【第4項】「翻訳の煙」の可能性と自警団との攻防:アルスの提案する「魔物との対話」という突飛な発想と、傷ついたグレイの葛藤と覚悟の決断
ハウス・デ・アッシュの工房に、重苦しい沈黙が落ちていた。
外の雨音だけが、やけに大きく響く。
新団長シークフリート・グレイと副団長エレオノーラ・ハインツの二人は、目の前の男の言葉を何度も反芻していた。
――僕があそこの『常連』だからね。
その言葉の意味を理解しようと、彼らの脳は必死に回転していた。
だが、何度考えても結論は一つだ。
「狂っている」。
『霧の樹海』は、アッシュバーデンの住民にとって禁足地だ。
一度入れば二度と戻れない、死の森。
そこを遊び場にしていた? 顔馴染み?
この男の常識は、どこか致命的に欠落しているのではないか。
「……アルス」
グレイが絞り出すように言った。
「アンタ、本当にわかってるのか? 今の森は、昔とは違うんだぞ」
「違う?」
アルスは旅支度を整えながら、きょとんとした顔をした。
その背中には、大きなリュックサック。中には食料や簡易テント、そして何種類もの怪しげな薬品が詰め込まれている。
「そうだ。……以前よりも遥かに凶暴で、数も多い。それに、さっきも言ったように、奴らは統率されている。……バルカスさんでさえ再起不能になったんだぞ!」
「だからこそだよ」
アルスはリュックのベルトを締めながら言った。
「統率されているなら、そのボスと話をつけなきゃいけない。……末端の兵隊といくら戦っても、キリがないからね」
「話を付けるだと……? 魔物のボスとか!?」
グレイは頭を抱えた。
やはり、この男とは会話が噛み合わない。
魔物と対話? 交渉?
そんなことができるなら、自警団は苦労していない。
「できるさ」
アルスは自信満々に言った。
「彼らだって生き物だ。理由もなく襲ってくるわけじゃない。……お腹が空いているのか、住処を追われたのか、あるいはもっと別の理由があるのか。それを聞くだけだよ」
「聞くって……どうやって?」
エレオノーラが問う。
「これを使うんだ」
アルスはポケットから、先ほど見せた小瓶を取り出した。
『翻訳の煙』。
紫色の煙がゆらゆらと揺れている。
「これは、魔物の発する魔力波形を人間の言語に変換し、逆にこちらの意思を魔力波形に乗せて伝える道具だ。……まあ、正確には『感情』を伝えるだけだけどね」
「感情……?」
「そう。『敵意はない』とか『腹が減った』とか『痛い』とか。……単純な感情なら、これで十分に疎通できる」
アルスは悪戯っぽく笑った。
「昔、これで『ポイズン・バット』に子守唄を歌ってやったことがあるんだ。……まあ、あいつらには騒音にしか聞こえなかったみたいで、総攻撃されたけどね」
「……笑えない冗談だ」
グレイは顔を引きつらせた。
「とにかく!」
アルスは手を叩いた。
「行ってくるよ。……日が暮れる前には戻るつもりだけど、もし遅くなったら先に食べててくれ」
彼はまるで、近所のコンビニへ行くかのような気軽さで言った。
そして、工房の出口へと向かう。
「待てッ!」
グレイが立ち上がり、アルスの前に立ちはだかった。
その巨体が、行く手を阻む壁となる。
「行かせんぞ」
グレイの瞳に、強い意志が宿っていた。
「俺たちは、アンタに知恵を借りに来たんだ。……アンタを死なせに来たわけじゃない」
「死なないよ」
「保証はない! ……アンタは非戦闘員だ。丸腰で戦場に行くようなもんだ。俺たちが、そんな無謀な真似を許すと思うか?」
グレイの声に、エレオノーラも頷く。
「そうよ、アルス。……もし行くなら、私たちも行くわ。足手まといかもしれないけど、盾くらいにはなれる」
二人の必死の訴え。
それは、彼なりの誠実さであり、責任感の表れだった。
自分たちを助けようとしてくれる恩人を、みすみす死地へ送るわけにはいかない。
アルスは困ったように眉を下げた。
「……気持ちは嬉しいけど」
彼は、グレイのボロボロの左腕と、エレオノーラの血に染まった包帯を指差した。
「その体じゃ、森の入り口までも持たないよ。……瘴気にあてられて、倒れるのがオチだ」
「ぐっ……」
グレイは言葉に詰まった。
図星だった。
今の彼らは、立っているのがやっとなのだ。
「それに」
アルスは続けた。
「君たちが一緒だと、魔物が警戒する」
「警戒?」
「ああ。……君からは、強烈な『血の匂い』と『殺気』がする。それは魔物を刺激するんだ。……僕一人なら、ただの『弱そうな獲物』か、あるいは『風景の一部』として認識される」
「……つまり、俺たちが邪魔だと言うのか?」
グレイは悔しげに唇を噛んだ。
「邪魔だなんて言ってないよ。……適材適所さ」
アルスはグレイの肩に手を置いた。
「君たちは、ここで街を守る指揮を執ってくれ。……もし僕が失敗して、魔物が溢れ出してきたら、最後の防衛線になるのは君たちなんだ」
それは、残酷なまでの正論だった。
グレイは拳を握りしめ、震える声で言った。
「……わかった。……だが、約束しろ」
「ん?」
「必ず、生きて戻れ。……アンタが死んだら、俺たちは一生、自分を許せない」
アルスは、グレイの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
そこには、戦士としての誇りと、友を想う優しさがあった。
「約束するよ」
アルスは力強く頷いた。
「美味しいご飯が待ってる家に、帰らない馬鹿はいないさ」
グレイは深く息を吐き、道を空けた。
「……行け。……頼んだぞ、ドブの魔術師」
「任せておいて」
アルスは工房の扉を開けた。
冷たい雨と風が吹き込んでくる。
彼は振り返ることなく、雨の中へと歩き出した。
エレオノーラが、その後ろ姿に向かって叫んだ。
「アルス! ……気をつけて!」
アルスは片手を上げて応えた。
鉄の扉が閉まる。
工房の中に、再び静寂が戻った。
残された二人は、ただ呆然と見送るしかなかった。
「……信じられるか?」
グレイが呟く。
「いいえ。……でも」
エレオノーラは窓の外、雨の中を歩いていくアルスの背中を見つめた。
「彼なら、何かやってくれそうな気がするわ」
こうして、傷ついた自警団のトップ二人は、最後の希望をアルスに託した。
それは賭けだった。
アッシュバーデンの存亡をかけた、大博打。




