【第5項】森への帰還と幼き日の記憶:雨の中、懐かしき「遊び場」へ向かうアルスと、スラムの少年がドブ川の観察から見出した「命の循環」
雨は激しさを増していた。
アルスはフードを目深に被り、泥濘の道を進んでいた。
街の喧騒は遠ざかり、周囲は静寂に包まれていく。
いや、静寂ではない。
雨音の向こうに、無数の気配が蠢いている。
『霧の樹海』の入り口に近づくにつれて、空気の味が変わった。
鉄錆と、腐敗臭。そして、濃厚な魔力の味。
「懐かしいな……」
アルスは独り言を呟いた。
彼は嘘をついていなかった。
本当に、ここは彼の遊び場だったのだ。
幼い頃、彼はよく一人でここまで来ていた。
街の子供たちからは「ゴミ虫」と虐められ、大人たちからは「気味の悪いガキ」と避けられていた彼にとって、この森だけが、ありのままの自分を受け入れてくれる場所だった。
魔物は確かに危険だ。
だが、彼らは嘘をつかない。
殺意も、食欲も、全てが純粋だ。
上層の貴族たちのように、笑顔の裏で毒を盛るような真似はしない。
(……あの頃と、匂いは変わってないな)
アルスは深く息を吸い込んだ。
一般人なら即座に嘔吐するような悪臭。
だが、彼にとっては「故郷の香り」だった。
記憶の彼方から、当時の風景が蘇ってくる。
まだ背丈が低く、世界が大きかった頃のことだ。
***
アルス・ロウェルは、アッシュバーデンのスラム街で生まれた。
4歳の頃には父親がいなくなり、
上層から追放され生家に戻ってきた時には母親すらいなくなっていた。
彼には他の子供たちとは違う、特異な才能があった。
それは、「観察眼」だ。
彼はよく、街の中央を流れるドブ川のほとりに座り込み、一日中川面を眺めていた。
上層都市ホワイト・セレスティアから流れ落ちてくる、巨大な排水路。
その水は、毎日色を変える。
ある日は鮮やかな緑色。
ある日は毒々しい赤色。
またある日は、白濁した黄色。
「……今日は緑色か」
幼いアルスは呟いた。
緑色の日は、上層の錬金術工房が稼働している日だ。
廃棄された魔法薬の残りカスが混ざり、独特の薬臭さが漂ってくる。
この日は、川底に沈んだガラス片や金属片が、不思議な光を放つことがある。
それを拾い集めれば、スカベンジャーたちに高く売れた。
「……明日は赤色だな」
赤色の日は、染物屋が忙しい日だ。
上層の貴族たちが新しいドレスを注文したのだろう。
この日の水は、少し甘い匂いがする。
染料に含まれる植物のエキスだ。
これを煮詰めれば、安価なインク代わりになる。
アルスは川の色と匂いを見るだけで、上層で何が起きているかを分析していた。
「今日は王女の誕生日パーティーがあるらしい」
「明日は騎士団の演習があるみたいだ」
彼の予言は百発百中で、いつしか大人たちからも一目置かれるようになった。
「ドブの予言者」と呼ばれ、少しだけ虐めが減った。
だが、彼の興味はそれだけではなかった。
もっと根源的な、「命の仕組み」への探求心があった。
ある日、彼は森の入り口で、死んだ野良犬を見つけた。
誰かに殴られたのか、あるいは飢え死にしたのか。
痩せこけた体は既に冷たくなっていた。
普通の子供なら目を逸らす光景だ。
だが、アルスは違った。
じっと、その死体を見つめ続けた。
一日目。
死体は膨れ上がり、腐敗臭を放ち始めた。
ハエがたかり、ウジが湧く。
「汚い」「気持ち悪い」。誰もがそう言って通り過ぎた。
だが、アルスには見えていた。
死体の中で、無数の小さな命が蠢いているのが。
分解者たちだ。
彼らは死肉を喰らい、土へと還す作業を黙々と行っていた。
三日目。
死体の周りに、小さなキノコが生え始めた。
白くて可愛らしい、毒キノコだ。
それは死の養分を吸って成長していた。
死が、新たな命を生み出している瞬間だった。
五日目。
そのキノコを、ネズミが齧りに来た。
小さな命が、また別の命へと繋がっていく。
そしてそのネズミを、空から舞い降りた鷹が攫っていった。
アルスは悟った。
「汚い」なんてものはないのだと。
死も、腐敗も、排泄物も。
全ては循環の一部であり、命を繋ぐための神聖なプロセスなのだと。
「……綺麗だ」
彼は腐りかけた犬の死体の前で、本心からそう呟いた。
大人たちが聞けば、狂気だと罵るだろう。
だが、彼にとってそれは真実だった。
上層の貴族たちが着飾る宝石よりも、香水よりも。
この泥と腐臭の中にこそ、「生の本質」がある。
その確信が、彼を錬金術の道へと導いたのだ。




