まるでこの世界は
「言葉ですべてが変わるなんて……まるで小説の中みたいですね」
鉛筆と水筒をしまったアデーレは、車体に腰掛け、脚を揺らしていた。
ふと、カリウスは以前、造命種の狙撃手――フユの言っていたことを思い出した。
「確か……フユもそんな事を言ってたっけ」
「フユさんが?」
「あぁ。『人間は言葉の世界に囚われている』って。フユが休憩時間に小説を読んでて、そんな事を言ってたんだ」
カリウスは、ティーゲル号の転輪に脚をかけ、車体の上に登った。
ティーゲルの車体は2メートル以上の高い場所にあるが、カリウスはすっかり手慣れ、ハシゴを使わずとも、登れるようになっていた。
「ほら、本の中にある世界って、言葉だけのものだろ?」
「挿絵もありますけど……ほとんど文字、言葉ですよね」
「うん。本当に存在するものじゃないのに、人間は本の中の世界を、まるで現実と同じように考える。あ――」
「どうしました?」
「いや。もしかして、本の中の物語って、楽譜に似ているんじゃないかって」
「楽譜……ですか?」
アデーレが首を傾げると、兄は車体の上で姿勢を整え、空を見上げるようにして言葉を探した。
「うん。楽譜って、ただの記号の並びだろ。でも、演奏する人によって全然違う音になる。同じ曲でも、演奏者の腕前はもちろん、癖とか、気分で変わる。……物語も、そうなんじゃないかって」
「同じ内容なのに、読む人によって、想像するものが違うってことですか?」
「そう。例えば――青い空って書かれてても、読む人が想像する空の色は、北極圏のルーシと、赤道直下のインディアでは、まるで違うはずだ。北の方だと、白味がかった水色に近い青。赤道直下だと、強い青色に。」
「単に、犬や猫って書いても、想像するものが違いそうですね」
「うん。現実の世界を思い出すための手がかり、みたいなものかな……」
「そうだ兄さん。覚えてます? 家の書庫にあった冒険小説のこと、覚えてます? たしかタイトルは……『終わり得ぬ物語』でしたっけ」
「あぁ、あの赤い表紙の?」
「えぇ。……わたし、兄さんと同じ本を読んでいたはずなのに、兄さんと話すと、全然違う物語みたいだったんです」
「あれっ、そうだったかなぁ……?」
「兄さんは自由を求める物語だって言ってたけど……わたしには友達を守る物語に見えていました」
「だってほら、主人公が、かつての希望を我欲に変えてしまった、王だった者たちをやっつけて……」
「そして、王たちを倒した主人公もまた、望みと我欲の違いがわからなくなってしまった。そこで彼を助けたのが、親友の男の子だったじゃないですか」
「あっ、思い出した。たしかにそんな話だったかも」
「『物語は楽譜』。たしかに兄さんの仮説通りですね。ご自身で証明してます」
「うーん。納得できるけど、納得するとなんか悔しい……」
「別に間違ってるわけじゃないじゃないですか。ストーリーの通りですよ?」
「なんか、人によって全く別の物語があった、みたいだね」
「……そうかも知れませんね」
アデーレは、遠くを見るように目を細めた。
「ふと思ったんですけど……」
「なんだい?」
「もし、その一生を白い部屋で育った人がいたとして――
その人は、青い空という言葉を読んで、空の色を想像できるんでしょうか?」
「……空を知らない人が、空を想像できるか、か」
「その人は『青』も『空』も知らない。でも、言葉だけで世界を作らなきゃいけない。……その人の中では、どんな空が広がるんでしょう」
口を結んだままのカリウスは、ただ、妹の側に寄り添う。
すると兄は、アデーレの言葉をゆっくり解きほぐすように息を吐いた。
「もし、青が冷たいとか、静かとか、そういう風に使われていたら、白い部屋の中でも『青い空』は形作られるとおもう。冷たく静かな、孤独な空。俺たちの知ってる空とは違う空。でも、決して間違いじゃない。その人だけの空だ」
「その人だけの……」
「アデーレ?」
「もし、戦争を知らない世界があったら――
自由は、平和は、戦争は、どういった風にその人たちの中で描かれるんでしょう」
「……」
カリウスは、いや、狩生は答えられなかった。
彼が生きた前世の日本。
そこでは、狩生が生きている間に「戦争」はなかった。
狩生が想像する戦争は、ゲームや映画、アニメの中のもの。
ある種の娯楽でしかなかった。
今の狩生は「現実の戦争」の中にいる。
現実の戦争は決して娯楽のそれとは違う。
だが、塗炭の苦しみだけかと言えば、それも違う。
想像できるもの、まるで想像できなかったもの。
様々な「色」が混じっていた。
(俺は――戦争を知らない世界の人間だった。戦争も娯楽のジャンルのひとつだった。鮮烈で、刺激的で。でも、実際は違う。現実の戦争は日常の延長だ。ただ淡々としてる。これを言葉でいうなら、そう――)
世界が、あまりにも「当たり前にそれを受け入れてる」。
娯楽の中の戦争は、画面の向こう側の出来事だった。
映画の戦争は、ギラギラとした爆発と鮮血、銃炎の色に彩られていた。
だが、目の前の光景はどうだろう。
春の穏やかな日。森の中には、柔らかなパステルカラーが漂っている。
空の青。陽光に乾く足元の泥。野草が織りなす緑と花のヴェール。
静かなキッチンの壁や、春の花を飾る花瓶に似合う色調だろう。
争いは過ぎ去った。
そこにはただ、平和な絵画のような静寂だけがある。
――だが、その穏やかな色彩の下には、慰めを拒む光景が広がっていた。
砕け、よじれた肉塊が、花の代わりにその風景の一部として置かれている。
死が、日常と地続きの色調で塗りつぶされている。
この歪な『当たり前』に慣れていく世界。
叫びも銃声も、とっくに世界の一部となった。
この美しすぎる風景の中で、腐敗していく肉体だけが最後の完成を待っている。
命を奪う営みが、家庭の平穏と同じ色調で描けてしまう。
何の遠慮もなく、ただそこにあるという何気なさ。
それがカリウスには、何よりも薄ら寒かった。
「――中隊長、よろしいでしょうか」
不意に鼓膜を叩いたのは、無機質な無線のノイズを纏った部下の声だった。
パステルカラーの風景が、一瞬にして硝煙と泥の臭いが立ち込める「戦場」という実務の場へと書き換えられた。
「……ああ、報告を」
カリウスは、自分でも驚くほど平坦な声で答えた。
「はい。エーリッヒ大佐に提示報告をした所、大佐から良い知らせが」
「エーリッヒ大佐から、良い知らせだって?」
「はい。援軍を――予備兵団から5個師団の援軍を送ってくださるそうです」
カリウスの喉が音もなく上下した。
(……やはり、懸念していた通りの動きになったか)
難しいシーンに遅滞されて、再びストックを使い切りました。
ひんっ
大佐がこのタイミングで援軍を送るのは…
そうだね、終わりの始まりだね。




