『物語のそばに、紅茶を添えて。』より『紅茶のおまじない』
文学フリマ東京42頒布作品
『物語のそばに、紅茶を添えて』より『紅茶のおまじない』を投稿します。
作品の詳細や。お品書きは“あとがき”にて!
※この作品は推敲途中のものであり、実際の頒布物とは異なる場合があります。
とある中華料理店。男性がラーメンを啜りながら、店内に設置されたテレビでお昼のニュースを眺めている。
本日未明、●●●川の河川敷で、身元不明、四、五十代の女性と思われる死体が見つかり――
目隠しのビニールシート、多くのパトカーと職務に当たる警察官。異常な光景を画面越しに見た男性は、一言。
「物騒だな~」と呟いた。
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1
ゆめちゃんの一日は、一杯のお紅茶から始まります。
小学校に行く前に、少し早起きをしたゆめちゃんは、ティーポット一杯ともう少しだけのお湯を沸かしました。本当は、ティーポットを温める所からこだわりたかったのですが、そんなにお時間もないですし、簡単に。お湯を沸かしている間に、戸棚からティーバッグを取り出します。ゆめちゃんの大好きなシリルティーファクトリーの蜂蜜紅茶です。
『ピーーーーーーーーーー』
紅茶を淹れる準備を進めていると、笛吹きケトルが大きな音を立てました。慌てて火を止めるゆめちゃん。あんまりにも騒がしいと、お母さんを起こしてしまうかもしれません。お母さんは夜遅くまでお仕事をしていますから、朝早くに起こしてしまうのは可哀想です。それなら、口を開けておけばいいって? そんなことして、沸いたのに気がつかなかったら、ガス代がもったいなくて仕方がないではありませんか。
ゆめちゃんはどきどきしながら、お湯をティーポットに注ぎます。ぷか~っと浮かぶティーバッグ。ゆっくりじわじわとお湯を吸い込んで、お花みたいに茶葉が膨らみます。とたんに、ふわっと広がる蜂蜜の香り。心が解けるような幸福感に、ゆめちゃんはにっこり笑顔になりました。ですが、じんわりとお湯が紅茶色に染まっていくのをいつまでもゆっくり眺めていられるほど、朝の時間は長くありません。お顔も洗わなくてはいけませんし、お着替えもしなくてはいけません。バタバタと洗面所に駆けていくと、バシャバシャお顔を洗って、歯を磨いて、髪を梳かします。パジャマを洗濯機の脇に畳んで置いたら、制服に袖を通してプリーツスカートを穿いて。可憐な小学三年生のできあがりです。制服もだいぶくたびれてきていますが、体に馴染んできたようで、むしろ着心地がよくなった気がします。最後にもう一度、洗面所で髪を梳かしたら、にっこり笑って「よしっ」。
ついに紅茶を飲む時間です。ティーポットからティーカップ……はないので、マグカップへ、そっと注ぎながら、立ち上る香りを愉しみます。
「蜂蜜のあま~い香りと、芳ばしい紅茶の香りが溶け合って、全身を満たしてくれるみたい」
なんていう台詞は、いつか読んだ本に出てきたお気に入りの一節です。恐る恐るちょっと口をつけてみました。お口の中に入ってきた紅茶が熱くて、つい「アチッ」と声を漏らすゆめちゃん。でも、彼女は〝ゆうがなれでぃ”だから、そんなはしたない言葉を使ってはダメなのです。恥ずかしそうに頬を染めながら、気を取り直して息をフ~。冷めたかなって、またカップに口をつけてみます。
(うん。今回は平気で飲めそうね)
するりと口に流れてくる紅茶の、あめ玉みたいなひとくちが、口の中で溶けていきます。すると、お鼻から感じたときよりも、ずっとずっと香りが広がって、紅茶の芳ばしさに全身が満たされていくようでした。
「お顔の全部が、お紅茶に染まったみたい」
ふと呟いた言葉に、ふふっと笑みがこぼれました。この幸せなひとときこそ、ご機嫌な毎朝のルーティーンなのです。
遠くに行ってしまってもう会えないお父さんと、まだ一緒に住んでいた頃、よく聞かされていた言葉があります。最後に聞いたのがいつのことだか思い出せませんが、それでも残って、消えない言葉。それは――
――いいかい? ゆめちゃん。朝の紅茶はね、お呪いなんだよ」
朝日の差し込むダイニングで、紅茶を片手にお父さんが笑いかけます。
「おまじない?」
「そうだよ。どんなことがあっても、朝に紅茶を飲めば無敵なんだ。紅茶はね、特別な飲み物なんだよ。薫りや味にゆっくり浸る時間。その時間は、一日をハッピーにしてくれるんだ。心に、余裕をくれるんだよ」
「う~ん。むずかしい~。でも、わたし、おこうちゃ好きよ」
「そうか、紅茶好きか。よ~し、来週の神戸出張のお土産は決まりだな」
お父さんの大きな手がダイニングテーブル越しに伸びてきて、優しくぽんぽんと頭を撫でてくれました。とてもくすぐったくて、でも心地よくて、世界の全てがそこに詰まっていると心の底から信じられるほど、幸福で大切なひとときでした。
――あの、あたたかくて、優しい、優しい笑顔の記憶は、ゆめちゃんの宝物です。二度とあの笑顔を見られないと思うと、今でもお目々の周りがじんわり熱くなってきます。けれど、今日はもう紅茶を飲んだから平気なのです。お仏壇の前で手を合わせて、お父さんに行ってきますを言うと「よしっ」小さく呟いて立ち上がりました。
『お母さん、起きたら飲んでね』と、ティーポットに付箋を貼って、冷蔵庫に入れて。そうしたら、自慢の赤いランドセルを背負って、学校へれっつごーです。
*
学校までの道のりには、どきどきとわくわくがもりだくさん。
吉田さんちのわんちゃんがワンワンワンと吠えたら、びっくりぎょうてん、尻餅をついてしまいますし、道路の脇からカエルさんが飛び出してきても、驚いて悲鳴を上げそうになってしまいます。でも、公園の花壇に咲いているお花がきれいで、うっとりしますし、お友達のるみちゃんを見つけると、嬉しさがこみ上げてきます。
「るみちゃん!」
さらりと艶めく長い黒髪が、美しく靡く後ろ姿に声を掛けます。
「あ、ゆめちゃん。おはよ」
るみちゃんは幼稚園から一緒のお友達です。仲良しだけれど、おうちに帰ってまでは遊ばない。そんな距離感でいてくれるのが、ゆめちゃんにとってはとっとも嬉しいことでした。
「おはよう!」
「今日、算数のテストだね」
「えっ。今日だっけ?」
すっかり忘れていたゆめちゃんは、お腹の上の方がキュッとなりました。
「そうだったと思うけど」
「えええ、私、勉強してきてないよぉ」
「ゆめちゃんは、そそっかしいなぁ」
「えへへ……。学校でお勉強して間に合うかなぁ」
ケラケラ笑いながらの登校時間。とってもハッピーな登校時間。なのに、いつも水をさしてくる奴らがいます。
複数の足音が背後から聞こえてきました。ですが、るみちゃんとの会話に夢中で、それに気がつけませんでした。足音が隣を駆け抜けていくのと同時に、強い風が吹いたように、スカートがめくれ上がる感覚がします。
「うわ~~~~。小三にもなって、クマパンツ~。わたち、クマちゃんがいないと、不安なんでちゅ~ってか?」
男の子がギャハハと邪悪な笑い声を上げると、取り巻きたちも一緒になって笑い、小学校の方へ走り去って行きました。
突然の出来事に立ち尽くしてしまいましたが、次第に感情が追いついてくると、ゆめちゃんの目の端に、少しずつ羞恥心が溜まっていきます。最悪な気分が自分を黒く染めていくような気がしました。ただ下着を見られただけなのに、それはただの布であるはずなのに。心の底から嫌悪感が湧いてきて、お腹の底から悲しい気持ちが昇ってきそうになります。
ごくり。
でも、大丈夫なのです。朝、お紅茶を飲んだゆめちゃんは、強い子だから。ゆうがなれでぃは、無闇に涙を流したりしないのです。
*
学校で一番好きなのは、国語の時間。特に今は〝お話〟の授業だから、楽しくて、楽しくて、ゆめちゃんはるんるんでした。お話はうんと小さな頃から大好きでした。寝る前にお母さんが読んでくれた絵本。お母さんの読み聞かせは迫力がありながらも、繊細で優しくて大好きでした。だからいつもお母さんのところに絵本を持って行きましたが、寝るのが本当に惜しく、お互い寝不足になってしまうので、たまにしか読んでもらえませんでした。そういうときは、へたっぴなことに目をつむって、お父さんに頼みました。ゆめちゃんがお話を好きになったのは、お父さんとお母さんに読み聞かせをしてもらったおかげなのです。だから、国語の時間だけは、元気よく手を上げられます。みんなの前で音読をすることだってお手の物です。それでも、上手に読めなかったり、漢字を読み間違えちゃったりして、男の子に小さく笑われると、だんだん顔が熱くなってきます。
ごくり。
でも、大丈夫なのです。朝、紅茶を飲んだゆめちゃんは、そんなことくらいではへこたれません。国語の時間大好きパワーで、元気に音読を終えられました。
*
給食の時間も大好きです。みんなでご飯を食べるのが、たまらなく大好きなのです。今日のメニューは揚げパンと、鶏肉の照り焼きと、付け合わせのサラダと、ABCスープでした。おうちでも食べようと思えば食べられるメニューですが、クラスの子がしょうもないことを言って、笑い声を上げながら食べるのは、どんなご飯よりも美味しく感じました。それでも、サラダの中に苦手な人参を見つけたときは別です。こっそり除けて隠してしまおうかと思いました。
ごくり。
でも、大丈夫なのです。朝、紅茶を飲んだゆめちゃんは、好き嫌いをしません。苦手な人参だって食べられるのです。
*
ゆっくり過ごせるお昼休みも好きです。一番好きな過ごし方は、図書室で本を読むこと。最近手を出し始めた新しいシリーズが面白くて、先が気になって仕方ありません。お気に入りのキャラクターは、旅人さん。ふらりと物語に現れては、知恵を授けて去って行く。そんな姿が最高にクールで、カッコよくて、大好きなのです。
(いつか、わたしも、ふらふら~っとどこかに行けたらなぁ)
空を眺めては、そんなことを考えてみたりするのが、ここ最近の日課になっているほどでした。
でも、今日のお昼休みは、最悪でした。渡り廊下を抜けて、南棟の図書室へ行こうと歩いていたら、今朝スカートを捲ってきた男の子が待ち構えていたのです。
「へへ、クマさんパンツのゆめちゃんじゃん」
にたにたと嫌らしい笑みを浮かべて、男の子たちが近づいてきます。
「……」
(今日は良いお天気なんだから、お外でドッジボールでもしてきたら?)
と思いましたが、〝おとなのれでぃ”であるところのゆめちゃんは、相手にしない、相手にしない、相手にすると、面白がられちゃうから、小説の旅人さんみたいに、クールでいようと、自分に言い聞かせて先を急ぎます。
「おい、無視かよ」
すれ違う瞬間、急に二の腕を掴まれました。思ったよりも強い力に踏み留まれず、そのまま尻餅をついてしまいます。
「ざっこ~。弱すぎだろ」
興味の無いゆめちゃんには、この男の子たちの名前はわかりません。だから、誰がリーダー格なのかも分かりませんが、その中でも一番リーダーっぽい子が、仰向けに倒れるゆめちゃんのお腹の上にのし掛かって見下ろしてきました。
「へへ、何してやろうかな。俺様を無視したんだから、うんと仕返ししてやらないと」
その瞬間、ゆめちゃんの頭に何かの記憶が浮かび上がってきました。その記憶が何なのか分かりません。ただ、それはぜったいに幸せな記憶なんかではないことだけは分かりました。こう、怖くて……泣きそうで……。なんで馬乗りになられた瞬間にそれが湧いてきたのかは分かりませんが、いまにもお目々のダムが壊れてしまいそうでした。
「……ひぐ」
目頭が熱くなってきました。馬乗りになっている男の子の手がゆっくりと伸びてきます。その矛先がどこに向いているのか、怖くて目を開けられないから、分かりません。分からなくて、分からないのです。分かりたくない、想像すらしたくない。その思いが脳内を駆け巡ります。怖くて喉がしまり、悲鳴も声になりません。伸びてくる手、騒ぎ立てる取り巻きの男の子、全てがスローモーションに思えました。
「おい、何をやってる」
突如、大人の声が、降ってきました。
「うわっ」とか「やべっ」とか口々に焦りをあらわにした男の子たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。のし掛かっていた男の子はもうとっくにいないのに、腰の辺りにあった重みが消えてくれません。不快な感覚が気持ち悪くこびりついているようでした。体がこわばって起き上がれず、床に寝そべったまま、焦点の定まらない瞳で、天井をぼんやりと見つめます。
「おい、大寺林。大丈夫か? 何をされたんだ」
大寺林とはゆめちゃんのことです。ゆめちゃんは、フルネームを大寺林夢子といいます。
頭の側にしゃがみ込んだ先生が、ゆめちゃんの顔を覗き込んできました。声だけでは分かりませんが、それは怖いことで有名な体育の先生でした。生徒みんなに恐れられている先生なのに、今は、そのお顔がどこまでも優しく見えて。
ごくり。
「……だ、大丈夫だもん」
先生の顔を見たら、体から重みが消えて、つと涙が零れ落ちました。
「朝、紅茶、飲んだもん……」
*
結局その日は、残りの時間を保健室で過ごして、おうちに帰りました。保健室で過ごしている間、先生が何人か訪ねてきて、「何があったの?」とか「何をされたの?」とかそんなことを質問されたから、朝あった事から全部話してしまいました。昨日や一昨日も何かをされた気もしますが、あんまり覚えていませんでしたし、今日ほど怖いこともされていなかったと思いますから、どうでもいいなって、それは話さないでおきました。一通り話を聞き終えた先生たちは、男子たちにも話を聞いてくると言って保健室から居なくなったきり、放課後を知らせるチャイムが鳴っても帰って来ませんでした。だから、もう帰ってもいいのかなって思ったゆめちゃんは、黙って保健室を後にしました。もし怒られたら明日謝ろう。それでいいや。と楽観的に思いながら。
*
家に帰るとダイニングテーブルの上に千円札と、お母さんの文字で『好きな物を食べて』と書かれたメモ用紙が置いてありました。何食べようかな~って考えを巡らすほど、うきうきした気持ちが湧き上がってきます。
「う~ん。今日は、唐揚げの気分だな~。でも、ご飯の前に、宿題しちゃわないと!」
早速リビングのローテーブルにノートを広げて、漢字の書き取りを始めます。最近、読める漢字が増えてきました。ご本をたくさん読んでいるお陰もあると思いますが、きっと漢字の書き取りを頑張っているからなのです。
「う~ん。今日の小テストでも、〝指〟って字を間違えちゃったけど、上手く書けないなぁ。バランスも取れない……〝ヒ”の所を大きくすると日が入らないし……小さくすると、形がおかしいし……う~ん」
などとたまに声を出してしまうのは、いつものクセ。こうやって勉強をすると、誰かとお勉強しているみたいで楽しさも倍になる気がするのです。
……一通り宿題を終えたところで、ぐーと伸びをすると、体のあちこちがぽきぽき鳴りました。まるで自分が楽器になったみたいで、面白くて、いつもお勉強が終わった後はぽきぽきやっています。
「さて」
制服のままだと、大人に心配されてしまうので、手頃な洋服に着替えてから、お母さんの千円札をポッケに入れて、近所のスーパーに向かいます。お家から歩いて十分と少し。マンションの一階に入っている小さなお店ですが、お惣菜が美味しいのでよく利用しています。
「唐揚げ、唐揚げ~~」
鼻歌交じりに入店したゆめちゃんでしたが、お惣菜コーナーに差し掛かったところで、顔を引きつらせます。
「は、ハンバーグ……。そっか、ハンバーグか……」
おうちを出た時には、唐揚げと、サラダと、パックのご飯を買って帰るつもりでしたが、お弁当コーナーで光り輝く存在感を放っているのは、初めて見るハンバーグ弁当でした。パスタの上に載せられた肉厚なハンバーグに濃厚そうなソースがかけられて、テカッと黒光りしている様子が、お腹の虫を騒ぎ立てます。それに付け合わせのフライドポテトも大きめで、ほくほくしていそうで、唐揚げに一途だった気持ちが、ぐらぐら揺らぎ始めました。
「からあげ……はんばーぐ……からあげ……はんばーぐ……」
少し先で唐揚げが、「ぼくじゃないの……?」と悲しそうに呼びかけてきます。なのに、目の前のハンバーグは、「おれにしておきなよ」と甘く囁いてくるのです。
ごくり。
たくさん、たくさん迷っても、朝、紅茶を飲んだゆめちゃんだから、迷いも断ち切れます。
ゆめちゃんはぎゅっと目を瞑ると、ハンバーグ弁当を掴んで駆け出しました。レジでさっとお会計を済ませると、一目散に走っておうちに帰ります。背後から聞こえてくる唐揚げの誘惑を振り切って、走りました。走って、走って――電子レンジがチーンと鳴る音で我に返りました。目の前でほかほかと湯気を立てるハンバーグ弁当。レンジに貼り付けていたプラスチック製の先割れスプーンを引き剥がすと、居間のテレビを点けて、座って、あ、忘れてたとキッチンに戻り、冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注ぎ、バラエティの笑い後をBGMに「いただきます」と食事を始めました。ハンバーグ弁当は想像通りの美味しさで、自分の選択に間違いはなかったと、誇らしい気持ちになります。
すっかりお弁当を食べ終わり、お片付けを済ませると、ぐっと眠気が押し寄せてきたので、慌ててお風呂を済ませ、お布団に潜り込みます。
「明日も、楽しい一日になるよ」
一日を終える一言をつぶやくと、ゆめちゃんは深い眠りの中へと溶けてゆきました。
2
ゆめちゃんが朝の支度にお湯を沸かしていると、あることに気がつきます。
「あれ? お紅茶がないわ」
そう、蜂蜜紅茶のティーバッグが詰められているはずの密閉容器が、空になっているのです。これでは、お湯を沸かす意味がありません。取り敢えず火を止めると、腕を組んで、思索にふけります。
「う~ん。今日は緑茶にしておきましょうかね。でもでも、はちみつ……ミルクも買い置きがないし、そもそも蜂蜜もない……。作り置きの麦茶はあるけど、せっかくの朝にはお紅茶が……。お紅茶がないと、わたし、わたし……」
〝おまじない”がないと、ハッピーな一日が始まりません。これでは、一日をどう過ごしていいのやら。それでも、時間は迫ってきます。
「あ、いけない。支度しなきゃ!」
バタバタ慌てて身支度を調えます。
お父さんへの朝の挨拶も手短に家を飛び出すと、一日が始まってしまいました。
通学路は、おっかなびっくりと悲しいことの連続です。
吉田さんちのワンちゃんに吠え立てられて、びっくりして後ずさったら、そこは水たまりで、ぬかるみに足を取られてすってんころりん。パンツまで染みてしまってお尻がびちょびちょになるし、通りがかった男の子にはお漏らしだと囃し立てられて、学校を目前に大泣きしてしまいました。わんわん泣いていると、るみちゃんが通りがかり、慰め、一緒に登校してくれました。
それでも、ゆめちゃんには耐えられませんでした。朝、紅茶を飲めなかったから。おまじないが無いなら、何も自分を守ってくれない。こんこんと湧いてくる悲しさは止めどを知らないまま、一限目が始まりました。
*
最悪な日は何をしていても最悪です。大好きな国語の時間、今日は文法の授業でちょっと難しいなぁと思っていたら、ゆめちゃんが国語好きなことを知っている先生が問題の解答を尋ねてきました。分からないけど、何か答えなきゃと、必至に必至に考えて、
「修飾語です」
と答えたら、先生は、
「おしいですね。補語です」
と返してきて、恥ずかしくて……。でも、いつもみたいに我慢して、そのままそっと座ろうとしました。
それでも、るみちゃんには耐えられませんでした。朝、紅茶を飲めなかったから。
男の子がクスクス笑ってくるのに堪えきれず、力任せに机を倒し、その男の子に掴みかかろうとして、先生に止められ、暴れて、わめき散らしました。なんとか、なんとか先生になだめられて、その場は収まりましたが、ゆめちゃんの胸中はどうしたところで収まりませんでした。
*
給食の時間だけは、心の休まる時間でした。大好きなカレーライスの日だったので、ようやく心がうきうきしてきました。それでも、カレーの付け合わせは福神漬けではなく、苦手ならっきょう。福神漬けの甘みは、カレーの辛みと合わさると本当に美味しいなと思えましたが、らっきょうの酸味は別です。カレーに合わないどころか、単体で食べても、ちっとも美味しいとは思えませんでした。頑張って食べようかな。そんな気持ちも心の片隅にはありました。
それでも、るみちゃんには耐えられませんでした。朝、紅茶を飲めなかったから。だから、カレーに味が移るのすら嫌で、席に着くや否やお盆に取り出して、そしてどうどうと残して、ゴミ箱に捨てました。もちろん先生に見つかって、呼び出されました。それでも、食べたくなかったのだから仕方ありません。食べたくないものを、なぜ赤の他人から強制されなければならないのでしょうか? 農家の方が、植物にも命がと、もっともらしい台詞を並べる先生の言葉は何一つ入っては来ず、ただただ遣る瀬なさの涙が溢れました。泣いて、泣いて、泣いている内に昼休みの時間になって、開放されました。先生はやれやれといった様子でしたが、ゆめちゃんは全く納得できませんでした。
*
気分を落ち着けようと、ゆめちゃんは図書室へ向かいます。すると、数日前のように、あの男の子たちが待ち構えていました。
「おお、暴れん坊のゆめちゃんだ。怖いわ~怖いわ~」
その物言いに少しむすっとしましたが、今日はなんだかもう疲れて、相手にしている余裕はありませんでした。だから、無視を決め込みました。
「お前、無視すんなって」
男の子が手首を掴んできます。ただ、以外と力が強いことは知っていたから、今回はちゃんと踏んばって、抵抗しました。
「や、めて……」
「は? なんて? 大声で先生呼べばぁ~???」
イライラが頂点に達したゆめちゃんの脳内に、ある小説の一場面が浮かびました。
――力は入れるだけが芸ではない。時には力を抜いた方が強いこともある――
それは、最近お気に入りの旅人さんの台詞でした。たしかシーンとしては、どうしても勝負に勝てないクマさんに、アドバイスを贈るような感じだったと思います。拮抗している力を抜くと、男の子が仰向けに倒れていきました。ですが、手首を掴まれたままだったので、そのまま覆い被さるように、一緒に倒れてしまいました。
「わわっわあ~~~」
先日とは形勢逆転。今日はゆめちゃんが馬乗りの番です。見下ろす感覚は、なんとも征服欲に溢れていて、それで満足でした。もう許してやろうと思いました。ですが、「クソが! 汚ぇんだよお前! 今朝漏らしてただろ、ションベンクセぇんだよ!」と怒鳴ってきたのに、イライラが再燃してきました。〝おとなのれでぃ”であるゆめちゃんは、なんとか我慢しようとしました。
それでも、るみちゃんには耐えられませんでした。朝、紅茶を飲めなかったから。
だから、今日は〝おとなのれでぃ”ではなく、〝ただのこども”です。ただのこどもは、度の過ぎたケンカだってします。周りの取り巻きたちが、床に転がる男の子に向かって、「やりかえせ」だの「女なんかに負けるな」だのと言っていますが、ゆめちゃんは何故か自分が応援されているかのような感覚に陥りました。どんどん勇気と力が湧いてきます。取り敢えずは男の子の顔に拳を突き下ろしてみました。これはきっといつか辱められた分。もう一発はそのまた別の日の分、次は……ですが、男の子には大して効いて居なさそうでした。ゆめちゃんのか弱い力では、大してダメージを与えられなかったのです。男の子はニヤニヤしています。
「その程度じゃ、マッサージにもならねー」
そして、言葉を続けます。
「女って、ここが弱点なんだろ」
股の下にいる男の子は、ゆめちゃんの足の下から藻掻いて両腕を抜き取ると、真っ直ぐ胸に手を伸ばしてきました。第二次性徴が始まったゆめちゃんの、膨らみだしたそれに手が触れます。その瞬間、おぞましいほどの嫌悪感が全身を支配しました。ゆめちゃんは男の子の腕を振りほどくと、喉を締め上げます。最初こそ余裕の表情を保っていた男の子でしたが、ゆめちゃんが体重を乗せると、段々体が震え出し、白い泡を吹き始めました。周りでからかっていた取り巻きたちも、リーダーの様子がおかしいことに気がつくと、徐々(じょ)に顔が青ざめ、「お、俺! 先生、先生を!」と言って駆けて行きました。
数分後、走ってきた先生のおかげで、ゆめちゃんの下に居た男の子は一命を取り留めました。
その後は保健室で過ごしました。先生たちにここに居るように、外には出ないようにと強く言われたから、帰ることもできません。保健室の外からは、甲高い女性の声で「ウチの子が、殺されかけたんですよ」とか「どういう教育を!」とか、そんな声が聞こえてきましたが、なんだか疲れてしまったゆめちゃんは、うとうとしはじめ、眠りの世界に落ちていきました。
*
夢の中では、お父さんとお母さんと手をつないでいました。
ここはどこ?
そう尋ねると、お父さんは困った顔をします。
ゆめちゃんが辺りを見渡すと、どうやらここは遊園地のようでした。
遊園地だ! わたし、メリーゴーランド乗りたい! ねえ、お父さん! お母さん!
ゆめちゃんが必死に手を引いても、お父さんもお母さんもそこから一歩も動いてくれませんでした。そのことがいやに悲しく思えて、どんどん目から熱い涙が零れてきます。涙は止めどを知らず、夢の世界を満たして、そして排水口へ流れるように、お父さんとお母さんを流し去ってしまいました。それでも涙はずっと流れ続けて、そしてゆめちゃん自身も溺れてしまいました。
*
ゆめちゃんが目を醒ますと、すっかり外が暗くなっていました。枕元に気配を感じて顔を上げると、保健室の先生が座ってご本を読んでいました。
「せんせい?」
「あら、夢子さん。目が覚めたの?」
「うん」
「いま何時?」
「えっと……十九時くらいね。ああ、夜の七時よ」
「もうおうちに帰らなきゃ」
「そうだね。でも、もう少ししたら、お母さんが来てくれるみたいだから、先生と待ってようか」
「え⁉ お母さん来てくれるの⁉ やった~~~」
ゆめちゃんは万歳をして喜びます。
「そうね。だから、お母さんが来るまで、先生とお話しましょう」
「うん。どんなお話?」
きっと、楽しいお話だと、ゆめちゃんはうきうきしましたが、実際は違いました。
「ゆめちゃんが、さっきしたことはね。殺人未遂――つまりは、人を殺しかけたことなの」
そうして保健室の先生は、首を絞められると人は死んでしまうことを、優しく、分かりやすく、説明してくれました。その話を聞いている間中、ゆめちゃんは恥ずかしさでも人は死んでしまうかもしれないのに、ということをずっと考えていましたが、先生の口からはそんな話題が出てくることもなく、答えて貰えるとも思えなかったから、ゆめちゃんも疑問を投げるようなことをしませんでした。
先生が一通り話し終えた頃、保健室の戸がノックされ、お母さんが姿を現しました。
「お母さん!」
ゆめちゃんが駆け寄っていき、腰の辺りに抱きつきます。
「せんせい、さようなら」
「ええ、さようなら」
ゆめちゃんが手を振ると、保健室の先生も小さく振り返してくれました。
*
お母さんに手を引かれてルンルンで帰ると、玄関に悪趣味な尖った革靴が脱ぎ捨てられていました。アイツが来ている……。一変して最悪な気分になりましたが、ゆめちゃんのお家はここしかありません。仕方なく先へ進み、リビングのドアノブに手を掛けた瞬間、まだ玄関先にいたお母さんが「雨!」と叫んで一目散に2階のベランダへ駆け上がっていきました。ゆめちゃんが一人でリビングに入ると、そこにはお父さんと年の近そうなおじさんがソファに座っていました。
「おや……ゆめちゃん。今日も、かわいいねぇ」
ペチャニチャと音を立てる口元と、なめ回すように容姿を目ね上げる視線に、背筋がゾクッとしました。そして、記憶にない嫌な記憶が湧き出てくるような気配がして、吐き気に襲われます。おじさんがソファから立ち上がると、ゆっくりゆっくり近づいてきます。抵抗できなさそうな大きな手で髪を梳かれ、頬を撫でられ、肩に触れられ……次第に手が下腹部へと向かっていきます。
男の子に悪戯をされた時とはあからさまに違う悍ましさに、抵抗することすらできず、足に根が生えたようにその場から動けなくなりました。
「ちょっと! ゆめにはやめてって言ってるじゃん!」
急に背後の扉が開け放たれ、お母さんが飛び込んでくると、おじさんの唇に自分の唇を吸い付けました。そして、見えないところで手を振り、自分の部屋に行きなさいとジェスチャーで示されました。余りの恐怖に、腰が抜けたゆめちゃんでしたが、何とか這いずって廊下に出ると、階段をよじ上って、命からがら自分の部屋に辿り着きました。リビングの方から、高い声が聞こえてきます。それは、痛切に生にしがみ付くような声でした。その声が微かに聞こえてくる度、涙が流れました。流れて、流れて――どれほど時間が経ったのかは分かりませんが、朝日のまぶしさで目をさますと、制服のまま床に寝転がっていました。時間は八時前。もうお風呂に入っている時間もありません。あわててランドセルの中身を確認すると、着の身着のまま外へと駆けだしていきました。
今日も紅茶を飲めなかったので、学校での一日は最悪なまま終わりました。家に着いてダイニングテーブルを確認しても、お金が置かれていなかったので、きっとお母さんが帰ってくるのだと思って待っていましたが、結局、二十二時を回っても帰ってきませんでした。
「お腹減ったな……」
独りごちましたが、冷蔵庫の中にも大して食べられるものはありませんでしたし、お年玉はおろか、お小遣いすら貰っていないゆめちゃんは食料を手に入れる方法も分からず、諦めてお風呂を済ませるとベッドに潜り込みました。
お腹がぐ~~~と音を立てます。ゆめちゃんはお腹を抱えるように腕を回して我慢しました。ぐ~~~と鳴る度に悲しい気持ちになりました。空腹が連れてくる切なさが邪魔をしてなかなか寝付けず、ついに朝がやって来ました。どうやら眠ってはいたようですが、疲れは全く取れていませんでした。
朝の支度をしようとお部屋を出たゆめちゃんは、お母さんの寝室の扉がうっすらと開いているのを見つけると、そっと近づきました。
「おかあさん?」
起こしてしまわないように、そっと扉を開けましたが、そこはもぬけの殻。帰ってきた痕跡さえありませんでした。
「お仕事終わらなかったのかな?」
以前にもこういったことはありましたから、ゆめちゃんは大して心配せず、お母さんの部屋を後にして、朝の支度を始めました。
「あれ? まだない」
お母さんに書き置きしておいたのに、紅茶が補充されていませんでした。もうかれこれ二日も飲んでいなくて、その二日間とも最悪な日だったので、どうしても今日は飲みたかったのですが、無いのでは仕方ありません。ゆめちゃんはぐっと我慢して身支度を整えると、学校へ行きました。
今日は昨日よりもまだマシな日でした。吉田さん家のわんちゃんは吠えてこないし、男の子は襲ってこないし、ゆっくり本を読めました。それに、昨夜から何も食べていなかったゆめちゃんは、給食に大好きな唐揚げが出たので大興奮です。お米を三回はお代わりして、お腹をパンパンに満たしました。
三日ぶりにるんるんで帰宅したゆめちゃんでしたが、今日もお母さんは帰ってきませんでした。
3
お母さんと会うこともなく、帰ってきている形跡すらも見つけられないまま、土曜日がやってきました。ぐ~ッと鳴るお腹から意識を逸らすために、ソファに横になったまま何気なくつけたテレビが、今週から四連休であること、だから遊園地が満員であること、だから空港が混んでいること、だから新幹線が満席なことなどを紹介していました。
「いいなぁ」
ボソッと呟くと、テレビから賑やかな声が聞こえてきて、芸人とタレントが一緒になってテーマパークで遊んでいる様子が流れ始めました。
「お父さん……お母さん……次は、いつ連れて行ってくれるの……」
ゆめちゃんの視界の先、テレビ台に置かれた写真立てには、ゆめちゃんが幼稚園に通うよりも前の、遊園地で撮った家族写真が収められていました。初めて家族で行った遊園地。ゆめちゃんを抱きかかえて大きく口を開けているお父さんとその隣で笑みを浮かべるお母さん。幸せはそこにありましたが、今となってはは絵に描いた幸せでした。さらに少し視線を動かすと、テレビ脇の棚の上にその時に買ってもらったぬいぐるみが置いてあります。ゆめちゃん自身はよく覚えていませんが、お土産売り場で泣き叫ぶゆめちゃんに渋々買った物らしいということは何となく聞かされていて、それを聞く度に恥ずかしさと、嬉しさと、色々な気持ちが溢れてきたものです。
ですが、感傷に浸るゆめちゃんは、遊園地に気を取られて大事なことに気付いていませんでした。
夜までそうしてソファで横になっていたゆめちゃんですが、ついに夜になると空腹が堪えきれなくなってきました。一瞬飢餓感が薄れたかなと思うと、暫くして首をもたげてくるその感覚が、嫌らしくゆめちゃんを弄びます。たまらくなったゆめちゃんは、水道から水をごくごくと飲みました。気持ち悪くなっても、お腹がぐ~~っと鳴らなくなるまで、我慢して飲み続けました。そうしたら、なんとか空腹が紛れたので、体が水しか飲んでいないことに気が付く前に、急いでベッドに潜り込みました。
*
日曜日も月曜日もお母さんは帰ってきませんでしたが、お水がぶ飲み作戦が功を奏し、何とか空腹に耐えられていました。ただ、耐えているだけで元気はありません。いつもの土日よりも多めに出されていた宿題も、頭が回らず断念したほどです。連休最終日の火曜日夜。ついに水ではどうしようもなくなってきました。体が栄養を求めているのが分かります。どうしよう……どうしよう……と家中を見て回ると、ダイニングテーブルの下に紙が落ちているのを見つけました。
「あ、お金だ……す、スーパー」
くしゃっと掴んだそれを、そのままパジャマのポケットに突っ込むと立ち上がります。肌寒い日でしたが、早く食事にありつきたかったのでとりあえずサンダルを突っかけて、急ぎ、出掛けました。パタパタと走って行ったスーパーで、色々見て回っていると、否応なくヨダレが垂れてきます。色々、色々、色々見て、ようやくオムライスに決めると、レジに向かいました。
「七百五十円になります~」
アルバイト風の女子高生らしきお姉さんがバーコードを読み取り、料金を告げてきます。ゆめちゃんはポケットから紙を取り出して、レジ台に載せました。
「えっと……お嬢ちゃん? これは、お金じゃないよ? 間違えちゃったかな?」
お姉さんが見せてきたのは、いつかお母さんが書いてくれたメモ書きでした。確かに遠目に見たら、お札に似た黄色と言えなくもないですが、あまりにも違うそれを見間違えて、そのせいで食事をまた逃すことになったゆめちゃんは、どうしようもない負の感情が足元から立ち上ってきているのが分かりました。
ごくり。ごくり。ごくり。ごくり。ごくり。
何度、何度、何度、何度、何度状況を飲み込んでみようとしても、空腹と負の感情で頭が回らないゆめちゃんは、
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
レジで絶叫してしまいました。お姉さんがビクッと驚きました。その隙に弁当を掴んで走り出すゆめちゃん。大人達が何事だ⁉ とレジに視線を集めた頃には、もう外に飛び出していましたし、大人達が追ってお店から飛び出した頃には、近くの公園の茂みに身を隠していましたので、見つかる心配もありませんでした。
手元のオムライスを見ると、お腹がくぅ~~~~と泣きました。もう家に帰るのも待てません。スプーンを手に入れる余裕もなかったので、蓋を開けると、冷めたまま手づかみで食べ始めます。金曜日の給食以来、実に四日ぶりの〝味”に涙が流れました。正規のルートで食事を手に入れていないことなど一切気にならなくなり、ただ闇雲にオムライスを掴んでは口に運び、掴んでは口に運びました。ソースの一滴まで丁寧に舐め取ると、正直まだ物足りなさは感じましたが、〝味”と〝固形物”に満足を覚えました。ゴミは持って歩いていると不審がられてしまうかもしれません。茂みの中にそっと隠すと、ゆっくり這い出し、辺りの様子を覗います。スーパーの方からは誰の声もしません。恐らく、捜索はもう打ち切られたのでしょう。安心したゆめちゃんは茂みから出ると、水道で手を洗っておうちに帰りました。
その日は良い夢が見られました。お父さんとお母さんと三人で食卓を囲む夢です。何を食べているのかは分かりませんでしたが、ゆめちゃんの大好物をみんなで食べているのだと思いました。お父さんもお母さんも笑顔でした。この上なく幸せな時間……いつまでも続けばいいのに……と、思った途端、朝日が全てを奪っていきまいた。
*
ゆめちゃんが朝の支度をしに、ダメ元でキッチンへ向かいます。希望を持ってお湯を沸かして、不安げに戸棚を開けると、なんと紅茶が補充されていました。あまりの嬉しさに、小躍りしながらティーポットを用意します。さっそくティーバッグの包装紙を破ると、ふわっと蜂蜜が薫りました。愛おしさに心がドキッと跳ねます。ピーーーと音を立てて沸いたお湯をティーポットに注ぐと、紅茶の香りがブワッと広がって、無機質な自分が満たされていくように感じました。ここ数日灰色だった世界がパッと色づいて、カラフルな日常が始まる予感に包まれます。
紅茶が色づいていく中、着替えをしようと洗面所へ向かうと、パリッとノリの効いたブラウスが畳んで置いてありました。きっと、お母さんが帰ってきたんだ! と嬉しさが吹き出してきますが、きっと疲れているだろうから、起こさないように、お部屋まで確認することはしないでおきました。
「ふふふ」
無意識に口角が上がり、笑い声が漏れました。こんな幸せな気持ちは、すごく、すごーく久しぶりで、でも、どんな不幸があったのか、記憶を辿っても上手く思い出せませんでした。それでもまあ、そんな楽しい日々でもなかったし、忘れてしまっても良いかと思いました。
紅茶を飲めんだ今日のゆめちゃんは最強です。
吉田さん家の犬には出くわさなかったし、男の子たちにも出くわさずに教室へ着くと、先に来ていたるみちゃんにおはようを言って自分の席に着きます。授業が始まっても、何故か例の男の子たちが登校してこないから、その後も安泰に時が流れていきました。国語の時間も、体育の時間も、給食の時間も、ただただ楽しく過ごせました。
ごくん
やっぱり、朝、紅茶を飲むのは、一日を幸せにしてくれるお呪いだったのです。ゆめちゃんはニコニコと笑顔で帰り、幸せそうな笑顔を浮かべて眠りにつきました。いつまでも、いつまでも、紅茶を飲んで幸せに浸っていてほしい。痛切にそう願いたくなる寝顔でした。
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大寺院夢子の朝は早い。
いつ洗ったか分からない黄ばんだシーツの上で目を醒ました夢子は、眠い目を擦りながらキッチンへと向かう。先ずはヤカンに、唯一止められていないインフラである水道から水を汲むと、ガスコンロの五徳の上にそれを載せた。そしてノブを回すと、戸棚から空の密閉容器とティーポットを取り出す。密閉容器から何かを取り出すような仕草をし、何かを破るように手を動かし、その中から取り出した何かをティーポットに入れる動作をした。そして、先程と何の状態も変化していないヤカンを手に取ると、何も入っていないティーポットに水を注いで、満足そうに笑顔を見せた。まるで、華やかな紅茶の香りに満たされていくような、恍惚とした表情でティーポットを見つめている。それをゴミで散らかったダイニングテーブルの上に載せると、どれが洗濯されていて、どれが洗濯されていないのか分からないほど衣服が乱雑に積まれた洗面室で顔を洗い、制服を引っ張り出し、着替えを済ませた。制服のブラウスはシワがつきすぎて、もはやそういう服だと言う気もしてくるほどで、さらに言うと、煮詰まった豚骨スープのような、獣臭に似た匂いも漂っていた。なのに、その服を着た夢子は満足そうに鏡の前で一回転して見せる。
リビングに戻ると、ティーポットからマグカップに水を注ぎ、その薫りを確かめるように、そっとマグカップを鼻に近づける。
「蜂蜜のあま~い香りと、芳ばしい紅茶の香りが溶け合って、全身を満たしてくれるみたい」
夢子は気に入っている本の一節を唱えると、満足そうに水を口へと運ぶ。
「アチッ」
ただの水道水であるはずなのに、熱そうに顔を顰め、味を確かめている。
「お顔の全部が、お紅茶に満たされたみたい」
うっとりとした顔で、その無色透明な液体を見つめると、時計を見るなり慌てた様子で、付箋に『お母さん、起きたら飲んでね』と書き記し、ティーポットに貼りつけ、中身が腐り切った冷蔵庫に仕舞い、お父さんに朝の挨拶をしてから、「よし!」と呟き家を出た。
*
「今日もお母さん帰ってこないな~」
夢子は、物が散乱し、腐敗し、足の踏み場も無い場所で小さくうずくまっていた。お昼の給食はすっかり消化しきり、お腹が減っていたが、もう食事を手に入れられそうなお店は無い。歩いて行ける範囲のお店には、顔を覚えられてしまっていた。遠くへ行こうにも、足がない。気を紛らわせようと本を開いてみるが、お腹が空きすぎて文字に集中できない。
夢子は必死に目を瞑った。
もう寝てしまおうと思った。
ぎゅ~~~~~と目を強く瞑っていたら、遠くの方に光が見えた気がした。
――それは、あたたかな光だった。
どうも。暴走紅茶です。
この度、文学フリマ東京42にて頒布する作品が、ようやく、それなりに、他人様の目に触れさせてもいいかな?くらいに仕上がってきましたので、試し読みを投稿します!
本作には、この他にも
●中学校で起こる小さな謎を追う、探偵コンビ『紅茶同盟』のアッサムとセイロン。そんな2人の前に現れた奇っ怪な謎。一体犯人は誰なのか?その目的は?(こぼれた紅茶は、戻らない)
●部活終わりの水場。汗を流そうと、水浴びをしていた男子高校生・有羽勇二の足元に、コロコロと紅茶のペットボルガ転がってきて――?(ころがる紅茶、足元の恋)
●今日も元気に配信をする大人気バーチャルアイドル、三島ルル(みしまるる)。配信終わりに、ふと気がついたリスナーの訃報。どうにかしてこれまでの感謝を伝えたいと思った彼女は、ある行動に出る。(開示請求ティータイム)
の全4篇を収録!!
きっと楽しませるので、是非、遊びに来てください!!
【文学フリマ東京42 詳細情報・お品書き】
日時 2026年5月4日(月・祝) 12:00~開催
場所 東京ビッグサイト 南1-2ホール E-06
新刊 『物語のそばに、紅茶を添えて。』 1,000円
既刊 『無機質の恋』 500円
おトクな新刊・既刊セット 1,400円
無料配布 未定
その他雑談とかそういうのも大歓迎!!
ボクの他にも素敵な作家さんがたくさん出店しています!!
楽しい時間になると思いますので、ぜひ文学フリマ東京42へ遊びに来てくださいね!!




