アルデナの森の戦い(1)
――1936年 4月20日。
アルデナの森に、鉄の獣の律動が響く。
闇を握りしめた森の梢が手を合わせ、垂れ下げた緞帳の向こうで、音だけが歩みを進めていた。
車体そのものはまだ姿を見せない。
履帯の軋む悲鳴のような金属音が、鋼鉄の獣たちがすぐそこにまで迫っているという確信を、息を殺してその時を待ち受ける兵士たちに突きつけてきた。
カリウスは、エンジンを切ったティーゲル号の運転席のハッチから身を乗り出し、装甲の上に増える水滴の点を数えるように手元を見据えた。
森の空を覆う天蓋の隙間から、ぽつぽつと雫が落ちてきている。
雨だ。
「好都合だな。もっと激しくなってくれれば、兵士の息を隠してくれる」
「はい兄さん。天候が味方してくれてます」
雨は移動や索敵を困難にする。
とくに今回戦場になるアルデナの森では影響が大きかった。
このあたりの地盤は砂岩質で、基本的に水を保ちやすい。
丘陵と丘陵の間には湿地が広がり、重装備の立ち入りを防ぐ。
晴天が続けば泥が固まり、105mmの比較的重い野砲でも湿地に展開できる。
だが、雨が続けばそうは行かない。
この雨が後2日も続けば、戦車や車両は泥を避けるために丘陵の稜線を辿って、シルエットを暴露しながら進まなくてはならなくなるだろう。
カリウスの視界の先、泥濘む街道の向こうから「帝国」の鉄塊が姿を現した。
明らかに大隊規模――総数約30両あまりという圧倒的な物量だ。
先頭をゆくのは、20mm機関砲を突き出した快速軽戦車『ペッカード』の群れ。その後方に、37mm砲を備えた主力『ラスプ』が、獲物を狙う獣のように身を潜めて続く。
帝国軍の車長たちは、雨に打たれながらもハッチから身を乗り出し、我が物顔で周囲をにらみつけていた。
その後方には歩兵を乗せたトラックが数多く連なっているが、随伴歩兵として展開する気配はない。荷台に乗ったままだ。
トラックは10両で1隊の縦隊を組み、泥を跳ね上げながら悠々と進軍してくる。
だが、その進路はカリウスの計算通りだった。 侵攻路となる街道を左右から斜めに挟み込むように、t-47対戦車自走砲8両がダグイン――車体を深く土に埋め、その鋭い砲先だけを覗かせて待ち構えている。
車体の簡易砲塔に搭載されているのは、連盟の徹甲弾特化型の47mm砲だ。
60mmから70mmの装甲を容易く撃ち抜くその主砲は、帝国の軽戦車群を屠るには十分すぎる威力だった。
そして街道の正面。 カリウスが直接指揮を執る歩兵たちは、幾重にも張り巡らされた塹壕線の中に潜んでいた。
雨音に紛れ、軽機関銃にマガジンを差し込む金属音と、80mm迫撃砲の射撃準備を終えたオークの兵士たちの荒い吐息が響く。
「……引きつけろ。まだだ」
敵は、自分たちが十字砲火の「殺し間」に足を踏み入れようとしていることに、まだ気づいていない。
カリウスは愛国連隊の将校を逃がす時、わざとウソの焦点をずらした。
帝国軍の将校に与えられた情報は、「ベリエ軍は撤退中。その進路はアルデナの森北方、メース川」というもの。
だが、将校の檻を後にする時、カリウスはわざと「フロレンヌへの撤退を急げ」と、こぼした。
言われたチップスと周囲の見張りにとって、それは単に「イヤーロップの避難」を急げ、という意味でしかない。
だが、将校の頭の中では「ベリエ軍はフロレンヌに撤退する」という内容として受け止められた。
ここで彼の頭の中で、ある化学反応が起きる。
北のメース側か、西のフロレンヌか、そのどちらかにベリエ軍は撤退する。
この二択が、カリウスの〝ウソの焦点〟だと思い込む。
だが、違う。
――《ベリエ軍は撤退する》。この前提そのものが、ウソなのだ。
彼らは完全にベリエ軍――カリウスたちがここに居ないと信じ切っている。
帝国の装甲師団は一列の縦隊となって、なおもゆったりと進んでいた。
泥濘に沈む履帯が鈍い音を立て、雨粒が砲塔を叩く。
目の前に立ち上がる暗い緑。
それに向かって突き進んでいく彼らに、警戒の色はない。
先頭をゆく車長の一人が、濡れた手でタバコを口に運び、火の点いた先端が闇の中でホタルのように瞬いた。
◆
なぜ帝国軍の装甲師団が少数で、細長い縦隊になって進軍しているのか。
これは、怠慢や無能からくるものとは少し違う。
軍隊という組織の構造上、必然的に起きる現象だ。
本来、軍隊というものは、敵と接触する前に「発起点」と呼ばれる場所に到達し、そこで初めて横に広がって戦闘正面を作る。
それまでは、どれほどの大軍であっても、一本の縦隊で進むしかない。
地形、道路の幅、補給の流れ、指揮統制――そのすべてが、巨大な師団を一本の蛇のように圧縮するのを求めるからだ。
帝国軍がいま見せている姿は、怠慢でも油断でもない。
むしろ、正規軍として最も「正しい」移動の形態だった。
彼らは戦闘隊形を組んで進む理由がない。
発起点は、フロレンヌの手前にあるのだから。
本来ならもっと厳重に偵察するだろう。
いや、してしかるべきだ。
しかし偵察とは、敵の存在を疑うところから始まる。
だが帝国軍は、カリウスが投げた《《ウソの焦点》》に完全に絡め取られていた。
撤退した敵を追うだけの行軍に、精密な偵察は不要だ。
彼らは、敵がいない森をただ通過するつもりでいた。
その思い込みこそが、最大の死角だった。
――フロレンヌへの撤退を急げ。
カリウスはたったこれだけの言葉で、致命的な隙を作り出してしまった。
◆
アデーレは車長席に座ったまま、カニの目のようにレンズが上方に飛び出た双眼鏡を覗いていた。
この装置は砲隊鏡と呼ばれ、潜望鏡のようにレンズだけを高く突き出すことができる。おかげで彼女は、頭をハッチから出さずとも、安全な車内から戦場の隅々までを見渡すことができた。
さらに、左右に大きく開いたレンズは、遠くの景色をジオラマのように立体的に映し出し、通常の双眼鏡よりも正確に敵との距離を教えてくれる。
もちろん、こんな高級品が、ベリエの二線級部隊である予備兵団に支給されるはずがない。魔導ジャイロと一緒に帝国軍から「拝借」したものだ。
「アデーレ、そちらから敵の数が見えるかい?」
「はい。敵の大隊はリスト上では70両ですが、実働は半数の35両ですね」
「ずいぶんと減ったね。とはいえ、圧倒的物量には変わりないけど」
「はい。8両みんなに平等に分けても5両弱。みんな戦車エースになれますよ」
「帝国も気が利くね。仲間はずれがでなくてすむのはありがたいや」
帝国軍は、アルデナの主導権を握ったと完全に信じている。
その油断こそが、ベリエにとって最大の武器だった。
「兄さん。車列の先頭は時速20kmでキルゾーンに侵入中。車間を大分詰めてます。あれなら、先頭を撃てば、確実に玉突きを起こします」
「……よし、始めよう」
兄は双眼鏡を静かに下ろした。
雨が頬を伝い、冷たさが皮膚の奥に染み込む。
距離、400メートル。
47mm砲の散布界が絞られ、ほぼ必中になる間合い。
彼は深く息を吸い、声を張り上げた。
「――射撃開始。各個に狙って撃て!」
その瞬間、暗い森の中がパッと光った。
まるで闇の底に潜んでいた何かが、牙を剥いて一斉に閃いたかのように。
次の刹那、鼓膜を震わせる金属質な破裂音が連続し、街道の空気が震えた。
先頭を走っていた「ペッカード」の車体上に溜まっていた雨水が、徹甲弾の衝撃で一気に跳ね上がり、白い霧となって散った。
車体全面の鋼板を貫いた47mm砲弾は、榴弾の充填されていない実体弾だ。
ペッカードの内部に潜り込んた鉄の塊は、派手な爆炎を生まない。
ただ、装甲を穿つとともに、砕けた鉄片を車内に吹き込み、沈黙をもたらす。
――まるで、寡黙な死神の鎌だ。
カリウスは、砲声の合間に響く金属の悲鳴を聞きながら、冷徹に状況を見極めた。
敵の縦隊が乱れ始める。
車長たちが慌ててハッチを閉め、トラックの列が混乱して止まりかける。
「まだ撃てる。撃ち続けろ」
雨の中、連盟の47mm砲が次々と火を噴いた。
閃光が森の奥で脈打ち、街道には次々と甲高い金属音が立ち上る。
帝国軍の慢心は、いままさに代償を支払わされていた。
カリウスは目の前で繰り広げられる光景を見て、自分の中でねっとりとして形のなかったものが、急に立ち上がったような感覚に襲われていた。
(僕は人の死に慣れるつもりはない。
ただ、チップスに『覚悟が足りない』と言われて、ようやく気づけた。
この期に及んで、殺さないという手段が取れると思っているのなら、
それはなんて傲慢で、愚かしいことだろう。
人は各々、毒を飲んでいるんだ。
誰かにとっては薬になる、そんな毒を)
◆
カリウスの胸の奥には、ずっと変わらない望みがあった。
「人の死に慣れたくない」
その望みは、戦場にあってもなお、人間であろうとする最後の輪郭だった。
だが、チップスの言葉が突きつけたのは、その望みが「獣であろうとする」人々のいる現実の前では、無傷ではいられないという事実だった。
綺麗な手でいようとすることは、誰かに汚れを押しつけることでもある。
「殺さない」という選択肢は――
実のところ「誰かに殺させる」という選択でもあった。
その矛盾に気づいたとき、カリウスは悟った。
自分の望みは、いま必要とされている行動とは両立しない。
仲間を生かすためには、自分が避けてきた「毒」を飲むしかない。
それは、死に慣れることとは違う。
むしろ逆だ。
死に慣れたくないという望みを抱えたまま、それでも引き金を引くということだ。
望みと必要は、互いに相反する。
しかし戦場では、その二つをどちらか一方に切り捨てることはできない。
望みを捨てれば心が死に、必要を拒めば仲間が死ぬ。
その狭間で、カリウスはようやく理解する。
望みを守るために必要を拒むのではなく、望みを抱えたまま必要を選ぶこと。
それこそが、シャルロット教授の言った「人の望むものと、その人に必要なものは違う」という言葉の意味なのだろうと。
そして今、彼の眼の前には「必要なもの」が差し出されている。
カリウスはそれを見据え、静かに覚悟を固めた。
望みを捨てず、必要を選ぶために。
人間であり続けることを諦めず、人間であることの代償を払うために。
「――撃て!!」
シャルロッテ教授は彼の心を見抜いたうえで
カリウスを戦争機械にするためにこの「毒」を埋め込んだかもしれません
彼が止まる、あるいは死ぬと困るから。
教授、マジ怖い。
ちなみにカリウスの嘘があってもなくても、帝国軍は縦列を組んでやってきます。
ただしその場合の先頭集団は、今回より即応性が高かったはずです。




