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【第8項】アッシュバーデンの静寂と復活の英雄:消えた魔物の脅威と、復帰したバルカス団長がアルスに見せた最敬礼

 アッシュバーデンの朝は、いつもと変わらない灰色の空で明けた。

 だが、その空気には決定的な違いがあった。

 ここ数日、街を覆っていた重苦しい緊張感が、まるで嘘のように消え去っていたのだ。


「……静かだ」

 見張り台に立っていた自警団員が、双眼鏡を下ろして呟いた。

 『霧の樹海』の方角を見つめる。

 昨日まで毎日のように聞こえていた魔物の咆哮も、地響きも、不気味な気配も、一切感じられない。

 ただ、鳥のさえずりと風の音だけが聞こえてくる。


「おい、交代の時間だぞ」

 次の当番がやってきたが、彼もまた同じ感想を漏らした。

 「なんか、変だな。……嵐の前の静けさか?」

 「いや、違う気がする。……もっと、根本的な何かが変わったような。森が、落ち着いている?」


 住民たちも異変に気づき始めていた。

 バリケードの補修作業をしていた男たちが、手を止めて顔を見合わせる。

 「昨日の夜、一匹も来なかったな」

 「ああ。……ぐっすり眠れたよ。久しぶりだ、こんなに深く眠れたのは」

 「あんなに暴れてた連中が、急にどうしたんだ?」


 彼らの疑問はもっともだった。

 つい先日まで、この街は滅亡の危機に瀕していたのだから。

 それが一夜にして解決するなど、常識では考えられない。

 だが、事実は事実だ。

 魔物の襲撃はピタリと止まり、平和が戻ってきたのだ。


 ***


 数日後。

 ハウス・デ・アッシュの煙突からは、相変わらず七色の煙が立ち上っていた。

 工房の前には、今日もスカベンジャーたちが列を作っている。

 アルス特製の『薬膳ヘドロシチュー』を求めて。


「へい、お待ち! 今日はドワーフ直伝の隠し味入りだぞ!」

 アルスが笑顔で大鍋からシチューをよそい、空き缶に注ぐ。

 受け取った男たちは、それを一口啜るなり目を輝かせた。

「うめぇ! なんだこれ、力が湧いてくる!」

「昨日の疲れが嘘みてぇだ!」


 アルスは満足げに頷いた。

 彼が混ぜたのは、森の地下で採れる『発光苔』のエキスだ。滋養強壮に効果があり、疲労回復にはもってこいだ。ドワーフとの交易で手に入れたものだが、人間にも効果があるようだ。


 その賑わいの中へ、三人の人物が現れた。

 先頭を歩くのは、新団長のシークフリート・グレイ。

 彼の左腕はまだ吊られたままだが、顔色は随分と良くなっていた。

 隣には、副団長のエレオノーラ・ハインツ。

 彼女も杖をついているが、足取りはしっかりしている。

 そして、最後尾には……。


「バ、バルカスさん!?」

 列に並んでいたスカベンジャーたちがどよめいた。

 そこには、先日右腕を失い引退したはずの前団長、バルカス・ガストンの姿があったのだ。

 失った右腕は袖の中で空虚に揺れているが、その足取りは力強く、眼光も鋭い。まるで、死の淵から蘇ったかのように。


「よう、みんな。元気そうだな」

 バルカスは豪快に笑い、残った左手を振った。その声には張りがあり、とても重傷人とは思えない。


「だ、前団長! もう動いていいんですか!?」

 グレイが慌てて支えようとするが、バルカスはそれを制した。

「心配すんな。……アルスの薬のおかげで、傷口はすっかり塞がったわい。腕はねえが、足腰はまだ現役だ」


 三人は工房の前まで進み、アルスに対峙した。

 アルスは作業の手を止め、笑顔で迎えた。

「やあ、いらっしゃい。……顔色が良くなって安心したよ」


「アルス……」

 グレイが口を開いた。その表情は真剣そのものだ。

「礼を言いに来た。……それと、聞きたいことが山ほどある」


「立ち話もなんだし、中へどうぞ」

 アルスは工房の扉を開けた。

 三人は中に入り、ガラクタの椅子に腰を下ろした。


「さて、何から話そうか」

 アルスがお茶(これも怪しげな色をしているが、香りは良い)を出すと、グレイは一気に飲み干し、深呼吸をした。


「単刀直入に聞く。……お前、森で何をしたんだ?」

 グレイの瞳がアルスを射抜く。

「魔物が消えた。……あんな大群が、一夜にして忽然と姿を消したんだ。偵察隊の報告によれば、森の中は静まり返り、魔物たちは大人しく巣穴に戻っているらしい。……信じられん」


「ああ、それね」

 アルスは事も無げに言った。

「彼らはお腹が空いてただけなんだ。だから、ご飯をあげたら満足して帰っていったよ」


「……は?」

 三人は絶句した。

 ご飯?

 あの殺戮マシーンたちが?

 冗談にも程がある。


「嘘だろう……。あいつらは人間を襲ってたんだぞ! 食欲だけであそこまで凶暴になるか!?」

 バルカスが声を荒げる。彼にとって、森の魔物は生涯の敵であり、自身の右腕を奪った因縁の相手だ。それが、単なる空腹で片付けられるなど、到底納得できない。


「嘘じゃないよ」

 アルスは淡々と続けた。

 原因は、僕がドブ川を綺麗にしすぎたことなんだ、と。

 かつてドブ川に流れていた汚染物質が、魔物たちにとって重要なエネルギー源だったこと。浄化装置によって水が綺麗になり、彼らが栄養失調に陥っていたこと。そして、自分が工房の廃棄物ヘドロエキスを加工して提供し、ドワーフたちに運搬を頼んだこと。


 話を聞き終えた三人は、しばらく言葉を失っていた。

 あまりにも想定外すぎる。そして、あまりにも合理的すぎる。


「……つまり、俺たちが命懸けで戦っていた相手は、ただの腹ペコ軍団だったってことか?」

 グレイが呆れたように呟く。

「まあ、平たく言えばそうなるね」

 アルスは苦笑した。


「なんてこった……」

 バルカスは残った左手で頭を抱えた。

「ワシらが必死に剣を振るっていた横で、こいつは餌付けをして解決しちまったのか……。ワシの腕一本と、ヘドロの瓶一本が等価とはな」

 彼のプライドはズタズタだ。だが同時に、深い安堵も感じていた。もう、部下が死ぬことはないのだから。


「ドワーフたちとも協力関係を結んだ」

 アルスはさらに驚きの事実を明かした。

「彼らは森の地下に住んでいる。僕が提供する肥料と引き換えに、魔物への給餌と森の管理を引き受けてくれたんだ。……これで、今後も襲撃が起きることはないはずさ」


「ドワーフと……!?」

 エレオノーラが目を丸くした。

 ドワーフは排他的な種族だ。人間と取引をするなど聞いたことがない。それを、たった一度の交渉でまとめてくるとは。


「お前……何者だ?」

 グレイが真剣な顔で聞いた。

「ただの錬金術師にしては、やりすぎだろ。……魔法使いでもない、戦士でもない。なのに、誰もできなかったことを平然とやってのける」


「……買いかぶりすぎだよ」

 アルスは肩をすくめた。

「僕はただ、目の前の問題を解決したかっただけさ。……自分のせいで起きたことだからね」


 その謙虚な態度に、三人は毒気を抜かれた。

 この男には敵わない。実力も、発想も、そして器の大きさも。


「……アルス」

 バルカスが立ち上がり、アルスの前に立った。その巨体が見下ろすと威圧感があるが、今の彼には敵意はない。

「礼を言う。……ワシらの街を救ってくれて、ありがとう」

 彼は深く頭を下げた。

 伝説の戦士が、若造に最敬礼をしたのだ。


「バルカスさん……」

 アルスは恐縮した。

「頭を上げてください。……僕は当然のことをしただけです」


「いや、当然じゃねえ」

 バルカスは顔を上げた。

「お前は、ワシらが諦めていた『共存』という道を示してくれた。……力でねじ伏せるだけが解決策じゃないってな。……この腕を失った意味も、今ようやくわかった気がするよ」

 彼の瞳には、新たな光が宿っていた。戦士としての憑き物が落ちたような、穏やかな光だ。


「これからは、ワシらも協力する」

 グレイも立ち上がった。

「自警団は、お前の護衛でもなんでもやる。……この街を守るために、お前の知恵が必要だ」

「私もよ」

 エレオノーラも微笑んだ。


 アルスは胸が熱くなった。

 王都では「ゴミ」扱いされ、孤立していた自分。でも、ここには仲間がいる。自分を認めてくれる人たちがいる。それが何よりも嬉しかった。


「ありがとう。……頼りにしてるよ」

 アルスは三人と握手を交わした。その手は固く、温かかった。

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