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【第2項】ドブ川の予言者:幼少期のアルスが抱いた泥と腐臭への愛着、そして死を「循環」として見つめる異端の才能

 雨は激しさを増していた。

 アルスはフードを目深に被り、泥濘ぬかるみの道を進んでいた。

 街の喧騒は遠ざかり、周囲は静寂に包まれていく。

 いや、静寂ではない。

 雨音の向こうに、無数の気配が蠢いている。

 『霧の樹海』の入り口に近づくにつれて、空気の味が変わった。

 鉄錆と、腐敗臭。そして、濃厚な魔力の味。


「懐かしいな……」

 アルスは独り言を呟いた。

 彼は嘘をついていなかった。

 本当に、ここは彼の遊び場だったのだ。


 幼い頃、彼はよく一人でここまで来ていた。

 街の子供たちからは「ゴミ虫」と虐められ、大人たちからは「気味の悪いガキ」と避けられていた彼にとって、この森だけが、ありのままの自分を受け入れてくれる場所だった。

 魔物は確かに危険だ。

 だが、彼らは嘘をつかない。

 殺意も、食欲も、全てが純粋だ。

 上層の貴族たちのように、笑顔の裏で毒を盛るような真似はしない。


(……あの頃と、匂いは変わってないな)


 アルスは深く息を吸い込んだ。

 一般人なら即座に嘔吐するような悪臭。

 だが、彼にとっては「故郷の香り」だった。


 記憶の彼方から、当時の風景が蘇ってくる。

 まだ背丈が低く、世界が大きかった頃のことだ。


 ***


 アルス・ロウェルは、アッシュバーデンのスラム街で生まれた。

 両親の顔は知らない。

 物心ついた時には、すでに一人でゴミを漁り、その日暮らしをしていた。

 「親なし」「汚い」「臭い」。

 そんな言葉を浴びせられ、石を投げられるのは日常茶飯事だった。

 だが、彼には他の子供たちとは違う、特異な才能があった。

 それは、「観察眼」だ。


 彼はよく、街の中央を流れるドブ川のほとりに座り込み、一日中川面を眺めていた。

 上層都市ホワイト・セレスティアから流れ落ちてくる、巨大な排水路。

 その水は、毎日色を変える。

 ある日は鮮やかな緑色。

 ある日は毒々しい赤色。

 またある日は、白濁した黄色。


「……今日は緑色か」

 幼いアルスは呟いた。

 緑色の日は、上層の錬金術工房が稼働している日だ。

 廃棄された魔法薬の残りカスが混ざり、独特の薬臭さが漂ってくる。

 この日は、川底に沈んだガラス片や金属片が、不思議な光を放つことがある。

 それを拾い集めれば、スカベンジャーたちに高く売れた。


「……明日は赤色だな」

 赤色の日は、染物屋が忙しい日だ。

 上層の貴族たちが新しいドレスを注文したのだろう。

 この日の水は、少し甘い匂いがする。

 染料に含まれる植物のエキスだ。

 これを煮詰めれば、安価なインク代わりになる。


 アルスは川の色と匂いを見るだけで、上層で何が起きているかを分析していた。

 「今日は王女の誕生日パーティーがあるらしい」

 「明日は騎士団の演習があるみたいだ」

 彼の予言は百発百中で、いつしか大人たちからも一目置かれるようになった。

 「ドブの予言者」と呼ばれ、少しだけ虐めが減った。


 だが、彼の興味はそれだけではなかった。

 もっと根源的な、「命の仕組み」への探求心があった。


 ある日、彼は森の入り口で、死んだ野良犬を見つけた。

 誰かに殴られたのか、あるいは飢え死にしたのか。

 痩せこけた体は既に冷たくなっていた。

 普通の子供なら目を逸らす光景だ。

 だが、アルスは違った。

 じっと、その死体を見つめ続けた。


 一日目。

 死体は膨れ上がり、腐敗臭を放ち始めた。

 ハエがたかり、ウジが湧く。

 「汚い」「気持ち悪い」。誰もがそう言って通り過ぎた。

 だが、アルスには見えていた。

 死体の中で、無数の小さな命が蠢いているのが。

 分解者たちだ。

 彼らは死肉を喰らい、土へと還す作業を黙々と行っていた。


 三日目。

 死体の周りに、小さなキノコが生え始めた。

 白くて可愛らしい、毒キノコだ。

 それは死の養分を吸って成長していた。

 死が、新たな命を生み出している瞬間だった。


 五日目。

 そのキノコを、ネズミが齧りに来た。

 小さな命が、また別の命へと繋がっていく。

 そしてそのネズミを、空から舞い降りた鷹が攫っていった。


 アルスは悟った。

 「汚い」なんてものはないのだと。

 死も、腐敗も、排泄物も。

 全ては循環の一部であり、命を繋ぐための神聖なプロセスなのだと。


「……綺麗だ」

 彼は腐りかけた犬の死体の前で、本心からそう呟いた。

 大人たちが聞けば、狂気だと罵るだろう。

 だが、彼にとってそれは真実だった。

 上層の貴族たちが着飾る宝石よりも、香水よりも。

 この泥と腐臭の中にこそ、「生の本質」がある。

 その確信が、彼を錬金術の道へと導いたのだ。

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