第2節「美しいポーション」で王が剥製になった件。 〜ドブ臭いと蔑まれた俺の薬だけが、本当は国を救っていた〜
狂っている。
アルスは思った。
この国は、上から下まで、美しさという名の毒に冒されている。本質を見ようともせず、表面的な輝きだけで生死さえも誤魔化してしまう。
もう、ここでは自分の言葉は届かない。
「さて……」
クラウスがゆっくりと振り返り、冷酷な笑みをアルスに向けた。
「陛下の御回復を祝うこの神聖な場に、未だに悪臭を撒き散らす不届き者がいるようですな」
貴族たちの視線が、一斉にアルスに突き刺さる。
それは軽蔑と、排除の目だった。
「アルス・ロウェル!」
ヴォルフ団長が剣を抜き、切っ先をアルスの喉元に突きつけた。
「貴様は神聖なる謁見の間を汚し、陛下に対して毒物を献上しようとした大罪人だ。その罪、万死に値する!」
「毒物ではありません。薬です」
「黙れ! その臭いが証拠だ! 貴様のような薄汚い『ドブの魔術師』は、この美しいホワイト・セレスティアには不要なのだ!」
ヴォルフの合図で、数名の近衛騎士がアルスを取り押さえた。
抵抗はしなかった。抱えていたフラスコだけは、割れないようにしっかりと胸に抱く。これだけは、彼らの汚い手には渡せない。
「判決を言い渡す!」
クラウスが、まるで王の代理人のように宣言する。
「元・宮廷錬金術師アルス。貴様を、王城および上層階級居住区からの永久追放とする! さらに、その身に染み付いた汚穢にふさわしい場所へ送ってやろう」
騎士たちがアルスを引きずり、謁見の間の大きな窓へと向かう。
そこからは、王都のはるか下層を流れる巨大な排水路、通称「ドブ川」が見下ろせた。
「ドブ川への投棄刑だ。貴様がお似合いのゴミ溜めで、ネズミと共に一生を終えるがいい!」
窓が開け放たれる。
ヒュオオオオオ……という風切り音と共に、眼下には灰色の雲海が広がっていた。そのさらに下、遥か数百メートル下に、王都の汚濁を一手に引き受ける最下層スラム『アッシュバーデン』がある。
貴族たちが嘲笑う。
「いい気味だわ」
「これで王都の空気も綺麗になる」
「さっさと落ちろ、ゴミ虫!」
騎士たちに担ぎ上げられ、アルスの体は窓枠の外へと押し出された。
足元には何もない。
落ちれば、普通なら助からない高さだ。運良く川に落ちたとしても、その衝撃と汚染された水で命を落とすだろう。それが彼らの計算だった。
だが。
その瞬間、アルスの顔に浮かんだのは、恐怖ではなかった。
彼は、下層から吹き上げてくる風を、胸いっぱいに吸い込んだのだ。
(……ああ)
その風には、上層の香水のような人工的な香りはない。
腐敗臭、鉄錆の匂い、カビの臭い。
一般人なら眉をひそめるその悪臭の中に、アルスは懐かしい成分を感じ取っていた。
硫化水素、メタン、アンモニア。
それらは、生命が活動し、死に、分解され、また新たな命の土壌となる過程で生まれる「循環」の匂いだ。
嘘で塗り固められた香水よりも、よほど正直で、力強い「命の匂い」。
(やっと、帰れるのか)
宮廷錬金術師として採用されてからの数年間は、彼にとって息苦しい牢獄だった。
見た目だけの成果を求められ、本質的な研究は否定され、毎日パワハラを受け続ける日々。
そこからの解放。
「さらばだ、アルス!」
ヴォルフが背中を蹴り飛ばした。
アルスの体が宙に舞う。
重力が彼を捉え、真っ逆さまに落下が始まった。
遠ざかっていく白亜の城。
窓から顔を出して嘲笑う、美しく着飾った人々。
彼らは知らない。
自分たちが今、唯一の「修理屋」を捨ててしまったことを。
王都の地下にはりめぐらされた巨大な下水処理機構。その繊細なバランスを、毎日泥まみれになって調整していたのが誰だったのかを。
(せいぜい、その美しさを保つといい)
アルスは風の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。
(僕がいなくなれば、その綺麗な城も、じきに君たち自身の排泄物で溢れかえることになるだろうけどね)
落下速度が上がる。
しかし、アルスは笑っていた。
手の中のフラスコを抱きしめ、彼は懐かしい故郷の泥の匂いに向かって、安堵の笑みを浮かべて落ちていった。
「ただいま、アッシュバーデン」
王都ホワイト・セレスティアから、一人の天才が消えた。
それは、この国の終わりの始まりであり――そして、最下層の伝説の始まりでもあった。
ヒュオオオオオオオオッ!!
耳をつんざく風切り音。
王都ホワイト・セレスティアの最上層から突き落とされた私は、猛スピードで落下していた。
眼下に広がるのは、灰色の雲海。
いや、あれは雲ではない。上層都市から排出されるスモッグと、生活排水が霧状になったものだ。
普通なら恐怖で失神してもおかしくない状況だろう。何しろ、数百メートルの高さからのフリーフォールだ。
だが、不思議と心は穏やかだった。
(ああ、この湿り気。この重たい空気)
上層の、人工的で無機質な「清潔な空気」とは違う。
肺の奥底まで染み渡るような、濃厚な有機物の香り。
それは、私の故郷、最下層『アッシュバーデン』の匂いだ。
ドッパァァァァァァンッ!!
凄まじい水柱が上がり、視界が真っ白に染まった。
いや、正確には灰色か。
私が着水したのは、王都の地下を流れる巨大な排水路、通称「ドブ川」の本流だった。
衝撃で身体中の骨がきしむが、幸いにも水深があったおかげで即死は免れたようだ。もっとも、この川の水質そのものが致死レベルの猛毒を含んでいるのだが。
ブクブクブク……。
水中で目を開ける。
視界は濁っていてほとんど何も見えない。
だが、肌に触れる水流のぬめり、舌先に感じるピリッとした刺激、そして鼻腔を突き抜ける腐敗臭。
それら全てが、私にこう告げていた。
「帰ってきたんだ」
ザバァッ!
私は水面に顔を出し、大きく息を吸い込んだ。
「プハァッ! ……ゲホッ、ゴホッ! うーん、やっぱりこの味だ!」
口の中に広がるのは、鉄錆と油、そして発酵した生ゴミの風味。
上層の貴族たちが飲んでいるミネラルウォーターよりも、よほど味わい深い。
私は川岸へと泳ぎ着き、ドロドロの地面に這い上がった。
そこは、見渡す限りのゴミ山だった。
壊れた家具、錆びついた機械部品、古着の山、そして得体の知れない生物の死骸。
それらが地層のように積み重なり、数百年かけて圧縮され、発酵し、独特の弾力を持つ大地を形成している。
一歩踏み出すたびに、地面がスポンジのように沈み込み、ジュワッと汚水が染み出す。
一般人なら「地獄」と呼ぶだろう。
上層民からは「掃き溜め」「ゴミ捨て場」と蔑まれる場所。
王都ホワイト・セレスティアの光が届かない、影の世界。
だが、私にとっては違う。
ここは、命のゆりかごだ。
「懐かしいなぁ……このフカフカ具合」
私は地面に大の字になって寝転がった。
背中から伝わる地熱。発酵熱によって、地面は常に生温かい。まるで巨大な生き物の腹の上にいるようだ。
空を見上げる。
そこには空はない。
遥か頭上を覆うのは、上層都市の巨大な基盤。
鉄骨と配管が網目のように張り巡らされ、そこから絶え間なく汚水が滴り落ちている。
雨ではない。上層民の生活排水だ。
彼らが顔を洗い、トイレを流し、工場を動かした後の水が、滝となって降り注いでいるのだ。
「灰色の滝……相変わらず壮観だ」
私はポツポツと顔に当たるそのしずくを、愛おしそうに拭った。
この水滴一つ一つに、上層の物語が詰まっている。
誰かが食べたスープの残り、誰かが流した涙、誰かが捨てた夢。
それらが混ざり合い、濾過され、ここアッシュバーデンに辿り着く。
「おーい! 誰か落ちてきたぞー!」
「生きてるかー!?」
遠くから声が聞こえた。
起き上がると、瓦礫の山から数人の人影がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
ボロボロの布を継ぎ接ぎした服を着て、背中には大きな籠を背負い、手には「魔法の杖」……ではなく、先がフックになった長い棒を持っている。
彼らは「スカベンジャー(ゴミ漁り)」。
このアッシュバーデンの住人たちだ。
「おいおい、上から人が降ってくるなんて久しぶりだな。死体かと思ったぜ」
「また借金苦の自殺志願者か? それとも処刑された罪人か?」
彼らは私を取り囲み、物珍しそうに覗き込んでくる。
その顔は煤と泥で汚れているが、瞳だけはギラギラと生命力に満ちていた。
「よお、みんな。元気にしてたか?」
私が手を振ると、彼らは一瞬キョトンとし、すぐに顔を見合わせた。
「ん? この声……」
「まさか……アルスか!? アルス・ロウェルか!?」
一人の男が声を上げた。
リーダー格のボブだ。禿げ上がった頭にゴーグルをつけ、義手になった左手には多機能ツールが埋め込まれている。
「ボブ! 久しぶりだな。義手の調子はどうだ?」
「おお、最高だぜ! お前が調整してくれたおかげで、細かいネジ一本まで掴めるようになったからな! ……って、なんでお前がここにいるんだ!? 宮廷錬金術師になったんじゃなかったのか!?」
「ああ、クビになったよ。永久追放だってさ」
私は濡れたローブを絞りながら、あっけらかんと言った。
すると、スカベンジャーたちは一斉に爆笑した。
「ギャハハハハ! やっぱりな! お前みたいな変人が、あんなお上品な城でやっていけるわけがねえと思ってたよ!」
「『ドブの魔術師』が、本当にドブに帰ってきやがった!」
「おかえり、アルス! こっちの方がお似合いだぜ!」
彼らは私の肩を叩き、背中をバンバンと叩いた。
その手は泥だらけで、爪の間には油が詰まっている。
でも、上層の貴族たちの、香水臭くて冷たい手よりも、ずっと温かかった。
「ああ、ただいま。……やっぱり、ここの空気はうまいな」
「だろ? 今日は特に『収穫』がいいんだ。上層で貴族のパーティがあったらしくてな、残飯やら高級な酒瓶やらが大量に流れてきてるんだよ!」
ボブが背中の籠を得意げに見せた。
中には、半分かじられたローストチキン、欠けた銀食器、ラベルの剥がれたワインボトルなどが詰まっている。
彼らにとって、上層からの廃棄物は「ゴミ」ではない。「宝」だ。
これを「宝釣り(トレジャー・フィッシング)」と呼び、彼らは日々、川から流れてくる漂着物を拾い集めて生活している。
「今日は宴会だ! アルスの帰還祝いも兼ねてな!」
「おお! 酒だ酒だ!」
彼らは歓声を上げながら、それぞれの住処へと戻っていく。
住居と言っても、まともな家ではない。
『煙突の根』と呼ばれる巨大な排水パイプの中をくり抜いたり、漂着したコンテナや鉄板を積み上げて作った『パイプの穴蔵』だ。
上層民からは『ゴミ虫の巣』と忌み嫌われている場所。
だが、中に入れば意外と快適だ。
壁には断熱材代わりの古着が貼られ、床には柔らかい腐葉土が敷き詰められている。自家発電のランプが暖かな光を灯し、どこからか拾ってきた鍋でスープが煮込まれている。
貧しい?
不衛生?
確かにそうかもしれない。
でも、ここには上層にはない「自由」と「助け合い」がある。
誰も見栄を張らない。誰も他人を蹴落とそうとしない。
ただ、今日を生きるために拾い、分け合い、笑う。
「さあ、アルス。お前の家も、そのまま残してあるぞ」
ボブが指差した先。
そこには、一際大きなガラクタの山……もとい、ユニークな建築物があった。
巨大な錆びたタンクを改造し、様々なパイプや歯車を組み合わせた、まるで移動要塞のような外観。
入り口には、傾いた看板が掲げられている。
『ハウス・デ・アッシュ』。
私の生家であり、かつての錬金術工房だ。
ドアノブは壊れた蛇口、窓ガラスは色とりどりの瓶底。
屋根からは蒸気がシューシューと吹き出し、煙突からは七色の煙が出ている。




