【第7項】深淵部への到達と意外な交渉相手:境界線で現れたドワーフと、ヘドロエキスを巡る新たな商談の幕開け
『霧の樹海』の深淵部へと続く獣道。
アルスはドワーフのガンドル親方に案内され、地下へと続く洞窟の入り口に立っていた。
そこは、巨大な木の根が絡み合い、自然のアーチを作っている場所だった。
湿った土の匂いと、微かな硫黄の香りが漂ってくる。
「……ここが俺たちの住処だ」
ガンドル親方が誇らしげに言った。
彼は身長一メートルほどの小柄な種族だが、その筋肉は岩のように隆起し、手には自分の背丈ほどもあるツルハシを持っていた。
髭は地面に届くほど長く、所々に宝石の欠片が編み込まれている。
「へぇ、立派なもんだね」
アルスは感心したように洞窟を見上げた。
入り口には魔法陣のような紋様が刻まれ、侵入者を拒む結界が張られているのがわかる。
だが、ガンドル親方が手をかざすと、結界はすんなりと解除された。
「入れ。……客人を招くのは久しぶりだ」
ガンドル親方が手招きする。
アルスは一瞬躊躇したが、すぐに笑顔で頷いた。
ドワーフは気難しい種族だが、一度心を開けば義理堅いと聞いている。
何より、彼らとの協力関係がなければ、この森の問題は解決しない。
洞窟の中は意外なほど明るかった。
壁や天井に埋め込まれた発光苔が、淡い青色の光を放っている。
さらに奥へ進むと、開けた広場に出た。
そこには、ドワーフたちの集落が広がっていた。
岩を削って作られた住居、鍛冶場の炉から上がる赤い炎、そして何よりも目を引くのは、中央に積まれた巨大な酒樽の山だ。
「……随分と賑やかだね」
アルスが言うと、ガンドル親方は苦笑した。
「見かけだけさ。……本当は火の車だ」
広場には数十人のドワーフたちがいたが、彼らの表情は暗かった。
痩せこけた子供たちが、母親に縋り付いて泣いている。
大人たちも力なく座り込み、虚ろな目で宙を見つめていた。
活気があるのは鍛冶場だけで、そこでも槌を振るう腕にいつもの力強さはない。
「……食料難か」
アルスが察すると、ガンドル親方は重く頷いた。
「ああ。……ここ最近、森の恵みがめっきり減っちまった」
ガンドル親方は溜息をついた。
「俺たちは地下のキノコや根菜を主食にしてるんだが、そいつらが育たなくなっちまったんだ。……まるで土が死んだみたいにな」
アルスは胸が痛んだ。
原因はわかっている。
自分がドブ川を浄化したからだ。
ドブ川の汚染水は地下水脈を通じてこの森の地下深くまで浸透し、独特の生態系を支えていた。
それが急に綺麗な水に変わったことで、環境に適応していた植物たちが枯れてしまったのだ。
「……すまない」
アルスは頭を下げた。
「え?」
「君たちが困っているのは、僕のせいかもしれない」
アルスは正直に事情を話した。
自分がアッシュバーデンの錬金術師であること。
ドブ川を浄化したこと。
その結果、魔物たちが飢え、ドワーフたちの食料も尽きかけていること。
話を聞き終えたガンドル親方は、しばらく黙っていた。
周囲のドワーフたちも、驚きと怒りの混じった目でアルスを見ていた。
「なんだと……! お前のせいだったのか!」
「俺たちの畑を枯らしたのはお前か!」
若いドワーフの一人が掴みかかろうとする。
「待て!」
ガンドル親方が一喝した。
その声は洞窟中に響き渡り、全員を黙らせた。
「……話は最後まで聞け。この人間は、ただ謝りに来たわけじゃねえはずだ」
ガンドル親方は鋭い視線をアルスに向けた。
「そうだろ? 錬金術師さんよ」
「ああ」
アルスは頷き、リュックを下ろした。
中から取り出したのは、先ほども魔物たちに配った『特濃ヘドロエキス』の瓶だ。
蓋を開ける。
強烈な腐敗臭が広場に充満した。
「ウッ……!」
ドワーフたちが鼻をつまむ。
だが、ガンドル親方だけは違った。
彼は鼻をひくつかせ、その臭いを深く吸い込んだ。
そして、目を見開いた。
「……こいつは」
ガンドル親方は震える手で瓶を受け取った。
「……信じられん。……失われた『大地の味』がする」
「大地の味?」
アルスが聞き返すと、ガンドル親方は興奮気味に言った。
「俺たちが食ってたキノコや根菜は、この臭い……いや、この『香り』を吸って育ってたんだ! これさえあれば、また畑が蘇るかもしれん!」
周囲のドワーフたちもざわめき始めた。
「本当か、親方!?」
「あの味が戻ってくるのか!?」
アルスはニッコリと笑った。
「それだけじゃないよ。……これを直接、肥料として使えば、収穫量は以前の倍になるはずだ。僕が保証する」
アルスは自信満々だった。
このエキスは、ドブ川の成分を凝縮し、さらに錬金術で発酵・熟成させたものだ。
植物の成長に必要な栄養素が、これでもかというほど詰まっている。
いわば、超高性能な液体肥料だ。
「……倍だと?」
ガンドル親方はゴクリと喉を鳴らした。
食料不足に喘ぐ彼らにとって、それは夢のような話だ。
「取引をしよう、ガンドル親方」
アルスは切り出した。
「僕はこれを、君たちに無償で提供する。……必要なだけ、いくらでも」
「……タダでか?」
ガンドル親方は疑わしげに見た。
「人間にしちゃあ、話が美味すぎるな。……裏があるんだろ?」
「裏というほどじゃないけど、条件が一つある」
アルスは指を一本立てた。
「このエキスを、森の魔物たちにも分けてやってほしいんだ」
「魔物に?」
「ああ。……彼らも飢えている。君たちが畑に撒くついでに、森のあちこちにある『給餌ポイント』に置いてきてくれればいい」
「……それだけか?」
「それだけさ」
ガンドル親方は腕を組んで考え込んだ。
魔物は危険だ。
だが、彼らドワーフにとっても、魔物が暴れるのは迷惑な話だ。
もし餌を与えることで彼らが大人しくなるなら、森の平和も守れる。
そして何より、自分たちの食料問題も解決する。
損な取引ではない。
いや、むしろ破格の条件だ。
「……わかった。乗ったぜ」
ガンドル親方はニカっと笑い、アルスの手を握りしめた。
「あんた、面白い人間だな。……『ドブの魔術師』なんて呼ばれてるらしいが、俺たちにとっちゃ『救世主』だ」
「よしてくれよ。……ただの錬金術師さ」
アルスは照れ臭そうに頭を掻いた。
交渉成立だ。
広場は一転して、歓喜の渦に包まれた。
ドワーフたちはアルスを胴上げしようとしたが、彼はそれを丁重に断り、代わりに宴会に参加することになった。
彼らが秘蔵していた酒(これもまた強烈な発酵臭がする)が振る舞われ、アルスも一杯だけ付き合った。
味は……正直、人間の舌には刺激が強すぎたが、彼らの笑顔を見れば悪い気はしなかった。
「……さて、と」
宴もたけなわになった頃、アルスはガンドル親方に声をかけた。
「僕はそろそろ行くよ。……まだ用事が残ってるからね」
「おう、そうだったな」
ガンドル親方は酔っ払った顔を引き締めた。
「『あの方』に会いに行くんだろ? ……気をつけてな」
「ああ」
「もし何かあったら、俺たちを呼べ。……地下通路を使えば、すぐに駆けつける」
「頼りにしてるよ」
アルスは手を振り、洞窟を後にした。
外に出ると、雨は小降りになっていた。
空気も少し澄んでいるように感じる。
森の気配が変わったのだ。
殺気立っていた魔物たちの気配が消え、代わりに穏やかな空気が流れている。
ドワーフたちが早速、ヘドロエキスを森に撒き始めたのだろう。
「……仕事が早いな」
アルスは感心した。
これで、アッシュバーデンへの襲撃も止まるはずだ。
自警団の面々も、これで少しは休めるだろう。
だが、アルスの本当の目的はここからだ。
彼は地図を取り出し、最終目的地を確認した。
『深淵部』。
森の最奥、最も魔素が濃い場所。
そこに、彼が会いたくてたまらない「友人」がいる。
アルスは歩き出した。
足取りは軽い。
数年ぶりの再会に、胸が高鳴っていた。
「待ってろよ、マリモ」
彼は小さく呟いた。
アッシュバーデンの夜明けは近い。
しかし、その光が差す前に、彼らは「霧の樹海」の真実と向き合うことになるのだった。




