大学
1934年。
カリウスが大学に入学して間もない頃のことだった。
史学科の大講義室。
古い木製の机が並び、窓から差し込む光が埃を照らしている。
初回ガイダンスということもあり、学生たちはざわついている。
あれを受けるべきか、これを受けるべきか。
いや、単位目当てならあれが良いと先輩から聞いたぞ。
なんとも学生らしい短慮な言葉が、彼の前後左右で飛び交っていた。
カリウスは前側の席でノートを開き、教授の説明を淡々と聞いていた。
「――以上が、史学科の年間カリキュラムだ。さて、講師の説明だ。今年は特別豪華だぞ。なにせ、歴史を目撃した張本人から講義を受けられるからな」
その瞬間、教室の空気がわずかに変わった。
教授が黒板の前から退き、教壇の裾に視線を向ける。
「紹介しよう。シャルロッテ・エルンスト博士だ」
カリウスは、その名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
(……シャルロッテ? まさか――)
背後大講義室の扉がゆっくりと開く。腰までの長さの銀色の髪を風に膨らませ、入ってきたのは耳の長い、エルフの女性だった。
だが、彼女の両腕は――肘から先が、淡く輝く精霊銀の義手だった。
金属の義手は、まるで生き物のように滑らかに動く。
大して複雑な機構もなさそうな、中世のガントレットそのものなのに。
彼女の一挙一投足が光を吸い、光を返す。
別の空間を切り取って貼り付けたかのように、その存在自体が異質だった。
教室が静まり返る。
シャルロッテは無言で教壇に立ち、学生たちを見渡した。
その瞳は、夜空に浮かぶ月のように静かで、しかし底が見えない。
カリウスは数秒、呼吸を忘れた。
(……シャルロッテ・エルンスト。間違いない。銀髪に、銀の義手。
将軍が言っていた姿と寸分変わらない姿。――銀魔女だ)
スタインドルフ将軍が語っていた、メッシーヌの帝国陣地を吹き飛ばした魔女。
世界を歪め、エーテル災害の引き金となった存在。
それが何故か、大学の教壇に立っている。
カリウスの頭の中はぐるぐるして、どうにかなりそうだった。
シャルロッテは教壇に立つと、義手の指を軽く鳴らし、静かに口を開いた。
「……私はシャルロッテ・エルンスト。専門は中世史、とくに西方と東方の宗教戦争、および騎士修道会の軍事史になります」
その声は丁寧で淡々としている。なのにどこか、苛烈な荒々しさが滲む。
「中世史と言っても――私は〝研究した〟のではなく、この目で見て、体験してきました。だから、教科書の記述と私の説明が食い違う場合――大抵は教科書の方が間違っています」
学生たちがざわつく。
教授が慌てて咳払いしたが、シャルロッテは気にする様子もない。
「まず、西方――イスパニアのレコンキスタ。サンティアゴ騎士団の南進に参加しましたが……あの頃の彼らは、教科書に書かれるような聖戦の英雄ではありません。もっと泥臭く、もっと愚かで、もっと……人間らしかった」
学生たちの表情が固まり、カリウスも息を呑んだ。
(……参加した? レコンキスタに? 千年前の戦争に?)
シャルロッテは続ける。
「東方についても同じ。ゲルマニア騎士団の東方植民――あれは開拓ではなく、ただの侵略です。私はポラーニェ・リトヴァ同君連合側で参戦しました。だから、あの戦争についてレポートを書くなら……」
義手の指が、教壇の天板を軽く叩いた。
「……ごまかしは効きません。私は全部、見ていますから」
教室が凍りついた。学生たちは誰も笑わない。
誰もが冗談ではないと分かってしまったからだ。
シャルロッテはすでに何度も呼んだ本のページをめくるように続ける。
「歴史とは、勝利者の語る物語です。私はそれに対し――生き延びてしまった者として、是否を唱える。私の授業は、ただそれだけです。」
その言葉は、静かに、しかし重く教室に落ちた。
カリウスは、彼女の視線が再び自分に向いた気がした。
「さて――」
シャルロッテの言葉が途切れた瞬間だった。
しん――と、教室が静まり返った。
いや、静かになったのではない。
完全に止まった。
紙をめくる音も、椅子の軋みも、隣の学生の呼吸すら聞こえない。
カリウスは思わず左右を見回した。
(……え?)
皆が、動きを止めていた。
まるで絵画の中に閉じ込められたように。
「時間が止まっている?」
思わず漏れた呟きに、銀の手が、かすかに反応した。
シャルロッテだけが動いていた。
教壇から、こちらへ向かってくる。
その歩みは静かで、しかし世界の外側から近づいてくるような異質さがあった。
カリウスの心臓が掴まれたように跳ねる。
恐怖と同時に、彼女の美しさに、心の奥へ石を投げ込まれたような衝撃が走った。
シャルロッテは机の前に腰を乗せ、銀の義手の指先をこすり合わせた。
りん――。
鈴のような音が、止まった世界に響く。
「……お前は、《《本当に》》フランツ・カリウスで間違いないか」
乱暴に名を呼ばれ、カリウスは息を呑んだ。
目の前の銀魔女にさっきの丁寧さは微塵もない。
いや、殺意まで行かないまでも、敵対的な意志すら感じた。
「はい。貴方は、一体何なんですか……」
問いかけた瞬間、シャルロッテの表情がわずかに歪んだ。
不快そうに、眉をひそめる。
「待て、私が何者か知りたい……だと?」
その声音は、冷たく、鋭い。
まるで質問そのものが間違いだと言わんばかりだった。
シャルロッテはカリウスではなく、カリウスの〝横〟を見た。
誰もいない空間。
虚空。
そして、《《こちら》》を見た彼女は首を振った。
動きに遅れて、滑らかな銀髪が揺さぶられる。
「いや、違う。それはお前の疑問でなく、彼らのものだ」
(……いったい誰と話してるんだ?)
まるで何一つ理解ができない。
カリウスは怪訝な表情を浮かべるしかなかった。
シャルロッテは、こちらに視線を戻した。
「手短に説明する。お前の父――ゲオルクとの約束通り、お前の魔法は私が鍛える」
「……父さんと、約束?」
「そうだ」
銀の手が、机を軽く叩く。
「ゲオルクは、私の〝後始末〟を見て、ティーゲル号の構想を思いついた。メッシーナの異界化した戦場に、私がエーテル缶を運び込み、変異を抑制したのを見てな」
カリウスの目が見開かれる。
(……じゃあ、ティーゲル号の主砲の機能は……銀魔女が元になっていた?)
シャルロッテは淡々と続ける。
「だから私は、ティーゲル号の開発に関与した。ゲオルクの理論は優秀だったが、魔法の実際が欠けていた。だから私がそれを補った」
彼女の説明には一切の淀みがないのに、どこか引っかかる。
まるで〝カリウスが知ってて当然のこと〟を述べているようだった。
「そして――」
シャルロッテは、カリウスの胸元に視線を落とした。
「幸いにも、お前の中には、まだ『力』が残っている。消えてはいない。ただ、間抜けにも眠りこけているだけだ」
鼓動が早まる。緊張、そして恐れ。何もかも見透かされているような。
「……どうして、僕に……?」
「お前がカリウスだからだ。そして――」
銀の手が、カリウスの頬の近くをかすめる。
触れない。
だが、冷たい魔力の気配が肌を撫でた。
「お前は、私の――〝魔女の弟子〟になるよう、予定付けられている」
その瞬間、止まっていた世界が、音を取り戻した。
ざわめき。
椅子の軋み。
紙の擦れる音。
「お、拾ってくれたんだ、ありがとな!」
「え?」
気づくと自分の手の中に、見知らぬペンが握られていた。
「俺はレオン、レオン・ブラントだ。よろしくな」
「え、えぇ……よろしく」
シャルロッテは、すでに、何事もなかったかのように教壇へ戻っていた。
カリウスは呆然と座ったまま、ただ彼女の姿を見つめていた。




