【第5節】【第1項】ガラクタ城の錬金術師と自警団の決意:グレイとエレオノーラの来訪に隠された敗北の事実と、街を守るための最後の選択
アッシュバーデンの街外れ、ドブ川沿いに聳え立つ歪なガラクタの城。
『ハウス・デ・アッシュ』。
その煙突からは、今日も変わらず七色の煙が立ち上っている。
外の陰鬱な雨模様とは対照的に、そこからはスパイスの効いた食欲をそそる香りと、薬品のツンとする刺激臭が入り混じった、独特の「生活の匂い」が漂っていた。
工房の中で、アルスは作業台に向かっていた。
薄暗い室内を照らすのは、発光苔を封じ込めたランタンの青白い光と、煮えたぎる大鍋の下で燃える炎だけだ。
目の前には、沸騰するフラスコと、奇妙な深緑色をした液体が入ったビーカーが並んでいる。
彼が今作っているのは、自警団の怪我を治すための特製軟膏だ。
名付けて『腐敗沼の泥パック(マッド・ヒーリング)』。
主成分はドブ川の底から採取したヘドロと、カビの生えたパンくず、そして薬草の絞り汁。見た目は最悪で、匂いも強烈だが、殺菌作用と組織再生能力は王都の高級ポーションにも引けを取らない。
「……そろそろかな」
アルスは窓の外を見た。
雨音に混じって、重い足音が近づいてくるのが聞こえる。
一人ではない。二人……いや、もっと重い、何かを引きずるような足音だ。
そして、その足取りはあまりにも遅く、痛々しい。
コン、コン、コン。
控えめなノックの音が、鉄の扉を叩いた。
それは、助けを求める者の、消え入りそうな声のようだった。
「開いてるよ」
アルスが答えると、ギィィィ……と軋む音を立てて、重厚な鉄の扉がゆっくりと開かれた。
冷たい湿った風と共に、血と泥の匂いが工房に入り込んでくる。
そこに入ってきたのは、まるで戦場から蘇った亡霊のような二人組だった。
先頭に立つのは、巨漢の男。
シークフリート・グレイ。
アッシュバーデン自警団の副団長……いや、今は新団長となった男だ。
かつては上層の騎士団で名を馳せたという猛者。いつもなら、磨き上げられた鎧(といっても廃材の再利用だが)を纏い、胸を張って歩く彼だが、今の姿は見る影もなかった。
自慢の鎧はひしゃげ、右肩のパールドロン(肩当て)は失われている。左腕はボロボロの布で首から吊られ、顔の半分は血の滲んだ包帯で覆われていた。
何より衝撃的だったのは、その瞳だ。
常に鋭い眼光を放ち、荒くれ者のスカベンジャーたちを統率していた彼の瞳から、生気が失われていた。
その後ろに続くのは、赤髪の女性。
副団長に昇格したばかりのエレオノーラ・ハインツ。
彼女もまた、酷い有様だった。
しなやかな肢体を包む軽装の革鎧はあちこちが裂け、白い肌には無数の切り傷と、酸で焼かれたような火傷の痕が痛々しく残っている。右足を引きずり、杖代わりの折れた槍に全体重を預けて、ようやく立っている状態だった。
「……いらっしゃい」
アルスは作業の手を止め、努めて明るく声をかけた。
同情の色を見せれば、プライドの高い彼らを傷つけると知っていたからだ。
だが、二人の反応は鈍かった。
グレイはゆっくりと顔を上げ、アルスを見つめた。その目には、深い疲労と、隠しきれない絶望の色が浮かんでいた。
「アルス……」
掠れた声。
喉が焼けているのか、それとも叫びすぎて潰れたのか。まるで錆びた鉄同士が擦れるような音だった。
「すまない、こんな時間に……」
「いいんだ。待ってたよ」
アルスは二人に椅子を勧めた。
ガラクタを組み合わせて作った不格好な椅子だが、クッション代わりのボロ布が敷いてあり、座り心地は悪くないはずだ。
二人は無言で腰を下ろした。
その瞬間、緊張の糸が切れたように、グレイの巨体が大きく揺れた。
「……ふぅ」
深いため息。
それは、生き残ったことへの安堵ではなく、生き恥を晒していることへの嘆きに聞こえた。
「酷い怪我だね。まずは手当てをしよう」
アルスは先ほど完成したばかりの『マッド・ヒーリング』の入った壺を持って近づいた。
ドロリとした深緑色の軟膏を見て、エレオノーラが一瞬顔をしかめたが、すぐに力なく笑った。
「相変わらず……趣味が悪いわね、あなたの薬は」
「見た目は悪いけど、効果は保証するよ。君たちの傷なら、一晩で塞がるはずさ」
アルスは慣れた手つきで、二人の傷口に軟膏を塗っていった。
ベチャリ、と冷たい泥のような感触。
だが、塗られた瞬間、ジュワッという音と共に白い煙が上がり、傷口が熱を持ったように脈打った。
「ぐっ……!」
グレイが呻き声を上げるが、すぐにその表情が和らいだ。焼けるような激痛が引き、代わりにひんやりとした感覚が広がっていくのがわかるのだろう。
「……ありがとう」
処置を終えたグレイが、ぽつりと呟いた。
その言葉には、治療への感謝だけでなく、もっと深い、重い意味が含まれているようだった。
アルスは温かいハーブティー(これも色は紫だが)を二人の前に置くと、向かいの椅子に座った。
「それで……どうだった?」
アルスは核心を突いた。
聞くまでもないことだが、彼らの口から聞かなければならなかった。彼らがここに来た理由を。
グレイは沈黙した。
カップを持つ手が震えている。
エレオノーラが代わりに口を開こうとしたが、言葉に詰まって俯いてしまった。
長い沈黙の後、グレイが重い口を開いた。
「……全滅だ」
その一言が、工房の空気を凍りつかせた。
「俺たちは……負けたんだ。完膚なきまでに」
グレイは拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲むほどに。
「魔物の数は桁違いだった。種類も、連携も、個体の強さも……今までとは別次元だ。まるで軍隊だった」
「軍隊?」
「ああ。統率が取れていた。……俺たちを誘い込み、包囲し、殲滅する。あんな知能を持った魔物は見たことがない」
アルスは眉をひそめた。
『霧の樹海』の魔物は凶暴だが、知能が高いという話は聞いたことがない。
むしろ本能のままに暴れるのが常だ。
それが統率されていたということは、何者かが指揮していたのか? それとも、環境の変化が彼らをそうさせたのか?
「……バルカスさんは?」
アルスは、もう一人の重要人物について尋ねた。
今回の遠征には、引退したはずの前団長バルカスも参加していたはずだ。この街の精神的支柱であり、最強の戦士。彼がいれば、あるいは……と誰もが思っていたはずだ。
グレイの顔が歪んだ。悔しさと、自責の念で。
「……引退した」
「えっ……」
「再起不能だ。……あの人は、撤退する俺たちを逃がすために、一人で殿を務め、右腕を失った」
バルカス・ガストン。
『岩砕き』の異名を持つ伝説の戦士。
その彼が右腕を失った。戦士としての生命を絶たれたのだ。
その事実は、アッシュバーデンにとって計り知れない衝撃だろう。それは「最強の盾」が砕かれたことを意味する。




