き、袖は短め。動きやすそうで、どこか涼しげな印象がある。
フェイはそれを指差した。
「……それでいいだろ」
店主がニヤリと笑う。
「おやおや、ちゃんと見てるじゃないか。肩が見える服なんて男の子は好きだもんねえ」
「違うよ」
フェイは眉をひそめた。
「少しでも肌が触れやすい方が都合いいだろ」
一瞬、店内が静まり返る。
セリの顔がみるみる赤くなった。
「あっ……でも触れやすいって……!」
「だから変な意味じゃねえ!」
女店主は肩を震わせながら笑っていた。
セリは恥ずかしそうに俯きながら試着室へ入っていった。
暫くして布の擦れる音と共にカーテンが開く。
「……どう、でしょうか」
フェイはドキっとしながら言葉を失った。
ピンクのワンピースは、セリの白い肌によく映えていた。
華奢な肩が少しだけ覗き、細い鎖骨が夕陽に照らされている。治療師のローブに隠れていた少女らしさが、急に現実味を帯びて目の前に現れたようだった。
セリは不安そうに胸元を押さえる。
「やっぱり……変ですか?」
フェイは慌てて視線を逸らした。
「……いや」
「?」
「似合ってる」
その一言だけで、セリの瞳がぱっと明るくなった。
「……ありがとうございます」
女店主が微笑ましそうに頬杖をつく。
「青春だねえ」
フェイは聞こえないふりをした。
店を出た後も、セリはどこか嬉しそうだった。
市場を歩きながら、彼女は露店を興味深そうに見回している。
「……すごい。こんなにたくさん、人が喋ってる」
ぽつりと漏れた声。
フェイは少しだけ足を緩めた。
「……フェイさんとこうして歩くと、なんだか嬉しいです」
セリの声が照れくさそうに響く。フェイの胸が少しざわついた。夕方、路地で休憩しているとセリが小さく笑った
「そんな珍しいか」
「はい。マーメイドに感染してから、ずっと……人と話すのを避けていたので」
セリは少し寂しそうに笑う。
「声がなければ、相手に気を使わせてしまう。それが一番つらかった。」
フェイは何も言わなかった。
代わりに、繋いでいた手を少しだけ強く握る。
セリが驚いたように彼を見る。
「……迷子になるぞ」
ぶっきらぼうな声。
けれどその言葉が妙に嬉しくて、セリは小さく笑った。
その後も二人は市場を歩き回った。
果物の試食などをしてセリはその度に楽しそうに感想を口にした。
「騒ぎすぎだ」
「だって美味しいです」
その笑顔を見る度に、フェイの胸は妙にざわつく。
面倒だと思うのに目が離せなかった。
手を繋いでいる時にセリは笑顔を多く見せた。治療師の使命を負いながらも同年代の少女と変わらないのだとフェイは実感した。
日はみるみるうちに沈み二人は宿へ着いた。
港町の夜は思った以上に静かだった。
部屋でセリが小さく頭を下げる。
「……今日は、ありがとうございました」
「別に」
「服も……嬉しかったです」
フェイは返事の代わりに軽く手を振った。
「先に寝ろ。俺は少し外に出る。すぐ戻るから待っていろよ。」
「え……?」
「港町の空気が嫌いじゃねえんだよ」
半分は嘘だった。
本当は、頭を冷やしたかった。
セリといると調子が狂う。
笑顔を見るだけで胸がざわつき声を聞くだけで妙に落ち着かなくなる。
そんな感覚は久しくなかった。
部屋に残されたセリは、静けさに包まれていた。
最初は落ち着かなかったが、やがて思い直した。
(せめて……少しでもフェイさんの役に立ちたい)
彼はいつも疲れた表情を浮かべている。自分にできることは限られている。それでも――
セリはそっと立ち上がり、宿を抜け出した。
井戸のある通りは人通りが少なかった。
水瓶を抱えてセリは慎重に歩く。
月明かりが石畳を白く照らしている。
(…これで、少しは役に立てるかも)
セリが心で呟いたその瞬間だった。複数の足音が近づきセリは振り返る。
路地の影から男たちがゆっくりと近づいてきた。
「……へえ、こんな時間に可愛い子が一人か」
「しかも随分と肩を出した服じゃねえか。俺たちを誘ってんのか?」
セリは一歩後ずさる。
喉が締まる。声が出ない。
男の一人がニヤリと笑った。
「おい、この女……喋れねえみたいだぞ」
その言葉で空気が一変した。
「マジかよ。声出せねえなら、どんなに泣いても大丈夫じゃねえか」
セリは水瓶を落とし、逃げようとした。
しかし腕を強く掴まれる。
「っ……!」
男が乱暴に引き寄せた拍子に、ワンピースの左肩と袖が裂けた。
布が裂ける音が、静かな路地に響く。
白い肩が露わになり、夜風が冷たく触れた。
セリは必死に抵抗するが、力の差は圧倒的だった。
(フェイさん……!)
叫びたいのに、声にならない。
路地からいつの間にか音が消えていた。
自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
――ああ、私は今、助からない側にいる。
男たちの笑い声だけが大きくなる。
その時だった。
「そこまでだ」
冷たい声が路地を切り裂いた。
次の瞬間、影が疾走する。
男の一人が吹き飛び、壁に叩きつけられた。フェイだった。
「誰に手を出してんだ」
低い、怒りに満ちた声。
男たちが一瞬怯んだ隙に、フェイはセリを強く抱き寄せた。
震える彼女の体を庇うように。セリはフェイのシャツを必死に掴んだ。
買ってもらったばかりのワンピースが、肩から袖にかけて大きく裂け、泥で汚れている。
申し訳なさで胸がいっぱいになった。
(せっかく……フェイさんが選んでくれたのに……)フェイは一瞬、セリの肩の傷と破れた服を見て眉を寄せた。
それから、静かに言った。
「セリ、離れていろ」
戦いはあっという間だった。
暗闇に鈍い音が響き、男たちは次々と倒れていく。静寂が戻った後、セリはその場に膝をついた。
肩を震わせ、両手で破れた肩口を必死に押さえている。
フェイは無言で自分の上着を脱ぎ、セリの肩に掛けた。
乱暴に、けれど確かな手つきで。
「……立てるか」
セリは小さく頷いたが、足に力が入らない。
フェイは舌打ちすると、彼女の腕を取って立たせた。
宿までの道中、フェイの歩幅はいつもより明らかに遅かった。部屋に戻ると、セリはようやく声を絞り出した。
「……ごめんなさい」
掠れた、小さな声。
「服……買ってもらったばかりなのに……」
フェイは振り返り、静かに言った。
「バーカ」
セリの肩がびくりと震える。
「服も水も、そんなものはどうだっていい。お前が傷つくことだけは、絶対に嫌だ」
その言葉にセリの目から涙が溢れた。
フェイは重い声で告げた。
「勝手に出るな。二度とだ」
セリは震えながらも、小さく頷いた。
フェイはため息をつき、そっと付け加える。
「……服は、また買ってやる」
セリはフェイの袖をそっと掴んだ。
離したくない。
今だけは絶対に。
フェイの背中を見ながら、セリは静かに涙を流した。
(怒られているのに、どうして……こんなに安心するんだろう)
フェイは一瞬だけ止まったが、振り払わなかった。
「……寝ろって言っただろ」
ぶっきらぼうな声。
それでも、少しだけ近くにいる。
セリは小さく笑った。
声にならないまま。
迎えた朝。同じ服を買い直して船に乗りこむ。
港を離れたのは、まだ朝の薄い光が海面に残っている時間だった。
帆船はゆっくりと岸を離れて港町が小さくなっていく。
セリは甲板の手すりに寄りかかりながら、その景色をじっと見ていた。
フェイはその隣で腕を組んでいる。
「……落ちるなよ」
「子供じゃありません」
そう言いながらもセリは自然とフェイの袖を掴んでいた。
船が波を越えるたびに、わずかに体が揺れる。
フェイの顔色が徐々に悪くなっていった。
次の瞬間、船が大きく揺れた。
「っ……」
フェイは手すりを掴み、数歩よろめく。
そしてそのまま甲板の隅で膝をついた。
「見るな……」
直後にフェイは海へ向かって吐いた。
セリは慌てて駆け寄るが触れれば声が出るため距離を取るしかない。
ただ背中を見守ることしかできなかった。
やがてフェイは乱暴に口を拭う。
「……最悪だ」
「大丈夫ですか?」
「……船は嫌いだ」
夕焼けが海面に映える頃。
フェイが甲板に戻ると、セリは海を見ていた。
「……何してる」
「少し、昔のことを思い出していました」
フェイは隣に座る。
セリは少しだけ間を置いてから、ぽつりと話し始めた。
「治療師になる前、私は普通の子でした。でも、声を失う病が広がって……私しか治せないと言われました」
海風が二人の間を通る。
「最初は怖かったです。でも誰かが助かるたびに声が出せなくなって……私じゃなきゃと思うようになって……完全に喋れなくなったのは10歳ぐらいの時でした。」
セリは小さく笑った。
「気づいたら自分の人生じゃなくなっていました」
フェイはしばらく黙っていた。
そして小さく呟く。
「……似てるな」
セリが顔を上げる。
「俺も何か……逃げてたんだよ。王都からも、家からも。全部」
「え?フェイさんも?」
セリが疑問を感じながら海が静かに揺れる。
「色々とな。投げ出したつもりだった」
フェイは空を見たまま続けた。
「お前だけじゃねえよ。そういうのは」
セリは少しだけ安心したように笑った。
夜中になった頃。船室は一部屋しか空いていなかった。
船長は悪びれもせず言う。
「部屋は一つにまとめてあります」
「はぁ!?」
フェイの声が響く。セリが船長の代わりに語る。
「あの……本来の予定は私が村で治療を終えてから私一人分しか部屋がなくて……それでフェイさんは予定外でしたから……」
だが結局、二人は同じ部屋に通された。
ベッドは一つ。
しかもそれなりに狭い。
沈黙。
セリは真っ赤になりながら俯く。
「……どうするんだよこれ」
フェイが頭を掻く。
「私は……端で大丈夫です」
「そういう問題じゃねえだろ」
気まずい空気のまま、ランプが消される。
暗闇。
波音だけが響く。
やがてセリがノートに書き出した。
『フェイさん、触れていてもいいですか』
少しの沈黙の後はフェイは舌打ちする。
「勝手にしろ」
セリの指がそっとフェイの袖を掴む。
その瞬間、静かな声が戻る。
「……ありがとうございます」
いつもより近い距離。
ベッドの中で互いの体温だけがはっきりと感じられる。
フェイは天井を見つめたまま呟く。
「……変な一日だな」
セリは小さく笑った。
「でも……嫌いじゃないです」
波音が遠くで続いていた。
朝焼けが船を照らす頃。港の桟橋に降り立った瞬間、王都の大きさにセリは息を飲んだ。
白い石造りの建物が連なり、遠くに見える王城は雲を突くほど高い。街全体が朝の光を浴びて輝いている。
「……すごい」
掠れた声が、風に溶けた。セリは思わずフェイの袖を強く掴む。
フェイはいつものように「うるせえ」と小さく呟いたが、手を振り払わなかった。研究所は王城に隣接する白亜の建物だった。
中に入ると、白衣を着た研究者たちが二人を見て目を輝かせた。
「これが例の……!」
血液検査など二人は調べられ続けた。
「驚くべき結果です!」
主任研究者が興奮した声で報告した。
「フェイ殿の血液には、マーメイドを強く抑制する特殊成分があり解析すれば他の治療師たちも声を失わず病を癒せる可能性があります!」
セリは隣でフェイの手を握ったまま、静かに聞いていた。
指先が少し震えている。フェイはそれに気づき、軽く握り返した。実験室の個室で、二人はまた二人きりになった。
白いカーテンに囲まれたベッドの上。セリはフェイの手に自分の手を重ね、そっと囁く。
「……フェイさんの血が、みんなを助けられるんですね」
「ああ。俺はただの運が良かっただけだ」
「違うと思います。私にとっては……奇跡です」
フェイは視線を逸らした。
窓の外では、王都の夜景が広がっている。
遠くの塔の灯りが、星のように瞬いていた。
「……お前はどうしたい?」
フェイが突然聞いた。
「治療師として、ここに残るのか?」
セリは少し迷ってから、小さく首を振った。
「まだ、わかりません。でも……少なくとも、もう少しフェイさんの声が聞いていたいです」
その夜、二人は研究所の宿泊室で隣り合って寝た。
狭いベッド。触れ合っている左手だけが、セリの声をつないでいる。
暗闇の中で、セリはぽつりと呟いた。
「……王都、怖くないですか?」
「怖いさ。昔、逃げ出した場所だからな」
フェイの声は低かった。
「ここにいると、息が詰まる。箱の中に閉じ込められたみたいで……ただ自由に生きたかった」
セリは彼の手に頰を寄せた。
温かい。
「私も……治療師じゃなく、ただの女の子でいたかった時期があります。でも今は、少し違うかも」
「どう違う?」
「フェイさんと出会ってから……自分の声で、誰かと話したいって、ちゃんと思えるようになりました」
フェイは何も言わなかった。
ただ繋いだ手に少しだけ力を込めた。
翌朝、研究所の廊下に重厚な足音が響いた。
銀の鎧を着た騎士団が、整然と並んで立っている。
その中心に厳しい顔つきの騎士団長がいた。
「第二王子フェルグラント・ヴァリガル殿下……!
ようやくお戻りになられましたか」
セリが目を見開いた。
「え?」
フェイはため息をつき、苦々しく笑った。
「バレたか」
彼はセリの方を向き、肩をすくめた。
「家出王子だよ。面倒事から逃げて旅人ぶってただけだ。俺の顔知っているやつなんて王宮関係者ぐらいだろうけどな」
セリは呆然とフェイを見つめた。
銀髪の少女の瞳が、驚きと悲しみで揺れる。
「……王子様、だったんですか」
騎士団長が一歩前に出た。
「殿下、まず情報伏せていた無礼をお許しください。しかし世界は現在マーメイドの蔓延で混乱しています。
あなたの血が鍵になるという報告を受け国王陛下もお待ちです。どうかお戻りください」
フェイはセリを見た。
彼女はまだ彼の手を離していない。
離せば、声が消えてしまう。
「……少しだけ、時間をくれ」
フェイは騎士たちにそう告げ、セリを連れて研究所の屋上テラスへ向かった。朝の風が強く吹いている。
白い王都が、二人の足元に広がっていた。
「ごめんな。隠してた」
フェイが先に口を開いた。
「言ったら、お前が気を遣うと思って……」
セリは首を横に振った。
涙がにじんでいる。
「……いいんです。フェイさんは、フェイさんです」
彼女は小さな声で精一杯続けた。
「でも……少し、寂しいです。
また遠いところに行かれるんですね」
フェイはセリの肩に掛けた自分の上着を、そっと直した。
破れた服はすでに新しいものに替わっていたが、彼はまだ気にかけているようだった。
「お前はここに残れ。王都なら治療師としても研究者としても守ってもらえる。
寿命を縮めながら村を回るよりはよっぽどいい」
セリは唇を噛んだ。
「……フェイさんは?」
「俺は……箱に戻るだけだ」
二人の間を風が通り過ぎる。
セリは震える指でフェイの手に触れ続けた。
「……また会えますか?」
小さな、消え入りそうな声。
「声が出るようになっても……フェイさんの名前をちゃんと呼んでみたい」
フェイは空を見上げ、目を細めた。
胸の奥が、熱く疼いた。
「さあな。でも……お前が呼べば、来る」
彼はセリの額に、軽く指を当てた。
「声なんかなくても、お前の笑顔は分かるようになったから」
手が離れる。
ゆっくりと、フェイの指がセリの指から滑り落ちた。瞬間、セリの喉から声が消えた。
彼女は唇を動かした。
『ありがとう』
フェイはそれを読んだ。
小さく頷き背を向ける。騎士団に囲まれながら、王都の奥へと歩いていくフェイの背中を、
セリは屋上からじっと見つめ続けた。
風が銀髪を揺らす。
セリは胸の前で両手を握り、静かに誓った。
(私は……もっと強くなりたい。治療師として。
そして……また、フェイさんに会える自分になりたい)
数日後。王宮の第二王子執務室。
フェイは机に突っ伏すようにして書類の山を睨んでいた。
家出していた間に溜まった数々の書類……どれもこれも息が詰まる。
「殿下、お手紙が届いております」
側近の若い騎士が銀の盆に載せた一通の手紙を差し出した。
封蝋には研究所の刻印と差出人にセリの名前。フェイは一瞬眉を寄せたが手紙を受け取ると側近を下がらせた。
封を切ると中身は綺麗ながら少し震えたような字が並んでいた。
フェイさんへ。
無事に王宮に戻られたでしょうか。
私は今も研究所にいます。毎日フェイさんの血を少しずつ調べるお手伝いをしています。
研究者の方々がとても熱心でたくさんのことを教えてくれます。
声を失わずに病を治せる方法が本当に見つかるかもしれません。でも、夜になると少しだけ寂しくなります。
声が出ない静かな部屋で、フェイさんの声を思い出しています。
ぶっきらぼうなのに、いつも私のことを守ってくれた声。
手を握ってくれた時の温かさも忘れられません。
王子様のお仕事は大変だと思います。
でもフェイさんはフェイさんのままです。
私が出会った旅の少年のままだと思っています。もし疲れた時や息が詰まった時はいつでも呼んでください。
声が出なくても、私はきっと感じ取れます。
だって私達は不思議な力で繋がっているのですから。
また会える日を、楽しみにしています。
新しい服も、いつか一緒に選びたいです。
セリより
フェイは手紙を何度も読み返した。
最後の方で、口元がわずかに緩む。
フェイは屋上で別れた時のセリの笑顔を思い出していた。
フェイは手紙を丁寧に折り畳み胸の内ポケットにしまった。
窓の外に広がる白い王都の空を眺めながら初めてこの部屋で小さく微笑んだ。
「また会おうぜ。今度は声なんかなくても、お前の笑顔が見たい。」
白い王都の空に朝日が昇っていく。
セリの瞳にまだ微かな虹色の光が残っていたようにフェイの胸にも温かな光が灯っていた。
完




