【第2章】【第1節】【第1項】 アッシュバーデンの沈黙と招かれざる客の到来:雨と煤煙に沈むスラム街で響く警鐘と、絶望に震える住民たちの姿
王都ホワイト・セレスティアの直下に広がる最下層スラム街、アッシュバーデン。
この街の空は、いつだって鉛色だ。
上層都市の巨大な基盤が太陽を遮り、そこから滴り落ちる汚水と、焼却炉から排出される煤煙が混ざり合って、分厚い雲海を作り出しているからだ。
この日もまた、シトシトと冷たい雨が降り続いていた。雨は油膜を含んで虹色に光り、地面のぬかるみをさらに深くしている。
だが、ここ数日の街を覆う「暗さ」は、物理的な光の遮断だけが理由ではなかった。
街全体を包み込むような、重苦しい沈黙と緊張。
普段なら、スカベンジャーたちが今日の収穫を自慢し合う声や、露店商人のダミ声、あるいは安酒を飲んだ酔っ払いの喧嘩の声で賑わっているはずの大通りが、今は不気味なほど静まり返っている。
聞こえてくるのは、雨音と、遠くで鳴り響く警鐘の音だけだった。
カン、カン、カン……。
その乾いた音が鳴るたびに、住民たちは身を縮こまらせ、不安げに顔を見合わせる。
「またか……」
誰かが小さく呟いた。
その言葉には、恐怖と、諦めと、そして深い絶望が滲んでいた。
アッシュバーデンの外れ、ドブ川の下流に広がる未開の地――『霧の樹海』。
そこから、またしても「客」がやってきたのだ。
それも、招かれざる、最悪の客が。
***
異変は、数日前から始まっていた。
最初は、小さな予兆に過ぎなかった。
森の近くでゴミ拾いをしていたスカベンジャーが、「奇妙な唸り声を聞いた」と言って逃げ帰ってきた。
次は、家畜として飼っていたネズミや食用トカゲが、一晩のうちに食い荒らされた。
そして、決定的な事件が起きた。
森の浅瀬まで探索に出ていたベテランのスカベンジャー・チームが、一人を残して全滅したのだ。
唯一生き残った男は、恐怖で錯乱し、こう叫び続けていた。
「化け物だ……! 森が怒ってる……!」
それ以来、森からの侵入者は日に日に増え、その凶暴性も増していった。
『アイアン・ボア』、『アシッド・ウルフ』、『ポイズン・バット』……。
本来なら森の奥深くに棲み、人里には滅多に降りてこないはずの高ランク魔物たちが、まるで何かに追われるように、あるいは何かに引き寄せられるように、アッシュバーデンへ雪崩れ込んできたのだ。
本来であれば、こうした脅威は王国軍が対処すべき事案である。
アッシュバーデンの代表者は、すぐに王都へ救援要請を出した。伝書鳩を飛ばし、早馬を走らせ、必死に窮状を訴えた。
しかし、返ってきた答えはあまりにも冷淡だった。
『下層民の喧嘩に割く戦力はない』
『自分たちの出したゴミの始末くらい、自分でつけろ』
黙殺。あるいは、嘲笑。
王都ホワイト・セレスティアにとって、アッシュバーデンはただの巨大なゴミ箱だ。そこに住む人間など、ネズミと同等か、それ以下の存在でしかない。
彼らが守るのは「美しさ」であり、「民」ではないのだ。
この街が魔物に蹂躙されようと、彼らは痛くも痒くもない。むしろ、「汚いスラムが掃除されて清々する」とさえ思っているかもしれない。
国に見捨てられた街。
だが、ここで暮らす人々にも意地があった。
座して死を待つくらいなら、戦って死ぬ。
スカベンジャーたちは武器を取り、自警団を結成した。
その先頭に立ったのは、二人の男だった。




